追悼

小塩 節先生に学んで 川田 殖


「一いちじつ日の長」という言葉がある。若い人にはもはや廃語かも知れぬ。私はこれを中学の時、『論語』で教わった。『広辞苑』(第七版)にはまず、「他の人より少し年をとっていること」(論語第十一先進篇)とあり、次に「経験や技能などが他より一歩すぐれていること」( 旧く 唐とうじょ書 王珪伝)とある。私は小お 塩しお 節たかし先生より一日遅く生まれ、生涯その生徒であったので、この言葉の重みと含蓄を、先生への敬愛とともに味わってきた。昨(2022)年5月12日、先生が天に帰られてやがて一年、いただいた十数冊の本を読み返し、あらためて先生にお出会いした恵みを感じている。以下の雑文は文字通りの葦の髄から天井をのぞく管見であるが、ささやかな感謝のオマージュといたしたい。
先生が国際基督教大学(ICU)、中央大学で教鞭をとられ、フェリス女学院理事長をはじめ、いくつかの学校法人などの要職を歴任されつつ、文学研究、翻訳、エッセイ、旅行記など、多くの書物を出版され、一方NHKのラジオ・テレビの教育番組を通じてドイツ語の普及やケルン日本文化会館館長としての日独交流にも大きな貢献をされたことを同時代人で知らない人はないだろう。が、後世のために略歴ふうに一筆しておく。(敬称略)

1931(昭6)1月10 日小塩 力つとむ・れいの長男として佐世保市に生まれる。妹あつみはのちの帝京大学教授(フランス文学)
1949(昭 24 )旧制松本高等学校を経て1953(昭 28 )東大文学部独文学科卒、ついで同大学院博士課程修了(19 58)
1957(昭 32 )東トシ子〔1932(昭7)岐阜県生まれ、東女卒、のちのフェリス女学院大学教授・英文学者〕と結婚。1958(昭 33 )長男和人〔のちの上智大学教授・アメリカ史〕、1964(昭 39 )長女〔のちの船橋〕えりかの二子に恵まれる。
1958(昭 33 )国際基督教大学講師、東京大学非常勤講師(~1979)
1961(昭 36 )国際基督教大学助教授
1962~5(昭 37 ~ 40 )西ドイツ・マールブルク大学留学・同大学客員教授(~1964年3月)
1967(昭 42 )国際基督教大学準教授
1970(昭 45 )中央大学文学部助教授
1972(昭 47 )中央大学文学部教授、翌年より大学院教授兼任(~1998)
1982(昭 57 )ひこばえ幼稚園園長
1985~8(昭 60 ~ 63 )駐西ドイツ日本国大使館公使兼ケルン日本文化会館館長(大学休職)
1998(平 10 )フェリス女学院院長(~2003)
2003(平15)フェリス女学院理事長(~2011)

