説教

つまずかせてはならない 工藤 浩栄

マルコによる福音書9章42節

2000年前のイスラエルでイエスが語った福音は、当時の常識からみてかなり風変りなものでありました。イエスはユダヤ人としての素養がなかったのではありません。誰よりも聖書に詳しく、誰よりも神様を愛していました。ただ細かいことにこだわりませんでした。
当時のイスラエルの人々を縛っていたのは、旧約聖書に記されている律法でした。律法は、神様とイスラエル民族の聖なる約束です。律法を守って敬虔に生きることは、神様との約束を果たすことです。律法を守ることで神様に認められ、祝福されるのです。イエスは、決して律法を無視して生きていた訳ではありません。細かいことにこだわらなかっただけです。
イエスは力のある者には厳しく、力のない者には寛容でした。イエスは人々に福音を説きましたが、それは貧しい人への福音でした。イエスが心にかけたのは、富める者ではなく貧しい者に対してでした。神の律法を守って正しく生きることができる人ではなく、正しく生きることができない人たちでした。イエスは貧しい者、正しくない者の負い目を知っていました。イエスが語った福音は、旧約聖書から派生したものが数多く含まれていますが、イエスご自身によって新たに語られた福音がいくつもあります。代表的なものを三つ紹介させていただきます。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6: 20 b)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44b)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17b)
キリスト教徒でなくとも、これらの聖句は知っているはずです。またこれらの聖句によって、どれだけ多くの人が慰められたことでしょう。これらはイエスが、弟子たちやイエスの許に集まる群衆に対して語った言葉です。そして、これらの言葉の通り、イエスは貧しい者の友となり、社会から捨てられた人々を癒されたのでございます。そして、十字架の苦難の中で敵を赦し、自分を迫害する者のために祈ったのでございます。
イエスは強い者の敵であり、弱い者の味方でした。今日の説教題は「つまずかせてはならない」でございます。そして今日の聖書は、マルコ福音書9章42節の一ヶ所のみでございますが、関連する37節および41節を含めて学んで参りたいと思います。と言うのは、38~40節が、マルコによって後から挿入されたものだと考えられているからです。
38~40節を除いて37節および41~42節を続けて読んでみたいと思います。


37
わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(中略)
41
はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
42
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。


イエスが弟子たちに対してこのような教訓めいたことを語った理由は、イエスご自身が十字架の運命を覚悟し、弟子たちに覚悟を促しているにもかかわらず、弟子たちは、誰が一番偉いのかについて議論していたからです。イエスはここで、「35bいちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と弟子たちを諭しました。そこに、現れた子供を抱き上げて、「37わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と語りました。

当時のユダヤ人社会では、子供は律法を守れないが故に、価値ある存在とは見做されませんでした。子供は弱く、人の世話にならなければ生きられません。自分の思い通りにならなければ、泣くよりほかにない愚かな存在です。知恵もなく、節度もなく、すぐに行き詰まって泣くのが子供です。この時代の子供は、弱さや無力さの象徴でもあります。


イエスが大切にしたのは、子供のように無力で弱く、自分に不都合なことがあっても反抗もできず、泣き寝入りするほかないような貧しい人々でした。このような人々を放って置いたならば、死んでしまうかも知れないからです。


神様は、このような貧しい者や小さな者を、黙って見過ごすことができない方でございます。神様は、貧しい者や小さな者が放置されていること、すなわち人々から見捨てられていることに、心を痛めておられるのでございます。


弟子たちは、イエスがエルサレムに上った暁には、イスラエルの新しい王になるのではないかと期待していました。弟子たちは、イエスに偉大な王を期待していたのです。そして、イエスに続く自分たちもまた、偉大になるだろうと期待していました。彼らの中で誰が一番偉いのかについて議論していたのであれば、偉くなりたい思いが強まっていたのです。この世にあって、当たり前のように見られることです。しかし、イエスの語った神の国はそうではないのです。
 
37節にある「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者」、
41節にある「キリストの弟子」、
42節の「わたしを信じるこれらの小さな者」は、それぞれ表現は違いますが、イエスの弟子たちのことでもあり、イエスに寄って来る子供のように、無力で価値のない存在でもあります。要するに、すべて「イエスを信じる小さな者」を指しています。
 
