バランスをとらない K・T
寄稿 立川教会「青年の夕べ」の感話
バランスをとらないわたしがあなたに与える命令は平和
あなたを支配するものは恵みの業(イザヤ書60章17 節)
英語讃美歌111番 I Need Thee Every Hour
日本語讃美歌Ⅱ―177
わたしは、山形県にある基督教独立学園という高校を卒業し、今は大学院の2年目ですが、1年間の休学をしている最中です。ちょっとしたきっかけから、残りの休学期間は、独立学園の女子寮の舎監として働くことになりました。もうすぐ、6月末から、休学期間いっぱいの来年3月まで、独立学園の共同生活にもういちど、まぜていただきます。独立学園での3年間は、自分にとっては原点です。感じることも、考えることも、ゆっくりと学んだところです。
もう1年以上前になってしまいましたが、わたしは大学の卒業論文を、「キリスト教独立学園高等学校の『キリスト教的独立』の思想と教育」と題して書きました。卒論を書く中で得た学びと、その学びに立っていま、わたしがどうありたいと願うかについて、今日はお話します。
「青年の夕べ」にはご存知の方が多いのですが、独立学園は山形県西置賜郡小国町の叶水という、雪深い田舎にあります。普通科の高等学校で、ひと学年の定員が25人という、教職員を合わせても100人に満たない、全寮制の小さな共同体です。無教会キリスト教の提唱者・内村鑑三の弟子、鈴木弼すけよし美が1948年に創設しました。「読むべきものは聖書である、学ぶべきものは天然である、為すべき事は労働である」という独立学園の「三本柱」は、内村の言葉をもとに立てられていて、その営みの中心にあります。教育の理念は、「『神によって作られた人格』の尊重を自覚せしめ、天賦の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する」ことです。
卒論を書くにあたり、わたしは独立学園が創設当初から発行している学校誌「独立時報」をさかのぼって読んだり、歴代校長の著作や寄稿文、独立学園の歴史を記録したものなどを読んだりしました。その中でひとつ、なんだか胸を打つ文章がありましたので、紹介させてください。それは、独立学園の創立式の様子を、理事の一人であった鈴木俊郎という方が書き残したものです。引用します。
晴れあがった五月の朝であった。溌剌たる新緑が午前の太陽に輝いていた。式場は学校の二階であった。学校といっても、そこは校長とその家族の住宅であり、職員の居室であり、生徒の寄宿舎であり、教室であり、礼拝堂であり、実験室であり、工作場であり、乳牛もその一部に草をはみイバリをする一塊の建物である。生徒は中央に、来賓は西側に座について式が始った。飾られた山藤の花が美しくあった。(『神に依り頼む―基督教独立学園五十年記念文集―』基督教独立学園、1987年、50頁。)
ただ創立式の様子を描写した言葉です。独立学園の始まりは、こんなにも小さく、貧しく、朗らかなものだったのだと知りました。
卒論に取り組むにあたり、わたしは、独立学園の理念にある「キリスト教的独立」とは何か、ということをひとつの問いとして立てました。内村はたびたび、「独立」ということを言っていますが、「キリスト教的独立人」という言葉は、おそらく鈴木がはじめに言ったものではないかと思います。「キリスト教的独立」とは何かという問いへの、自分なりの応答も論文内ではしました。しかし、卒論に取り組んでよかったのは、想定していなかったことを問い、想定外の結論を得たことです。想定していなかった問いは、「独立学園の教育が(生徒のうちから)引き出しうるものは何か」というもので、これに対するわたしの結論は、「ことばであり、すなわちいのちである」というものでした。
独立学園創設者の鈴木弼美は、教育を、個々人に固有に与えられた尊いものを、一人ひとりの内から「引き出す」営みであると信じました。この、個々人に固有に与えられた尊いものが「引き出される」ときというのは、その人にしか語ることのできない「ことば」が引き出されるときである、とわたしは考えました。論文を一部、引用します。
独立学園の教育が引き出し得る「貴いもの」とは、「ことば」であると思う。ここで平仮名の「ことば」を用いるのは、物事の分析や説明などを担う言語としての「言葉」から区別して、「私を語ることば」を意味するためである。簡潔に言いかえれば、頭で考えた「言葉」と、心を表現する「ことば」との区別である。「言葉」と「ことば」の区別に固執する意図はないし、この区別は本来不自然かつ不適切であるようにも思われる。しかし、「ことば」を得ることで「言葉」と「ことば」の区別を認識し、「ことば」を生きるようになることで、「ことば」と「言葉」の区別が消滅していくように思うため、ここでは上述の区別を採用する。自分自身が在学中に語ったことや書き記したこと、また、他者が語り、記したことを振り返ると、独立学園の教育が生徒にどのような「挑戦」として臨んでいるかが見えてくる。それは、「私を生きる」とか「自分らしく生きる」ことの挑戦である。「空気」に流されたり、他者への恐れに支配されて言動するのではなく、本当の自分で人と関わりたい、という願いを私も持っていたし、そのような言葉をよく目に耳にしていた。そして、「私を生きる」という言葉によって多くの生徒が意味するのは、第一に「私のことばを生きる」ことのようなのである。自分自身から本当に出てくることばを語りたいという願いだ。私自身は独立学園2年生の時に、頭でつくり出すのではない、「私」を表現することばが自分の内には無い、という現実に向き合わざるを得なくなる出来事があった。