寄稿 青年の夕べ

等身大の自分を生きるために 江川裕士

自分には、変化の先に等身大の自分がいるような、不思議な感覚があります。そして、ここで求められるはずの「変化」の量は、この数カ月で、どんどん自分自身のごまかしの中に溶けて見えなくなってきている気がします。それで、今自分に必要な「変化」を捉えるためには、少し前の文章を参照するしかありませんでした。

2020年の夏、僕はICU宗務部のオンラインサイトに、「愛のない関係の根底にあるもの」というタイトルの書き物を匿名で投稿しました。この時の自分は、自分の中の小さな願いとして、自分の軽薄さを避けて、あらゆる「期待」を超えて生きていきたい、というようなことを言いました。

《はじめに連想するのは、小さい時、両親からの躾で、暗い寝室に閉じ込められる経験をしたことだ(……)。」この時期に、自分の感情を俯瞰する自我が芽生えて、今も生きている。犬養 毅の孫、犬養道子さんが、日本人は「言うべきことを持たない」と言っていたのはこういう主義(とも言えない主義)、躾関係のことだろうか。僕にとって、何かが「悪い」と言うことは、「怒られる」こと、それが親―公に知られたことと同じ意味だった。それは、本当の意味で「悪い」訳じゃない。(……)とにかく人と関わるときは、一線を見極め、それを超えたら、形だけ謝ってしまえばいい。それでもダメなら、態度を変えればいい。心では、対話する必要も、人間が変わる必要も、本当はない。

こういう自分だから、僕は今でも、人に「悪い」思いを抱くことができる。鋭い友人はそれを見抜いて、離れていく(そして自分は自分を傷つけていく)が、そうでない(まだ離れていっていない)人を、僕は今も傷つけることになると知っていて、やめない。

こういう主義を温床にする人間関係を、僕は愛のない関係と呼びたい。幸運にも、僕には昔、こんな自分に問いかけてくれる人がいたが、ちゃんと応えられなかった。そして今、誰かにもう一度問いかけられることを期待しても、それはパワーになるから、できない。それでも、僕はやっぱり、他人に期待すること、他人の期待に「答える」こと、答えてしまうことの外側に早く出たい。》

今思えば、この「期待」を超えていきたいという主体性を装った願いには、ごまかし、ある背伸びが含まれていました。本当は僕は、受動的になって、「問いかけられる」関わりの中を応えて生きたい。「君」の生き方は、「それでいいの?」という、人が人に関わっていく問いかけに応えたい。その問いに応えて、僕が変わることで、本当の、等身大同士の人間の関わりを持ちたい。そして「僕はこれでいいと思う」と言えること、それが自分の願いです。

今、自分はまだ「幼稚な子ども」のままです。就職し、日々の苦労を生きる周りの大人・友人たちと一緒に過ごして気付いたことは、互いの心に深く問いかけあうことは困難だという感じが受け入れられていることでした。僕は、心に問いかけあうこの困難さの受け入れを、環境/世界のせいにして、ただ嘆いていることができる。僕は今や、「誰にも言えない自分だけ」の願いを、問いの形にして、自分に問い返さなければ変わっていけない社会関係の中を生き始めていると感じるのに、僕の中には、自分の深い願いを問いに変える力も、それを生きて変わっていく力も、まして、自分の知らない自分の本当の願いが何かを知る力も、どんどん弱くなっていっていて、どうしたらいいのかわからない。

僕は「真に大人になること」は、「問いかけに無関心な大人」ではなく「大人な子ども」に育つことだと思いたいです。でもこの形容詞としての「大人な」自分は、まだ確かではありません(幼稚なまま生きられる世界があっていいのでしょうか)。

では、こうして自分の本当の願いを知る力の弱まりの中を生きなければいけないとき、僕はどう「等身大」を直視し、生きていこうと思っているのか。もう少し話します。

一つ目に、哲学があります。セネカ曰く、「人生は短い」と。だから、僕たちは若い頃から、英知(哲学)を極めなければいけない。それこそが、「真の人生」、Meaningful life であるそうです。でも、僕の周りで学問に従事する人たちは、本当のところどんな気持ちでそれらに従事しているのか。今年の4月、僕が大学を卒業する時に先生に訴えたかったのはこの問いでした。今、僕は大学を卒業しようとしている。けれども、「人生の短さ」を前にして、これっぽちも強くなれている気がしません。それでもはや、自分の努力で自分について何かできることがあるのか、わかりません。僕が本当に自分に素直なまま、「人生の短さ」や「問いかけのない関わり」を前にして、強さを持って生きられるようになるのは、おそらくこの道ではない。

