随想

神と病のはざまで 小笠原 浩平

3、シュナイダーの言葉

先程のは、若い頃に病気になった時の話ですが、「神様はどんな不幸があっても助けて下さる。また、つらい時には共にいてくださる」というのが私の確信です。神様は、病などで弱くなって祈るとき、必ずそばにいてくださり、憐れんでくださると思うのです。1903年にドイツに生まれた詩人、ラインホルト・シュナイダーという学者は、こう述べています。「時代の現実を見れば、絶望だけがあって希望はどこにもないように思える。しかし、希望はある。それは、苦しんだ人々の深い苦悩の中にある。そこに神の力が働いている。そこに希望の光が射している」と。そして、「愛とは苦しむ人と共に苦しむことである」と述べています。そうです、苦しむことによってはじめてイエス・キリストの存在を知ることがある、と。そして、シュナイダーは、こう述べています。「キリストは、われわれの罪と、罪から発するあらゆる苦悩を担ってくださった。そこに救いがある。イエス・キリスは、この世の苦悩を自分の身に引き寄せ、それを担い、そして死なれました。それと同じように、キリストという真理を生きるキリスト者も、あらゆる苦悩する人々の中にキリストを認め、愛することを求めている」と。つまり、シュナイダーは「苦悩することにより、キリストの存在を見出し、そして、救われる」と、言っているのでしょう。だから苦悩し、苦しむことは、全くのマイナスではない。私が精神病院にいた時に、聖書の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」や、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という言葉にひかれ、なぐさめられたように、人間が本当につらい時には、イエス様がそばにいて、自分を愛していてくださる、ということに気づくのです。

「人は悲しみが多いほど、人にはやさしくなれる」とある歌にありましたが、つらい思いをもった人ほど、深く他人を愛することができるとおもうのです。1見すると、逆のように思われますが、多く苦しんだ人ほど、それだけ神様からの恵みも大きいと思うのです。イエス様は、あえて貧しい人、病をもった人、他人からさげすまされている人の友となられました。そのように、病を持った私達にも、神様、イエス様は働きかけてくださり、その愛をもって励まし、守り続けてくださるのです。先程話しましたシュナイダーについて、もう少し話させていただきます。シュナイダーは「苦悩への畏敬」ということを言います。これは、苦悩に意味、貴さを認めて、畏れ敬うという意味です。シュナイダーは、苦しみや痛みなしに、人間は成長しない、と言っています。「偉大な思想は、ただ大きな苦しみによって深く耕された心の土壌の中からのみ成長する」と、ヒルティーという人が言っています。やはり、思想も文学もそうでしょう。ベートーベンという人はまさに苦悩の中で苦しみ、もだえながら、そのエネルギーを音符に託し、多くの人を励ます曲を書いています。苦悩は、マイナスばかりではないのです。

シュナイダーは、ボンヘッファーという牧師と同年代で、ドイツ生まれの2人は、ナチスの独裁に苦しみ、それは過酷で悲惨な時代であったと言います。若い頃、彼はウナムーノという思想家を知ります。ウナムーノは、次のように言っています。「人間は苦悩を避けないで、むしろそれらを積極的に担って生きることを通してはじめて、その生と行為に意味が与えられる。また魂のこの苦悩を味わい尽くした者は、憐れみ深い愛で同胞を抱きとめることができるであろう」。つまり、苦しみを与えられ、それを通して本当の生きていく意味を見出すということでしょうか。そして、そのような苦しみを味わった者こそ、そのような深い悲しみの中にいる人の心を受け止めることが出来るということでしょうか。彼は自伝の中で「暗い心は苦悩を見ることによってしか救われない」と言っています。そして彼の心は、苦悩の極みであるキリストの十字架に救いを見いだすようになるのです。結局、救いは、イエス・キリストの十字架にしかない。私もそう思っています。自分の罪、また弱さ、苦しみから希望へと向かっていくのは、イエス・キリストの十字架しかないと。パウロは言っています、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためだと知っています」(ローマ書6章6節)と。さに、イエスが十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪が赦されたのです。私はそこにしか希望はないと思っています。本当の苦しみ、耐えがたい苦しみから本当の意味で救ってくださるのは、イエス・キリストの十字架の愛しかないと思っています。

また、シュナイダーは、こうも語っています。

病気は、われわれの内にある罪を知らせてくれます。そして、自分が何者であるのかを認識させてくれます。そしてその克服は、キリストの贖いによって生じます。従って病気は、自分自身に至る道、キリストに導いてくれる道です。順調の時は、私たちは自分の力だけで10分にうまく生きて行けると考え、罪の存在には気づかないことが多い。

そういえば、こういうことがありました。この修養会の原稿がほぼできて、しばらくしてから、私は風邪をひきました。それも扁桃腺が腫れて痛く、熱も5日くらい38度~39度のあたりをうろうろしていました。私はあんまり苦しいので医者に行きました。扁桃腺がかなり腫れているということでした。それで、私は点滴を打ってもらいました。その苦しいベッドの上で、私は思わず、神様に心の中で叫んでいました。「神さま、助けて。もう悪いことはいたしませんから」と。そして、「イエス様、罪人の私を赦してください」と。わらにもすがる思いで、心の中で叫んでいました。順調にいっている時は、人は、自分の罪を見つめ直すということはしないでしょう。しかし、病気になったりした時は、自分のかくれた罪に気づかされるものです。本当に苦しい時は、「イエス様、助けて!」こう叫ぶものなのでしょう。シュナイダーの言うことも、あたっているなあ、と思いました。