著訳書

幾冊かの語学書のほか、まず文学研究 カール・バルト『モーツアルト』(新教1957)『芸術・信仰・青春 ドイツ冬の旅』(新教1969)『青年と文学 文学のよろこび』(YM1968)『ファウスト ヨーロッパ的人間の原型』(YM1972)(雑誌 『共助』〔212~234号 1968~1970〕に「ファウス トものがたり」として連載されたものの著書化)『ゲーテ詩集』(講談社文庫1974)『私のゲーテ』(青娥書房1991、改版2010)『旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル』(岩波書店2012)『トマス・マンとドイツの時代』(中公新書1992) トマス・マン『トニオ・クレーガー』(主婦之友社) トマス・マン『ヨセフとその兄弟』三巻(望月市恵と共訳、筑摩書房1988)『ガリラヤ湖畔の人々』(教団1995)『光の祝祭』(教団1996)『バルラハ 神と人を求めた芸術家』(教団2002)『「神」の発見 銀文字聖書ものがたり』(教文館2017)『銀文字聖書の謎』(新潮選書2008)『ライン河の文化史』(東洋経済新報社1982)『ドイツの都市と生活文化』(講談社学術文庫1993)『ドイツ語とドイツ人気質』(NHK1982)『ドイツのことばと文化事典』(講談社学術文庫1997)旅行記・エッセイ『こころの旅 ヨーロッパ』(教団2000)『心の旅 祈りの旅』(青娥2009)『天と地のひびき ヨーロッパ音楽家紀行』(教団2002)『モーツアルトへの旅』(主婦の友社1978)『ザルツブルクの小径』(音楽之友社1992)『ブレンナー峠を越えて』(音楽之友社1982)『木々を渡る風』(新潮1998、日本エッセイストクラブ賞受賞)『木々との語らい』(青娥2008)『心よ高くあがれ』(青娥2008)『人の望みの喜びを』(青娥1997)『樅と欅の木の下で』(青娥2015)『自分に出会う ある生い立ちの記』(青娥2004)『ぶどうの木のかげで 今日の祈り明日のうた』(青娥2019)『随想 森鴎外』(青娥2020)このほかにも最初の翻訳と呼応するかのように、 『カール・バルト一日一章』 (小鎚千代と共訳、教団2007) がある。 『育児の不安はとんでいけ』 (青娥2006) とともに『聖書に聴く』(青娥 2005)、『聖書のおはなし』 (小塩トシ子と共著、AVACO 2009)などは、幼き子らとその母親への著者の贈り物であろう。
編注:出版社名の「新教」は新教出版社、「教団」は日本基督教団出版局、「青娥」は青娥書房を示す。


これらの膨大な著書の全体を細かく読み解く力も余裕も、もはや私にはない。しかし今にして驚くのは、先生が生涯取り組まれたテーマは、30代までの若き日に、ほとんど取り上げられているということである。たとえばゲーテの『ファウスト』や『旅人の夜の歌』などは、1960年代以来、40年にわたって、いっそう広くいっそう深い視野と洞察のもとに展開されている。トマス・マンについても同様であり、文学、聖書についても、バルラハについても同じである。そのいちいちについて議論することは私の力をこえているが、そのすべてについて共通する特徴は、対象に対する正確な理解の根底に、多くの日本の研究家にとっては見逃しやすい、といって悪ければ掘り下げにくい、キリスト教精神面からの照射が徹底してなされていることである。西欧精神の根本的理解のために必須のこの事が、みごとに成しとげられているということである。

ゲーテを例にとれば、その生涯のうち『若きウェルテルの悩み』に代表される第一の疾風怒濤時代ののち、ワイマルに移って国政に携わる激務の中でも、自然研究を通して生きた自然の秩序を知り、年長のシュタイン夫人との交際によって人間的な深まりを増し、さらにイタリア旅行によって古典主義的傾向をシラーと共に進め、『マイステルの徒弟時代』『ファウスト第一部』『詩と真実』を完成する第二の時代を経て、『西東詩集』『ファウスト第二部』『マイステルの遍歴時代』を完成する第三の象徴主義的時代を通じて、人間に固有の思慮と努力、活動と工夫、またそこに伏在する悪魔的な力との相剋のうちでの救いとなるものへの着眼が明らかである。

さきにあげた「旅人の夜の歌」(Wandrers Nachtlied)でいえば、
(Wandrer は徒歩旅行者。Nacht はAbend (evening) とは違ってTag, helle
Zeit” の反対語)
Über allen Gipfeln 峯々に
Ist Ruh 憩あり
In allen Wipfeln 梢を
Spürest du わたる
Kaum einen Hauch 微かぜ風もなく
Die Vögelein schweigen im Walde 小鳥のうたも森にやみぬ
Warte nur, balde 待てしばし、やがて
Ruhest du auch. なれも憩わん

先生はこの歌の精細な語学的・文学的鑑賞のあとで、詩における自然と人間の関係を取り上げる。日本における両者の関係(人間は自然から出てそれに溶け込み、それとひとつになってしまう)とは違って、自然と人間とは別種の存在としてはっきり向き合っている。ワイマル時代の初めに書かれたこの詩は、疾風怒濤時代とは違って、人間的混乱と錯綜の疲れから逃れつつ自然を明確な対象として捉え、遠景から近景に、さらに視覚から聴覚に訴えるものとされ、ついには「なんじ」=自我への呼びかけに答えて、待ちつつ生きるものとされている。さらに第三期に至ってはこれと同時代につくられた「人間の限界」(Grenzen der Menschheit)と「神性」(Das Göttliche)という二つの詩を介して、「人間の能力が万物の主のごとく万能だということではなく、むしろ鉄のような限界性のなかに置かれていることを承知のうえで、それでもなお努力してやまぬあり方を「人間性のあるべき姿と自戒している」(『旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル』 136頁など)。

