自分らしさと自分の十字架 濱田香苗
青年の夕べ2020年9月27日(日)立川教会
1 マルコ8章36節の解釈
『3・11以後とキリスト教』(荒井献・本田哲郎・高橋哲哉、2013年)という本の中に (187―188頁)、マルコによる福音書8章36節の訳の提案で、「人は、たとえ世界全部を味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、なんの意味があろうか」とあります。新共同訳で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」に馴染んでいた私としては、「自分自身」あるいは「自分らしさ」という解釈は新鮮でした。
直前の35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。この箇所は難解ですが、読んで受ける印象は、キリスト教的滅私奉公と言ったら言い方が悪いですが、神からみて正しい自分を目指して頑張るという努力、試練を経てはじめて生き生きと生きることができる。ある「正しさ」という定まったものに向かって一生懸命努力するというどこか硬直したような印象でした。
しかし、「自分らしさ」をなくしたらなんになろう、という言葉からは、自分が「正しい」ことに向かっていることそれ自体が大事なのではなくて、自分が自分らしいことが大事であると、もっと柔軟な心を感じます。
2 自分のあり方のうちで肯定するのが難しいこと その理由
私は自分の性格であまり好きではないなあと思っていて、どうにかして変えたいと思っていることがありました。今もまだあるかと思います。それは―、
・おとなしい
・人になれるのに時間がかかる(人見知り)
・冗談を真に受ける
・驚くことが苦手
・交渉ごとが苦手で疲れやすい
・傷つきやすい
主に内向的で言い表される性格です。
私はずっと、内向的であることを肯定することが難しくて、外向的になりたいなあと思っていましたし、内向的であることを、どこか劣った性質のように感じてもいました。
それは人生の途上で少しずつ積もってきたものだと思います。例えば、親や幼稚園の先生の、「一人遊びしかしなくて、この子大丈夫かしら」という視線。私の発した言葉が「変なの」と言われて反論できず、自分の感覚が揺らいだ時。はっきりではなく、モゴモゴと意見を言ったがゆえに、意見がなかったとされたこと。怒りや悲しみや混乱が少しずつ積もってきました。
実際のところ、内向的であるがゆえの現実的な難しさというのはコミュニケーションを代表として少なからずあります。テキパキできずに人をイライラさせやすいですし、交渉ごとが苦手、すぐに反論をすることが苦手です。また、その場のトーンにそぐわない深刻な様子で返事を返すなど、一般的交渉のルールという土台に乗ることへの困難さがあります。
3 自分の好きなもののうちで肯定するのが難しいこと その理由
自分の好きなもの、好きなことを肯定することが難しいと思うこともあります。 例えば、スターバックスが好き、とか大衆小説が好き、とか、マッサージが好きとかです。
どうしてこれらを好きであると肯定するのが難しいかと言えば、ミーハー、とか、娯楽小説でしょ、とか、無駄遣いとか、言われちゃうんじゃないか、とかついつい思ってしまいます。散歩が好き、とか、漫画『ヒカルの碁』が好きとかは言えます。散歩は健全でクリーンな感じがしますし、漫画は一周回って市民権を広く獲得したように感じるからです。
こうして考えてみると、人の目に恐怖を感じているのだなあと思います。また、自分自身が見ている自分と、他の人が見ている自分にギャップがあることが恥ずかしいという感覚があり、一貫した自分でいたいのだなあと思います。おそらく、どこかで他者に対して自らの弱点ともなるべき嗜好が明らかになることが怖いようです。「どうして好きなの?」と問われたときに
「好きなものは好きなの」以外のよりわかりやすい答えを返せないのは無防備な気がしてしまいます。
なにより、自分の好きという感覚への信頼が弱いのだなあと思いました。変な人扱いをされたり、そういう視線を感じてしんどいこともあったので、属するコミュニティにおける普通の範囲内に入っていることを確認して安心することを求めてきたのだなと思いました。
4 誰かのためにならないで、自分のためにしかならないことを肯定することが難しいことについて
好きなことについて、誰か他の人のためにならず、自分のためにしかならないことを肯定することは難しく感じます。
生きるのは他者のためであってこそ価値があり、自分の楽しみを追求することは結局はむなしいのではないかという考えには真実が含まれているなあと思います。
しかし、最近、他者のためと自分のためを分けることに無理があると思うようになってきました。楽しんでいる様子を見るとうれしい、と言われたり、私もまた、友の楽しんでいる様子を見るとうれしいなあと思うことを知りました。先日、教会で出会った持病を持つ80代の女性が、体調が悪くて家族に朝ごはんを作ることができずに申し訳ないなあと思っていたところ、伴侶に「あなたは休むことが仕事ですよ」と言われたと聞きした。その女性の申し訳なさも感情としてわかりますし、休むことが仕事ということも、本当にそうだなあと思いました。自分を大切にすることと人を大切にすることのつながりは意識すると濁って固まってしまうけれど、意識下の水脈でしっかりとつながっているような気がします。