4、イエス様の奇跡物語と結び

最後に、イエス様の奇跡物語を取り上げたいと思います。今日、私が取り上げるのは、ヨハネによる福音書の5章1~9節です。ヨハネ伝には、イエスの奇跡物語は少ししか載っていません。私が取り上げるのは「ベトザタの池で病人をいやす」という箇所です。まず、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られたとあります。エルサレムに上られるのは、マタイ、ルカ、マルコでは1回だけで、イエスが十字架にかかるときです。ヨハネ伝では、5回くらいエルサレムへ上ったことになっています。この祭りが何であったかは明らかではありません。エルサレムには、羊の門のかたわらに、ヘブライ語で「べトザタ」と呼ばれる池があった。そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体のまひした人などがいた。この池の水は、たびたびわき出て、水が動き、その時に浴すれば、病気が治るとされていた。そういう病人が大勢横たわっていたとあります。まさに、この場所は、願いと、失望と、希望とが入りまじり、その熱気でムンムンするような場所であったのでしょう。イエスは、わざわざこの「ベトザタ」の池に立ち寄られたのでしょう。おそらく、この池のまわりにいた大勢の病人は、耐えがたいほどの失望のうちにいたのでしょう。そういう人々を、ほっておくイエス様ではありません。その中でも、最も哀れにみえた者にイエスは目をとめられたのです。何でも、38年間も病気で苦しんでいたと。38年間も病気で苦しむというのは、その人だけにしか分からない悲しみと絶望があったのでしょう。そして、このとき、イエスが自ら、そのあわれな姿をみて、「良くなりたいか」と尋ねた。病人の方から、イエスに「この病を治してください」と頼んで、イエスに治してもらう場合もあるが、この場合には、イエスが自らこの者に近づき「良くなりたいか」と聞いたのである。そして、その病人はこう答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と。この言葉から、この病人は、1人ぼっちで、孤独で、1人池のそばにいたと思われる。彼の言葉は、あきらめと哀願に満つるものであった。しかし、この日は安息日であり、ユダヤ人たちは何も仕事をしてはいけない日だった。しかし、イエスは、そのモーセの掟を破り、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、その者の病をいやされた。モーセの律法を破ることは、かのファリサイ派の者や律法学者にとっては、大問題であり、赦しがたい行為であった。このことによって、イエスの十字架への道が、また近くなったのである。イエスは、このように38年もの間、病にいる者を、ほっておいて、黙って見過ごすようなお方ではなかった。いかに自分が不利になろうと、十字架への道が近づこうと、ほっておけなかった。ここに、イエスの愛をみます。普通の人なら、見過ごすでしょう。しかし、イエスにはそれができなかった。この1つの奇跡物語を読むだけで、イエスがどのようなお方なのかがわかります。そして、イエスは、安息日に病人を治したり、罪人と共に過ごしたり、自分は神の子だと言ったりしたことにより、結局は、十字架にかかることになるのです。それは、ねたみや、民衆の心理によるところでもあります。しかし、これは敗北でしょうか。私はそうは思いません。十字架の道は、イエスにとってつらいものだったでしょう。しかし、イエスはゲツセマネで、「わたしの願いではなく、御心のままに」と、神様に祈ったのです。イエスの十字架は1言で言えば愛です。どんなに苦しんでも、体を釘で打たれようとも、それが神の御心だったのです。主が十字架にかかって、私達の罪が赦された、とあります。イエス・キリストの十字架の愛が、またその命の光が、暗い世の中を明るく照らしたのです。イエスの苦しみとひきかえに。パウロも、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとして、わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と語っています。大切なのは愛、人を思いやる心なのです。そして、「それゆえ、信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とパウロは言っています。

以上が私の話なのですが、神様と共に生きる、信仰を土台として生きる、これが大切なことだと思います。日々の生活の中で、どんな困難やつらい事があっても、イエス様が守ってくださる。「憐れみ深い人々は幸いである。その人は憐れみを受ける」と山上の説教でもありましたように、神様のために自分が損をしても、隣人のために捧げつくす。そのことの大切さを思います。信仰とは、神が人間をイエス・キリストによって救うことだ、とある先生から聞きました。また、イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とヨハネ伝にあります。私達はイエス様から選ばれた存在なんだ。そう思うと、勇気が出ます。どうか、十字架のイエス様からの愛を思って、日々歩んでいきたい、と思っています。私がどうして心の病から立ちなおることができたか。それは、お医者さんと薬のおかげかもしれません。しかし、それにもまして、神様からの底なしの愛、そしてイエス・キリストの命の光、この憐れみがなければ、立ちなおることはできなかったと思います。イエス様の様々な励ましの言葉。これには本当に感謝です。人間が苦悩から立ち上がるには、イエス・キリストの十字架の無償の愛、これがなかったらだめだったでしょう。そういう意味でも神様とイエス・キリスト、そして私を励まし支えて下さった人々に感謝します。最後に、聖書からの御言葉をひきたいと思います。第1ヨハネの手紙4章8~10節です。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。神は愛です。私達は、その愛に生きて、他人をも愛するのです。そのことが大切だと思います。そして、この世に耐えられないほどの苦しみがあっても、きっと神様が救ってくださると思います。〔完〕

2018年9月17日(月・祝日)日本基督教団 北上教会礼拝堂

「第24回みちのくコスモスの会修養会にて」