今一つの例は『ファウスト』のいわゆる「グレートヒェン悲劇」とその行方である。悪魔と契約を結んで生の歓楽に身を任せたファウストの犠牲になって、母を殺し、不義の子を池に捨て、兄をも失ったグレートヒェンは、神の前にひとり出て、許しを乞いつつ、神の裁きに服する。悪魔の「裁かれた」との声に対して、上よりの「救われた」の声が応ずる。悪魔の手に落ちるべきファウストの魂は、天にあってとりなしを祈る彼女によって救われて天に迎えられる。

CHORUS MYSTICUS    神秘の合唱
Alles Vergängliche     なべて移ろい行くもの
Ist nur ein Gleichnis,    ただ象徴(たとえ)にすぎず
Das Unzulängliche,    (人の)及び得ざるもの
Hier wirds Ereignis;     ここに実現せられ
Das Unbeschreibliche,   (人の)言語に絶するもの
Hier ist’s getan;       ここに成就せらる
Das Ewig-Weibliche     永遠に女性的なるもの
Zieht uns hinan.      われらを引きて昇る。
(『ファウスト』第二部末尾)

小塩先生曰く。「ファウストが救われ、その行動の生涯が神様の目から見て『よし』とされ、肯定されるのは、実は彼が絶えず努力したからというわけではない。努力するのは、人間としての当然の義務なのである。彼が『救われた』のは、上からの愛が、恩寵があって起こったことであった。そのような上からのゆるし、愛は、ひたすらな彼女のとりなしの祈りのゆえであった」(『私のゲーテ』 83 頁)。

ちなみに、ここを注して手塚富雄氏曰く。「地上のこと、そして人の一生は、はかない。……しかしそれは無ではなく……永遠なるものの光が宿っている。……そうみれば、……人間の生涯がはかないままに肯定されたのである。したがって人間の一生は『足らわぬ』(Das Unzulängliche)不満足なものであるが、しかしこの観点からすれば、それは事実、つまり『出来事』(Ereignis)で、強く言えば天国または至高の世界における事実となりうる。……つまり『足らわぬ』ものに恩寵が下るのである。

永遠の女性とは、女性における永遠な愛と願い、その意味での女性の心である。……女性の愛が高みへ昇れば、男性はそれに従って向上し、行動する男性と慈しむ女性との融和で、最高の人間性が実現される、云々」(『ファウスト』第二部 下 訳注、中公文庫 268 頁)。
小塩先生とのニュアンスの違いは歴然たるものがある。その違いはどこから来るか。そのヒントのひとつとして私は父上、力先生の存在を考えずにはおられない。

小塩 力先生の生涯については節先生の「評伝」(小塩力『傷める葦を折ることなく』所収、教文館、1961)にまさるものはない。以下はその抜き書きである。(敬称略)

1903(明36)年3月16日、群馬県藤岡に生まれる。父高たか恒ひさは同志社を出て牧師となり、先輩留岡幸助牧師を助け不良少年救護事業に献身、渡米して社会事業を学び、帰朝して巣鴨と茅ケ崎に「家庭学校」の責任を負った。1933(昭8)年杉並下井草に、20人程度の少年を収容する家庭的な「小塩塾」を創り住み、救護事業に一生をささげ、1943(昭18)年没。妻うたは上州の生まれ、強い信念と気性の持ち主で実行力にとみ、夫の死後も1949(昭24)年倒れるまで、その事業に生涯をささげた。

力はひとりの姉かづ、三人の妹みつ、みえ、いくとともに巣鴨の家庭学校校内で幼少年時代を送った。両親は多忙を極めていたが、家庭は清教徒的で、和やか。この事業に生涯を傾けた両親を力は終生敬愛してやまなかった。