心の深くから抑えようもなく湧き上がる感情に向き合っていた、ある同期のことばに対して、頭で作った聞こえの良い応答を返した私への、一人の教師からの指摘がきっかけであった。頭で考えた言葉ではなく、心を素直に表現することばを求めるようになって知らされたのは、「わたしの経験がわたしのことばの意味を担う」ということであった。「誰が何を言おうと、本当だ」と言えるものを探した私に与えられたのは、労働の喜びや、大自然の中に他者と共に在る喜びであった。そして今、「労働」という言葉を私が発する時、私の内には独立学園での作業の光景も、汗を流して全身で労した楽しさや大変さなども含めた、確かな意味が存在する。「経験がことばの意味を担う」ことの一例としてよいだろう。肉体労働の疲労が清々しい、登山後の山頂で他者と過ごす時間が嬉しい。この「清々しい」「嬉しい」という言葉が確かに嘘偽りのない私のことばであるように、その他さまざまなことについても、私は確かな感触に基いてことばを発することができるようになっていった。また、一度「私」と「ことば」が確かに繋がれば、経験が積み重ねられてゆくように、一つひとつのことばの意味も広がってゆく。このようにして、経験と、経験が意味を与える「ことば」を知った私は、他者にも固有の経験があり、「ことば」の自由があることを知った。人は誰もが唯一無二の存在である。故に、自分を表現することばは、他者の真似をしていては発せられないし、ましてや「空気」を読んだり、誰かの機嫌をとることを目的としていては、発することは出来ない。唯一無二でしかあり得ない個人が「私」を語ることばは、唯一無二のものとならざるを得ない。使う単語や言い回しのことではない。一人の人間に固有の経験に裏づけられた「ことば」が唯一無二なのである。そのことばは、それを発する者に固有の、「貴いもの」である。それは、人間の尊厳である。誰も侵すことのできない、唯一の経験に基いたことばが引き出される時、それは、それを語る人間に固有の尊厳をあらわす。
今わたしが話す時を与えられているように、独立学園でも感話などの機会が多くあります。自分の3年間を振り返ると、心を守ることに精一杯で、とても言葉でみんなに伝えられなかったことはたくさんありました。手に負えない感情を抱えて、どうしても言えないことにも、言葉にならないことにも、直面しました。たくさんの限界を抱えながらも、独立学園でわたしが見た、教育により「引き出され得るもの」はみんなの「ことば」でした。そして、論文を閉じるときにふと、ことばが引き出されるとは、いのちが引き出されることなのだ、と思ったのです。
その者にしか語り得ない自由なことばは、命の尊厳を帯びるとわたしは思います。だらだらと長くなってしまった論文で、見出した結論は「いのち」というたった3文字で片付くと思ったとき、本当に卒論を書いてよかったと思いました。「いのち」について、わたしは論文で全然表現できていないと思ったとき、自分なりの学びが真実であったと思えました。論文で表現したかったのは、自分の所有することの叶わないものだったとわかって、感動しました。一人ひとりに与えられている「いのち」という結論を、たとえば誰かに伝えようと思ったら、論文でいくらことばをこねくり回すことより、一緒に美しい原っぱに寝そべって、太陽のぬくもりを瞼の裏に感じ、思い切り息を吸い込む方が、よっぽど伝えられるのだと思って、感動しました。
以上が、わたしの卒論の結論です。今日の感話の題を、「バランスをとらない」にしました。わたしは「いのち」という大学卒業時の学びの結論を、本当に大切にしたいと思うのです。
わたしはしばらくの時期、とても気になって違和感をもっていたことがありました。それは、「中立」とか「バランスをとる」ということに最終的に落ち着こうとすることです。そのような一歩引いた態度を、「現実的である」とか「冷静である」とか見ることです。中立とは何かとか、そういう問題はここではひとまず放っておきます。わたしはいのちの問題について、バランスをとろうとしたり、存在しない「中立」なるものを目指したりしたくないと思います。いのちの性質である、「与えられているということ」と「弱さ」の側にいたいし、そこにいてことばをもちたいと思います。したがって、いのちがいのちとしてあることだけをもって、それを大切に思う人になりたいです。いのちとして、誰もが全きものであるということ以外は、微々たる差であると、信じ切れる人になりたいです。なぜならわたし自身が、ただただそういう安心を必要としているからです。だってイエスは、バランスをとったりしなかったじゃん、めちゃめちゃ振り切った態度だったじゃん、と思います。
先日、独立学園の後輩二人と、話すことがありました。学園時代に自分たちが一人の人間として存在を受け止めてもらっていたこと、話そうとしたら聞いてくれる人たちに囲まれていたこと、そのようなことがこんなにもありがたかったね、と話しました。翻って今の場所が、(それは職場だったりするわけですが)、そういう場ではないということが悲しいことです。わたしは来月から、今の学園で生活している生徒たちと、関わることができます。「当時は当時でとてもしんどかったけれど、あのように人間として大切にされていたことがありがたかった」という後輩のことばを、わたしはいつも思い出しながら今、独立学園にいる生徒たちと関わりたいと願っています。この世界で、いのちがいのちらしく、大切にされることを祈ります。わたしがそうあれるように願います。
2021年6月6日(国際基督教大学 大学院)