41
はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。


キリストの弟子とは、福音書に登場する十二使徒でもあり、イエスを信じる私たちでもあります。高ぶる弟子たちに対して、イエスは35節bで「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と諭し、謙遜になるように勧めました。キリストの弟子であると言うことは、謙遜な者ということに留まらず、もっと大胆に、小さき者、貧しい者と言えるのではないでしょうか。
そうであるならば、「小さき者、貧しい者という理由で、その人たちに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」、と読み替えることが可能です。神ご自身が、最も貧しい人に、最も渇いた人に一杯の水を飲ませてあげたいのです。神ご自身が望んでいるように、最も貧しい人に、最も渇いた人に一杯の水を飲ませてあげる人を、神様は決して忘れることはないのでございます。
 
41節は、イエスの弟子たちに対する激励の言葉でもあります。弟子たちは未だ、イエスの十字架の運命に気づいていません。しかしながら、十字架の場面において、彼らはイエスを裏切り、散り散りに逃げ去りました。イエスご自身が、十字架上で最も貧しく小さな者となったばかりでなく、彼らの高ぶった自尊心は粉々に砕かれたのでございます。誇るものを全て失い、罪悪感と世間に対する後ろめたさに苛まれ、彼らもまた貧しい者となったのです。そのような過程を経て、ようやく生前イエスが語った、「貧しい者は幸いである、神の国はその人たちのものである」の意味が分かり、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」、そのことを信じ、福音を告げ知らせたのでございます。
 
42
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
 
41節が、小さき者に対して親切にする者に与えられる神の報いを説いているのに対し、42節は逆に、小さき者をつまずかせる者に対する神の怒りを説いています。イエスはこの場面で、かなり過激な表現を用いています。大きな石臼とは、驢馬に引かせる石臼のことを指しています。また当時のユダヤ人は溺死を大変忌み嫌ったと言われています。したがって、石臼を首にかけられ、海に沈められるというたとえは、ユダヤ人にとって、一度聞いたら忘れられないような恐怖心を煽るものだったようです。もちろん、これはイエスのたとえ話です。小さい者に意地悪をしたからと言って、そうなる訳ではありません。しかしながら、イエスが敢えてこのような言い方をしたのは、イエスご自身が、小さき者、貧しい者に心をかけておられたからでございます。
足の丈夫な人は、多少のことがあってもつまずきません。つまずきやすい人とは、決まって小さな子供、年老いた人、障がいを持つ人です。小学校などで、弱い子供に足を引っかけてわざとつまずかせたことはないでしょうか。それは悪いことで、いじめです。
 
42節では、「わたしを信じる小さな者の一人」とありますが、これは子供のように無力で、何か自分に不都合なことがあれば、泣くよりほかないような人のことです。しかし、子供は無邪気にイエスについて来たがるのです。これまでイエスの許に来た人々とは、絶望の淵をさまよっていた人ばかりです。イエスに最後の望みを託し、体一つでイエスの許に赴いた人たちばかりです。福音書を読む限り、イエスが彼らからお金をもらった形跡は認められません。本当にただで癒してあげたのだと考えられます。
 

今日の聖書の主題は、イエスの弟子たる者の心得です。イエスは弟子たちに対して、また私たちに対して、小さい者を決してつまずかせてはならないと勧めています。しかしながら、この世にあって、私たちが小さい者となる時があります。それは昔にあったことかも知れませんし、これから起こることなのかも知れません。あるいは、今そうなのかも知れません。しかもその逆転は、突如起こるものです。
 

生前のイエスは、小さな者、貧しい者を決してつまずかせませんでした。一方、正しさを誇り、イエスと激しく対立したファリサイ派や律法学者たちは、小さい者、貧しい者が、眼中にありませんでした。彼らを排除し、自分と同じ正しい人だけで暮らしていたはずです。彼らは健康で丈夫な人ですから、つまずくこともありません。一方、彼らが無視した罪人や貧しい人たちは、放置したら死んでしまうかも知れない。

「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、いわばイエス様の友だちです。私たちの救い主、イエス・キリストは、今も貧しい者の友であり、同時に私たちの友でございます。

考えてみれば、イエスを信じる者は神第一であって、自分の利益にとらわれないのですから、「神に対して」自分が小さい人です。一方、自分を信じる者は自己第一であり、自分の利益の極大化を図ろうとするのですから、「神に対して」相対的に自分が大きい人です。
キリストを信じる私たちもまた、イエスが戒めたように、決して小さな者をつまずかせてはなりません。そうならないためにも、私たちは小さな者にならなければならないのだと思うのです。
(日本基督教団 藤崎教会牧師)