1919(大8)年府立四中を卒業、9月新設の旧制松本高校に入学、美しい自然の中でよき師よき友に恵まれ、高校生活を心から楽しんだ。大城俊彦らと松高YMを結成、聖書研究に励んだ。晩秋独りでアルプス登山、槍ヶ岳で初雪に閉じ込められる疾風怒濤の生活ののち、急性リュウマチにかかり治療四か月、一年休学、鈴木淳平と同級になり、誘われて教育伝道者手塚縫蔵に出会う。友とともにミルトン、ダンテ、内村鑑三、柏井 園、植村正久、高倉徳太郎、長塚 節の著作を読み感動する。この頃の最大の出来事は1921(大 10)年7月軽井沢での日本基督教会修養会、そこでの植村、高倉、ことに森 明の講演に魂を揺さぶられた。翌年 12月学友とともに植村より受洗。

1923(大 12)年東大農学部入学、遺伝学を志すも学業に満足せず、翌年一月植村の死去、3月森 明の死去に接し、卒業後高倉の主宰する東京神学社本科に入学、戸山(のちの信濃町)教会に出席、生涯の師を通して召命をうける。夏浜松に伝道、長谷川 保、安川八重子と終生の交わりを与えられる。

1928(昭3)年神学社終了、松江教会に赴任。翌年1929(昭4)年5月8日加藤れいと結婚。1930(昭5)年佐世保教会に赴任、31年節たかし、33年あつみの二子を与えられる。説教と牧会に集中。

説教についての力(つとむ)の言葉
「説教は、いうまでもなく聖書の使信(メッセージ)を、それ自体の威圧によって端的に語ることである。しかしわたくしは、聖書に向かって問いかえすことなしには、そのような筋道と鍛錬とを通らなくては、己を深く納得せしめることができないし、現代の人々に証しすることもできない。そこで聖書釈義の門が、少なくともわたくしにおいてはこれだけが説教に直通する。逆に福音が自己展開をするときのもっとも純粋な流動態は説教であるから、聖書学の学問性について云々する場合にも、説教となるもののほかは下準備の域をでないと信ずる。また別の言い方をすれば、本来説教の究極点は讃さんしょう頌となる。それと同じく新約神学もまたロゴスを用いてのドクソロジーにほかならぬ。」(「代禱」2頁)

これは、1948(昭 23)年の言葉であるが、その精神は早くから小塩の説教に表れている。疑う者は1931(昭6)年2月 2日の説教「和がしむる神」を見よ。(これを載せた説教集『希望の清晨』は1937年長崎書店から出た)。

その頃の家庭の雰囲気を節先生は次のように記している。
「幼い長男節と、1933年に生まれたあつみの二人の子に とって、家庭の彼はユーモアとやさしさにあふれた父だったが、 牧師館の二階の書斎に入り神学書に向かっているときの彼には、 何か殺気立ったすさまじさがあって、寝室に昇る階段をすら子 供たちは神経をピリピリさせて昇った。またおよそわがままや 嘘を嫌い、口の軽い長男節は殴打されることもあり、かたくな なところのあった娘は押し入れに放りこまれたりした。しかも なお、祈りと笑いの溢れ流れる家庭であった。」(「評伝」 111 頁)

「佐世保教会は全体がまるで一つの家庭のように、一つの交わ りに連なり、家庭の間に交流が豊かであった。婦人会さえも真 剣な聖書研究を、それがつらくて家庭婦人たちは当番にあたる と涙を流しながらも、活発に愉しく続けた。バザーの一回も開 かないで 10 年をとおした。時代もよかった。しばしば教会員に まねかれ、まねいて食事をすることが楽しく、また、それので きる時代だったのである。」(「評伝」 112 頁)


