橋爪長三先生の想い出 香山 孝子

先生が天国へ凱旋なされ、早や3か月が過ぎました。東海教区北信分区婦人研修会(2013年9月28日)におきまして、ご多忙のなか講師をお受けくださり「人権について考える」、サブタイトル「ハンセン病回復者及び身体障害者に対する診療の経験から」と題して、約2時間お話をして頂きました。先生は若い時、和田 正牧師との出会いにより神様の存在を知りました。聖書ルカ伝9章23節「わたくしについてきたい者は、日々自分の十字架を背負ってわたくしに従いなさい」と先生が示してくださいました。医師として60年余り、どんな状況におかれた患者さんでもその傍らにたち、神様の言葉を信じ、愛の思いを証しされている姿は、イエス様そのものと思いました。私たち愚かな人間故の、ハンセン病患者、障害者をマイナス要素で判断してしまう態度を戒め、クリスチャンのあるべき姿を教えていただきました。

そんな時、他の教会員の方から「先生は長野教会員でしたの」と聞かれ、とても羨ましがられました。教会におきまして、信仰の篤い、かけがえのない先生でした。

また、医師として教会員の病気に関しての悩みに心を傾けておられました。敦美夫人が教会生活で悲しいことがあり、先生に相談された折、「教会の中の枝葉のことは関係なく、牧師を信じ、礼拝生活を守ること」と言われたとお聞きしています。

また、1995年に新生病院の名誉院長として就任されたおり、当時、新生病院の事務長をされていました松村 隆さんが「香山さん、橋爪先生は、趣味、特技の質問に対して『仕事』とありましたよ、また、尊敬する人物に『矢内原忠雄』と書いてありましたよ」と言って「新生病院だより」を見せてくださいました。

そんな中で、聖日礼拝を守り、いそいそと新生病院患者さんを訪問されていました。先生は「共助会」の会員でいらっしゃり、共助誌の読後感想をいろいろ読む観点から教えてくださいました。

また、私には忘れられない想い出があります。友人の県あがた町教会の塩入公子さんが、小出牧師の奥さんが指が痛く、パイプオルガンを弾くことが大変になられたことを橋爪先生に話されたので、礼拝後、先生は県町教会に行かれ、奥さんを予診されました。そして入院、手術となり奏楽ができるようになられ、大変感謝されました。小出牧師の奥さんの大変さを痛感されていらっしゃる故と思いました。

先生は、新生病院の名誉院長として、また、整形外科医師として多忙な日々の中、「長野いのちの電話」の季刊誌2014年40号に「ハンセン病療養所で経験した入所者の自殺とその背景にあるもの」と題して、尊い文章を寄稿してくださいました。

先生は数々の医に対しての偉業、また信仰に対しての姿勢を、2014年に出版された『私の歩いた道』という自分史の中に記されています。過日、娘の知子さんが「父の娘で幸せでした」と私にしみじみと話してくださいました。今は天上にあって、ご子息真さん、知子さん、そして長野教会のために祈ってくださっていることを信じます。(日本基督教団 長野教会員)《「長野教会通信」ぶどうの木 第29号からの転記》