発題と応答

夏期修養会:シンポジウム発題

【シンポジウム①発題】山本茂男 ― その生涯と信仰 小淵康而

山本茂男という人は共助会にとって実に大きな働きをなした人物として、忘れることのできない先達ですが、その人物像と働きについては、比較的知られていないのではないか。私自身もこれまでに山本茂男について特に調べたり、関心を持つことは少なかった。しかし、共助会の歴史とその働きを考えるとき、

この先達を無視したり軽視することはできない。

山本茂男(1892 ~ 1970)は何と言っても共助会の初代の委員長として実に約40年間共助会の指導に当たった人であり、森 明の最も近くにいて、森 明から信仰と友情の指導を受け、その生涯を森 明から受けた信仰と友情にかけた人である。私自身は直接山本茂男に会ったことはなく、私が神学校を出て中渋谷教会に伝道師としてのお招きを受けた2年前に天に召されていた。

① 山本茂男と森 明との出会い・友情

山本茂男は九州福岡県の出身で、生家は古い農家であり、兄3人姉妹4人の中で四男として誕生。父が区長として苦労しているのを見て育ち、中学生の時から、政治家を志望する若者として成長した。第7高等学校(鹿児島)に学び、青雲の志に燃えて東京帝国大学法学部に入学するため上京し、森 明と出会うことになる。高校時代、すでに洗礼を受けており、植村正久牧師を介して、森 明と出会う。1916年秋のことである。植村の紹介を得て翌日、森 明宅を訪問し、僅か十数分の対面であったが、「未だかつて経験しない真実と愛の心を謙遜と人格的な魂の気品とに忘れ難い深い印象を受けた」とその時のことを語っている。初対面のとき、「小さな教会ですが、どうか同情を以ってお助けください」と森 明から言われ、中渋谷教会の礼拝に出席するようになった。

当時の森 明の説教は深刻に罪の問題に触れるものが中心であったため、山本は救いの喜びではなく、罪の苦悩の中に投げ込まれ、学業にも興味を失うほどであった。健康も失われ、気力も失い、友を離れ、また教会からも遠ざかってしまった。そのような山本をある日、森 明が下宿に訪問し新しい出会いと友情が育まれた。「キリストが吾々のように卑しい罪ある者のために十字架の上に贖罪の血を流してくださった……キリストが我らのすべてを知り尽くして尚、愛してくださるのだから実にもったいない事です」と語る森 明の声は感激にふるえていたと山本は振り返っている。その帰り道、「君、ほんとうにお互に友だちとしてしっかりやろう。吾々が友達になるのは、何も学問があるからとか、能力が優れているとか、品性が立派だとか、人物が偉いとか、こう言うためではない。」この森 明の言葉に山本の魂は揺り動かされて「自己をも友をも全く信じられないまでになっていた私に、かくまでも人格的な信頼を投げかけられた先生の愛が、私の魂を全くキリストに捉えてしまった。この時以来私はキリスト者の友情を新たに意識するようなった。」終わりに森 明はこう言った。「君が世界中の人々に捨てられても、私は最後まで君の味方だ。」この言葉が山本の魂を打ったのだと思う。いわば山本が森 明から友情を知らされた原点とも言うべき経験である。

山本茂男の生涯を考えるとき、どうしても忘れてはならないことは、彼が多くの病気を抱え、病気との戦いの生涯であったと言うことである。大学入学直後から、肋膜炎、肺結核、肋骨カリエスとその手術、胃腸病、神経性頭痛、晩年の眼底出血。これほどの病気に悩まされながら山本は中渋谷教会牧師と共助会委員長という働きを担ったのである。1920年、山本は帰郷して九大で肋骨カリエスの手術を受けることになったが、帰郷直前に森 明が、また山本をその下宿に訪問し励ました。「君は学士になったってつまらん。だけれども、君には共助会があるじゃないか。奮発して卒業したまえ」と言われ、山本は「心に深く励ましと友情の真実を覚えた」と語る。