1939(昭14 )年3月佐世保教会を辞して上京、両親の経 営する「小塩塾」の近くに欅や樫の大樹が繁る農家を借り受け、 改造して住む。ここがついのすみかとなった。日本神学校(のち の東京神大)、恵泉女学園講師となり家族と共に信濃町教会に出 席、諸処の教会の講壇に奉仕しつつ、1942(昭 17 )年4月、 井草聖書研究会が結成され、1947(昭 22 )年 10 月、日本基 督教団井草教会が設立されたが、これらは今日につながること であり、私が話す限りではない。しかし力先生の説教と牧会は 佐世保時代のそれらにまさるとも劣らぬものであったことは疑 いない。

その中で力先生は新教出版社の『福音と世界』の主筆となり、 説教と短章集『代禱』(1948)、『時の徴』(福田正俊と共著 1948)を著し、翌年『新約聖書神学辞典』責任編集の任に当 たる。なお上京以後、死に至るまで基督教共助会の中心的委員として、新規約の制定などに主役を果した。
1950(昭 25 )年、日本聖書学研究所所長に就任、1954(昭 29 )年には恩師『高倉徳太郎伝』(新教)、1955(昭 30 )年 には『聖書入門』(岩波新書)を著した。前者は著者の精神史の 背景でもある。後者は聖書の特色として、聖書の神観・神と人 間との仲保者(キリスト)・罪と死とからの救い・虚無からの脱 出・新しいヒューマニズムを広く心ある日本人に語りかけた伝 道講演ともいうべく、日本版「アレオパゴスの説教」(使 17 : 16 ~ 34 )の意義を持っている。没後出版の『キリスト讃歌』と『コロサイ書(注解)』については私の紹介の限りではない。
以上の著作は節先生の高校・大学時代と重なり、家庭生活と ともに幼少時代の先生自身の深い精神的背景となっていること を痛感させる。例えば『キリスト讃歌』末尾の「日本人と自然」 に収録された「旅人の夜の歌」とそれについての節先生の研究を見よ。まさに父子相伝の典型的な一例ではないか。
先生の10数冊にわたる旅行記・エッセイは最初にその書名を記したが、その萌芽はどれもすでに若き日の留学時代の作品『芸術・信仰・青春 ドイツ冬の旅』に見られる。単なる旅行の印象や、折々の随想を述べたものではなく、どの一篇にも、あたたかな美しい文学的香気を放ちながら、よく読めば底知れぬほどの学識と洞察の光を含み、読む者を広くて深い思想と信仰の世界へ誘う。いわば魂の宝石箱である。なかでも私にとっては『木々を渡る風』と『木々との語らい』にこめられた樹木に対する愛情と讃美に心の眼を開かれて、自然を通して語りかける創造者の前に粛然として立たしめられる経験をし、『樅と欅の木の下で』と『ぶどうの木のかげで』に込められた著者の精神史(「父の手」「母の手」など)にも心を動かされた。ことに後者に含まれた、ゲーテと森鴎外を巡るいくつかの文章は、それぞれ主著ともいえる『旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル』、絶筆ともいえる『随想 森鴎外』につながり、読者をして人生の巨大な問いかけの前に立たせる。これらの旅行記やエッセイは、ゲーテでいえば『詩と真実』『イタリア紀行』『マイステルの修行時代』『マイステルの遍歴時代』に相当するともいえよう。しかもその語り口は、論文調でも、説教調でもなく、ことばのもっとも深い意味でのエッセイ調を貫いている。あらためて著者の温かい心に感嘆せざるをえない。並の学者のできることではない。

