楠川 徹さん ― 職業と信仰のはざまで 土肥研一
【葬儀説教―2023年4月6日 12時30分より】
コリント前書 13章1、4~7節
先週の月曜日(3/27)、楠川寛子さんからお電話をいただきました。徹さんの具合がこの数日で急に悪くなってきたというのです。翌々日(3/29)に徹さんがおられる高齢者ホームにうかがいました。
徹さんはベッドに横になったまま、とても苦しそうでした。もう会話をすることは難しそうでした。しかし「目白町教会から参りました、牧師の土肥です」と徹さんに申し上げると、目で合図をくださり、私のことを確かにわかってくださいました。それから私と寛子さんと徹さんで聖餐式をしました。聖餐式の初めに、私は徹さんに申しました。「地上で私たちが一緒に聖餐式をするのはこれが最後でしょう。でも、いつか私たちがみんな神さまのもとに帰ったとき、もう一度一緒に食卓を囲みましょう。この聖餐式は、私たちがもう一度出会う約束のしるしです」。
聖餐式の最後、私が徹さんの耳元でお祈りしますと、祈りの最後、徹さんは苦しそうな中でも、「アーメン」と一緒に言ってくださいました。徹さんの耳に私の祈りが聞こえていて、共に祈ってくださったのだ、とわかり、大きな感動が沸き上がってきました。それから4日後、4月2日の午前2時過ぎ、楠川徹さんは天に召されました。来月5月には、96歳のお誕生日を迎えるところでした。
楠川徹さんは1927(昭和2)年、山口県のクリスチャンホームに生まれ育ち、幼い日から山口教会に連なりました。
1944年、第一高等学校に入学するために、上京してきます。太平洋戦争のさなかでした。その時に、私たちの目白町教会との関わりも始まりました。母校、山口高等学校の英語の教師であり、山口教会の長老でもあった堀信一さんが、徹さんに「上京したら目白町教会に通いなさい」と強くすすめてくださったのです。
目白町教会の場所は当時も今も同じです。当時、この土地には初代牧師の本間誠先生のご自宅が立っていて、同じ敷地に小さな別棟がありました。その別棟が教会でした。初めて目白町教会を訪れた時のことや、本間先生との出会いを、徹さんは後にこんなふうに振り返っています。
「私は、昭和19年(1944年)の戦争のさ中、本間誠先生に初めてお目にかかりました。私が第一高等学校に入学した時です。そして、あの日本座敷の畳の教会に足を踏み入れました。このとき、私の教会観は根底から覆されてしまいました。それまでの私にとって、教会といえば、アメリカ風の山口教会と、兄が属していた福岡の城南教会くらいのもので、まさか床が抜けそうな畳の教会があるとは思いもよらぬことでした。当時17歳だった私のコンセプトの中には、こういう「会堂」の教会はありませんでした。
堀先生がどうして、こんなところに行け、と言われたのかと、その常識を疑いたくなるような思いでした。しかし、この私の思いは、本間先生に接しているうちに、間違っていたことがわかりました。小さくても、貧しくても『牧会的教会』なのです。私は自分の浅はかさを思い知らされました。
本間先生は、敬虔で、控えめで、自分を前に出して話をされるような方ではなく、むしろ私などの言う、つたない話も親身になって聞いてくださり、いつも人の役に立とうとしておられました。しかも実は自分には厳しい方で、案外に頑固な面もある方だったように思います。そして、自然科学者としても高い評価を受け、期待された方でしたが、それをなげうって、牧師の道を歩まれました。
北白川の奥田先生は、『本間先生はヨハネの如く、己を語らぬ人、内に静かな深さをもって変らなかった。しかし他面また、鋭いものをもっておられた。其の点、ヨハネがイエスから『雷(いかづち)の子』といわれた如くでもあった』と言っておられます」
当時はすでに戦争が激しく、空襲警報のために礼拝を中断したり、時には本間先生ご夫妻と徹さんの三人で、日曜日の礼拝を捧げたこともありました。戦時下のクリスチャンとして、ずいぶん肩身の狭い思いもしました。しかしそのような中で、まだ十代であった徹さんは、本間誠牧師の深い感化を受けていきます。
本間牧師の控えめで、しかし教会員への愛にあふれ、そして敬虔にまっすぐにイエス・キリストを信頼するさまに触れたのです。そして以降、楠川徹さんは目白町教会を離れることなく、教会員としての生涯を全うされました。本間先生の導きの中でキリスト教共助会との関わりも始まりました。
1950年に大学を卒業して銀行に就職します。1953年から58年、ヨーロッパで勤務。1961年には寛子さんとご結婚なさり、典子さん、そして幸子さんという二人の娘さんを与えられました。そして再び1964年から1972年までヨーロッパで勤務なさいました。
この二度目のヨーロッパ滞在中の1968年、40代初めの楠川さんが書いた文章が、目白町教会の40周年記念誌に掲載されています。当時、楠川さんご一家はドイツのデュッセルドルフに住んでいました。その文章を少し読んでみます。
「私どもは現在、当地に唯一ある英国系の教会に時々行っている。子どもたちもその日曜学校に行ったりしている。上の子が賛美歌を英語で歌えば、下の子は同じ賛美歌をドイツ語で歌っている。上の子はイングリッシュスクールに、下の子はドイツのキンダーガルテンに行っているために起こって来た混乱である。今年もクリスマスには、私と家内の日本語も加えて、三か国語の珍妙なクリスマスの賛美歌の合唱が行われることであろう」。