二つ目に、「経験」の道があります。これは引用して説明するしかないので、引用します。

「平和であっても、自由であっても、人間(あるいは、ユマニスム)であっても、そういうものからじかに出発したら駄目だということである。自己の中の生活と経験とが発展し、 深化されて、自ずから、その経験そのものが平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、またそういう人々の期せざる一致によって支持されるのでなかったなら、すべてが軽薄になり、混濁してくると思うのである」(「霧の朝」『森有正エッセー集成3』34頁)。

卒論はこの前提から出発しました。十九世紀の一次文献を読んでわかったことは、やっぱり、遠い時代の外国の誰かの言葉は、その時代を生きたその人だけの経験に支えられているということでした。la Démocratie en Amérique という言葉は、十九世紀フランス、ノルマンディーの衰退貴族の家に生まれて時代を嘆く青年の、生活の問題、恋愛の問題、信仰の問題、旅の出会いから、練り上げられたものでした。確かに、この青年の経験は自分と似ているところもあるけれど、どこまでいっても同じじゃない。だから、もし僕が「自分の言葉」を獲得したいと思うなら、la Démocratie と同じような言葉のコト、中身を実現できるようになるまで、「真似しよう」という意図なしに僕個人の等身大の生活を生き直し続け、人生のすべての出来事に出会い続けるしかありません。するとこの道だって、自分の努力では進めないと思います。唯一、自分は生活の中で何かに出会い続けるぞ、一度出会ったことは無視しないぞ、ということは決められるでしょか。何かに出会うことがわかっていて出会うのは本当の出会いではないと思います。

僕にとっては、この「経験」の道の難しさはここにあります。一度、心の中の何かが「出会った」と感じたことを無視しないことが、ずっと難しいです。それを無視しないで「自分」を生き直せば、「自分」はどうなってしまうだろうか、と思います。その「出会い」が、果たして本当に「意味のある」「純粋な」出会いなのか、わからない。最近の僕は、次の三つ目の道を頼りに、生きています。

三つ目は、自意識と世界の「彼岸」から何かを受け取って生きる道です。最近の僕は、「本当の自分(Our real nature; the real me; the reality of me; do I really want to do this at this moment)」と「彼岸(その向こう側である、未生、beyond)」についての問いと言葉から、何かを受け取ることがあります。その中で、心の純粋さを生き続けたいと思っています。

「未生に御手あり」。
「(……)この為して 手なる御者の裡うちに、おいのち在り、おいのちは人々の光なのであるが、光は無明に照っても、無明はこれに届かなかった」。
「主と取引しようとする者は実に愚かな人々である。彼らは真理についてほとんどあるいは全く知ることがない。それゆえに主は神殿から彼らを追い出し追い払ったのである。光と闇とは両立しえない。主は自ら真理であり光である」。

ほかに道があるかどうかは、わかりません。でも反対に、僕は、「こちら側」の、誰かを愛したいだとか、こんな生活を送りたいだとか、こんな職業に就きたいと言ったことで悩んでいるうちには、自分が本当に純粋さの経験を生きることは、多分、できません。どんなに素敵な、純粋な経験をしたと思っても、その経験を「僕」が繰り返したい、もう一回そこに居たいと思ったら、それが「不純さ」の根っこになる気がする。だから僕は、「純粋な自分〝たち〟」を生きるために、僕の胸の内で、光を信じていることしかできません。

この世のなにかを自分が掴んで離さない心の「手」を離して、二度と掴まないで生きる。この「手」の力を抜いたまま、生かされたいです。僕たちを生かす同じ「おいのち」の光が、僕たちの中の光以外のものを全て照らし出し、僕たちも本当の等身

大の自分たちを生きていくことができますように。ありがとうございました。

I am afraid of knowing the answer to this question: what is my true motivation seeking the light from beyond? Does it come from the heart where receives the light, or fear and desire wanting to achieve some goals for an individual human being? 

What makes us free from fear and desire, and enables us to follow our heart from moment to moment? Where do our real happiness and inner peace come from? What receives the light in me? I am happy beinghere today.

参考文献

エックハルト『エックハルト説教集』田島照久編訳(岩波書店、1990年)

森有正『森有正エッセー集成3』二宮正之編(筑摩書房、1999年)

『漁師の告白(ヨハネ聖福音書)―神のみ手との出会い』押田成人訳

(思草庵、2003年)

 (2021年7月11日、9月29日追記)

(フォルシア株式会社)