これを想う時、私は父上同様、母上れい先生に思いをいたさざるをえない。1902(明32)年浜松生まれのれい先生は、1919(大8)年の当時創設の東京女子大国文科に入学、よき学生生活を送りつつ、1923(大12)年に卒業、1928(昭3)年に東京神学社神学科を卒業され、翌年、力先生と結婚された。東京に移られて、1948(昭23)年前述「小塩塾」の精神を継いで幼児のグループの「ひこばえ幼稚園」を開設。東京YWCA会長をもつとめながら、35年間園長、のち節先生が後継された。その時を記念して出された『おばあちゃんの八十のポケット』(1982)には母親方への手紙、幼稚園の報告のほかに、「旅の思い出から」と「昔のこと」が含まれ、それらを読むと、ここに含まれる鋭い、しかし温かい対象への目、明るく、優しく、逞しく、しかも賢い文章を通して滲み出る人間的魅力には、まさに節先生の文章のふるさとを見る思いがする。「佐世保から上京後の生活は困窮を続け、とくに戦後は、焼失した小塩塾塾生ともども一軒の平屋に30名近くが寝食をともにし、心身の労苦ははなはだしいものがあった。それでいて貧乏という言葉を家族は知らなかった。……1958(昭33)年(力先生の)病はさらに悪化してたえず肺炎の危険があり、夜も眠れぬ状態が続く……しかもその病は家庭には何の暗いかげも落とさなかった。妻は明るく、二人の子はのびのびと育った。彼のつくった家庭は芸術品のように美しかった。」(「評伝」113~116頁)

この芸術品の家族はやがて節夫人・トシ子さんとあつみ夫君・久米博さんを加えていっそうの光彩をそえた。しかしこれを詳しく述べるには別の一文が必要だろう。佐世保以来の「祈りと笑いの溢れる家庭」にこそ、人の思いにまさる恵みと平安のうちに天分を伸ばし、神と人とに仕える人格が育っていたのだと思わざるをえない。そのために神は、いかに多くれい先生を使い尽くされたことか。私は先生の最初の学生として、その学識と人格的魅力に驚いたが、今にして私は若き日の先生のドイツ語教師、文学研究者としての颯爽とした姿、深くて温かい人間性の秘密にいささか触れたように思う。25歳の先生は、すでに25年間、ご両親を通し祈りと愛とに育てられ豊かな教養ある家庭の中に芸術品のごとくに育てられたが、高校・大学でもよき師よき友に恵まれて渾身学業に精進された結果だったことが納得される。大学での教育はもとより、NHKのドイツ語講座においても、学問と人とが一体になった魅力こそ先生の本領であった。その魅力にとらえられて、いかに多くの人々が育ったか。ICUや中大卒のドイツ語教師の方々を見てもその影響は今後ますます大きくなると期待される。この魅力と働きの赴くところ、先生は国の境をこえて、日独文化の交流と友好のために西ドイツでのお働きに献身され、在独中百数十回に及ぶ大学その他の文化団体における講義、講演、有識者との交流に対して数々の勲章や名誉博士号を受けられたが、それについては別に語る人があろう。ほんとうの世界平和の礎はこのような所にあるのではないか。以上のこともさることながら、私には節先生が母上の畢生のお仕事を引き継ぎ「ひこばえ幼稚園」園長のちには理事長の職を嬉々として果され、朝ごとに園児と握手を交わし、歌を歌い、お話をされた姿に限りない感動を覚える。それは小塩家伝来の奉仕のわざを引き継ぐものであるのみか、「幼児らの我に来るを許せ、止とどむな、神の国はかくのごとき者の国なり。まことに汝らに告ぐ。凡そ幼児のごとくに神の国をうくる者ならずば之に入ること能わず」(マルコ10:14)と語り、幼児を抱き手をその上において祝されたイエスの姿が現実に生かされているとみるからである。


私の住む佐久では、暗夜なればこそ綺羅星がまたたく。地上を照らしていた星は今ひとつ天に移されたが、その影響は地にも末永く及ぶだろう。このように功なり名とげたかにも見える節先生は、しばしば私信に、「罪多き、恥多き、病と悩み多き人生でした」としたためてこられた。私はこれらを単なる謙遜のことばととるよりは、神の前に立った心からの告白だと思う。一日の長ならず、千日の長たる先生にははるか及ばずとも同じ道を辿りつつ進みゆくものとされたい。「万軍のエホバよ」と呼びかけ「なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり」と歌った詩人は「その力なんじにあり、その心シオンの大路にある者はさいわいなり。かれらは涙の谷をすぐれども、そこをおおくの泉あるところとなす」とも歌った。(詩篇84:10と5)多年先生と労苦を共にされた夫人はじめご遺族の上にこのような主の平安と恵みとを切に祈る。(2023年4月)


(哲学者・日本基督教団 岩村田教会員)