ドイツで楽しんで子育てをなさっている楠川さんの様子が伝わってきます。
ヨーロッパ勤務を終えて、日本に帰ってきてからは、世界を股にかけて活躍する銀行家として、超多忙な日々が待っていました。多い時には年に15回も海外出張をされたそうです。
そういう忙しい職業人としての楠川さんと、信仰者としての楠川さん。そこには緊張関係がありました。私もそのことを、ご本人からうかがったことがあります。
楠川さんは2017年の秋、教会の修養会でご自分の人生を振り返ってお話しくださったのですが、その中で、こんなふうにおっしゃっていました。
「私は、職業人という自分と信仰者としての自分とのはざまを、行ったり来たりしてきました。一つのスッパリとした、自分としての割り切りがこの両者の関係の中で、見つかっていたわけではありません。職業の場、とくに私の居た銀行というところは、聖書でいえば、茨の中に蒔かれた種のような人達を相手にするところです。この世の思い煩いや富の誘惑や様々な欲望の渦巻く仕事場です(マルコ4・19)。また『あなたの富のあるところにあなたの心もある』(マルコ6・21)という主の戒めの言葉を常に念頭に置いておかなければならない場所です。ただ現在の我々の社会が、罪の世であるとしても、『暫く眠り、暫くまどろみ、暫く手をこまぬいて、また横になる』(箴言6・10)というわけには参りません。パウロは『働きたくない者は、食べてはならない』(二テサロニケ3・10)とも言っています。また『ああ我、悩める人なるかな』(ロマ7・24)と言ったときの『心では神の律法に仕えながら、肉では罪の法則にも仕えている』という二律背反のなかでも神に感謝しているところに、私の場所もあるのかなとも思っています」
お金がすべてという世界において、どのように信仰者としての誠実を貫くのか、それが楠川さんの生涯の課題でした。
今日ご一緒に聴いた聖書の言葉は、葬送式で読むように、楠川さんが生前から指定していたものです。文語訳でという指示でしたので、文語訳を式次第に掲載しました。
このみ言葉に、私は楠川さんが、ご自身の生涯において何をもっとも大切にしたのかを教えられます。
コリント前書、つまりコリントの信徒への手紙一の13章です。愛について記されたとても有名な箇所ですね。結婚式でしばしば読まれる箇所です。これを楠川さんはご自分の葬儀で読むように、指示なさいました。
「たとひ我もろもろの國人(くにびと)の言および御使(みつかい)の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸(にょうはち)の如し」。
どんな言葉を語ったって、愛がなければ、それは鳴り響く鐘や、銅鑼のようなものだ。うるさいだけだ、と言います。つまりいちばん大事なのは愛だ。
では、愛とは何か。それが続く4節以下に記されています。
「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬ねたまず、愛は誇らず、驕たかぶらず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤いきどほらず、人の惡を念おもはず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び」
愛とは何か。それは、寛容で慈悲深く、妬まず、誇らず、おごらないこと。楠川さんは銀行家としての働きの中で、この愛を実践しようとなさったのではないか。家庭でも、教会でも、友人たちの交わりの中でも、この慈悲深く、誇らず、おごらない、そういう愛の人として生きようとなさった。きっと皆さん、そういう楠川さんの姿を思い出すことができるはずです。
愛は「凡おおよそ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり」。愛によって生きるとは、すべてのことを忍び、信じ、望み、耐えること。そういう生き方を聖書に示されて、また本間誠先生を初め、信仰の先達から示されて、楠川さんも自分の与えられた場所で、そういう愛の生き方をしようと、努めてこられたのだと思います。
この前の4月2日の日曜日の午後、楠川家の皆さんがこの教会にお越しくださり、今日の葬儀の打ち合わせをしました。その後、皆さんと徹さんを偲んでしばし雑談しました。
その中で、お二人の娘さん、典子さんと幸子さんが口々におっしゃっていたのは、やっぱり徹さんのやさしさでした。目立たないようにしながら、困っている人を助けていた徹さんの姿でした。
また寛子さんからはこんなことを伺いました。寛子さんがあるとき、徹さんにこんなふうにおっしゃったのだそうです。「年を重ねて、認知機能が落ちてきて、神さまのことがわからなくなったらどうしよう?」そういう不安を寛子さんが口にしたとき、徹さんはこう答えた。「ぼくたちが神さまをわからなくなっても、あっちが、ぼくたちをわかっていてくださるから、大丈夫だよ」。
「あっち」というのは神さまのこと。残された私たちも、こういう愛の言葉、神への信頼の言葉を語り、こういう生き方をしたいと思います。
私たちは人生のそれぞれの時に、この楠川徹さんと出会うことを許され、徹さんからたくさんの良いものをいただきました。楠川徹さんに、そしてその背後におられる主なる神に限りない感謝をおささげしましょう。
(日本基督教団 目白町教会牧師)