5 発想の転換の理由(自分の好きに意識を向けようと思った理由)
私が、自分のために休息をとったり、やるべきことでなくてもただ楽しむことに時間を使おうと前向きに思うようになった具体的なきっかけは、単純に、疲れた時に休まないと頭も働かないし、身体も参ってしまうという現実があったからです。これをやらなければいけないと思っても、頭がぼうっとしたり、夜眠っても眠ったような気がしないことが継続することがありました。
そこで、休んで、お洒落してお気に入りのカフェに行って、本を読んでのんびりしたら、心が晴れやかになって、生きるって辛いことだけじゃあないなあと、本当に単純ですが、実感しました。そして、生きることもなかなかよいものだと思わないと、キリストの復活を本当には喜べないなあと思いました。
人には、無理したらよくない、ちゃんと休むことは大切、と言いながら、自分でそれを実際に行うことが結構難しいなと思いました。限界まで無理をして努力したら、もうそれ以上後悔はしませんし、それでうまくいかなかったらしょうがなかったね、と自分自身に言ってあげられます。その手前のちょうどいいところで切り上げて休むということは、どこか可能性を潰しているように思って怖くなってしまうのかもわかりませんが、なかなか難しいなと思いました。自分で自分を認めてあげたり休んだり楽しんだりすることも慣れや訓練が必要なのかもしれません。
6 自分の十字架を背負うとはどういうことなのか
自分の十字架を背負うということは、そのスタートに、自分のありようについて受容することがあるのだろうと思います。
社会の生産性・効率の価値観から見ると役に立たないような除け者になったような気がして傷つく自分がいること、恥ずかしいと思ってしまう自分がいることを認識すること。 些細なことで傷つく自分を責めないこと、自分の感じ方や感性、弱いところを軽んじないこと。
自分のありようを対外的に示す必要はないのだと思います。「私とはこういうものです」と外にさらすと途端に硬くなってしまうことがあり、自分だけのうちに留めておくことが必要なこともあると思います。
これまで、自分をさらけ出して伝えてわかってもらうことが必要だと思ってきました。確かに必要な時もあると思います。しかし、一般化できることではないなあと思うようになりました。自分にとって敏感で繊細なところを伝えようとして、うまく伝わらなかったり、伝わって知られたことで晒されたような心細い気持ちになったりすることもあります。言いたくないことは言わなくていいのだと思います。言うべきだと思うのであればやはり言うべきことなのかもしれませんけれど、それは具体的・個別的にその都度考えるものだろうなと思います。
神様との関係の中において、自分の十字架を背負うとはどういうことなのか考えると、自分がどうしようもないからこそ、神様、あなたが必要なのです、と告白するのでもいいのではないかなと思います。たとえ自分の気持ちを騙すことはできても、神様を騙すことはできないはずです。私のありようも性格も感性も我慢していることも恥ずかしい気持ちも、すでに知られているのだと思います。その上で、私に従いなさい、とおっしゃるのだと信じています。できることは行いつつも、できないことは神様が底辺から支えてくださると確かに知らされてもきたように思います。これまでの過去・現在を背負って神に従いたいと願うとき、過去に犯したことの責任を負いきれないことを突きつけられます。神はそのこともまたよく知った上で、人を愛して招いてくださっているのだと信じたいです。
日常生活の中で、社会の中でうまくやっていくことは必要に迫られます。やはり人とのコミュニケーションが円滑にできたら楽だし、いいなあと思います。今は具体的に、お客様との交渉を有利に進められるように、譲歩していることを示して相手の譲歩を引き出せるように、テクニカルな努力をしています。
人との関係性については、新しい関係構築で無理はしないと思って会社や水戸の教会で過ごしています。ただ、そのように思えるのは、周りに(地理的には遠いながらも)親しい人がいて徹底的な孤立を感じないからですし、会社で厳密なチームワークが求められる場面があまりないという今の状況がゆるすもののような気はしています。
しかし、いずれにせよコミュニケーションそれ自体はあくまでも技術であり本質ではありません。人と波風立てないことに注力して自らの感性を軽んじることは、やはり絶対に違うと思います。譲れるところは譲り、譲れないところは譲らない。誰がなんと言おうと、自分が楽しく生きること、喜びを感じること、気持ちを大切にすることは、重要なことだと思います。
自分の十字架を背負うということは、腑に落ちるようには分かりませんが、そのスタートは、自分らしさを自分で受容したいと願うこと、自分の底の方から支えてくださる神に信頼を置きたいと願うことなのではないかと思います。
イエスに従っていきたいと心から望むときは、自分の人生に何か本当の喜びになるものがそこにあると、自らが感じるときだと思うからです。(会社員・日本基督教団勝田台教会員)