② 献身への道

1921年夏、日本基督教会全国青年信徒修養会が軽井沢で開かれ、森 明は中渋谷教会の青年数名を伴い、これに出席したが、この時の経験が山本の牧師への献身の道を備えることになる。その修養会の中で、森 明は中渋谷の青年だけを伴い、早朝集会をもったが、司会を命じられた山本は、マルコ8章27節以下のフィリポカイザリアにおけるペトロの告白の句を選んだが、「あなたこそキリストです」とのペトロの告白についての森 明の説教が山本の心を打ち、「先生の言葉は、熱気を帯び、聖霊の炎が私たちを包むのを覚えた。やがて私の魂の奥底にはイエスは生ける神の子キリストであることが鮮明に印刻されたのである。私は霊的に酔い、改めて主イエス・キリストへの信仰の忠誠と献身の決意を堅うしたのである。まさしく私の第二の新生の体験であった。」その時、森 明が青年たちひとりひとりに課題を与えたが、山本に対しては、「山本君、君は贖罪の問題を、深く掘り下げて行きたまえ」と言い、この言葉は山本の生涯の課題となった。その年の秋、山本は森 明を訪ね、「キリストのため福音に仕えたい」との「まだ漠然とした願い」を告げた。これを森 明は非常に喜び、「何の資格もない」と言う山本に対して、「必要なものはキリストが与えてくださる」と言って、山本を励ました。

翌年、山本は休学続きで大学6年目を迎え、この年卒業しなければ卒業できないところまで来ていたが、奮起して猛勉強のすえ、卒業することができた。その次の年山本は日本基督教会東京中会で教師試補(現在の補教師)の試験を受け合格した。しかし赴任する教会がないため准允(じゅんいん)を受けることができず、中渋谷教会の補助伝道者として、森 明牧師と教会に仕えることになる。 

その同じ年の秋、森 明と山本との間にあった忘れがたいひとつのエピソードを紹介しておきたい。その秋、森 明は3回にわたる伝道講義を本郷で開いたが、第1回目の集会のとき山本は千枚のビラを印刷し、近くの高校生と大学生の下宿を一軒一軒訪ね、集会に誘った。30余人が集まった。次の回と第3回は山本は一本の立看板を立てただけであった。出席者も半減した。3回目の集会が終わった後、森 明は山本の下宿に行こうと誘って歩き出したが、途中で山本に話しかけた。「君がそんな精神なら、もう君と一緒に伝道することはできない。絶交する。君は勝手にしたらよい。」山本は脳天を打たれたように感じた。その時まで自分の怠慢を済まないと思っていたが、自分には自分だけの弁解があると思っていた。「しかし、この瞬間私は不可抗的な権威を感じた。」「先生に従うのは、キリストにお仕えする一つの道だと思ってきました。今も私の心には変わりはないのです。」すると森は山本の肩を静かに押して「君は体が弱いから心持ちはよく分かる。だけどね、自分の弱さに負けちゃ人間になれない。お互いに死ぬべき命を神の御恵によって助けられたのだから、これから死んだ気で残る生涯をキリストに捧げていこうじゃないか。」そのことを山本はこう振り返る。「先生の声も涙にうるんでいた。先生の崚厳な態度にひき変わって、温情にあふれる愛が私の全身を懐いた。」友情の姿である。

③ 戦時下の苦闘

山本茂男が中渋谷教会の主担者となったのは1929年である。25年に森 明が天に召され、中渋谷教会は今泉源吉を甲府の地方裁判所の判事から呼び帰し、森 明の後任の主担者として招いた。今泉は4年余りで退き、代って山本が主担者に選ばれた。その時山本は正教師ではなかった。山本はその後も三度も喀血し、牧師として働けない時期が3年間あり、主担者になって10年目に愛妻を天に送り、苦難の時を過ごしたが、中渋谷教会は長老会を中心に病弱な山本を支えた。戦時下から戦後にかけ20年間は健康が保たれた。

共助会にとってまず忘れてはならないことは今泉源吉の「みくに運動」のことである。今泉は七高と東大時代を通して山本と信仰の友として同じ道を歩んだ仲間であったが、1935年に雑誌「みくに」を発刊して、今泉は「日本的キリスト教」そのものを主張し始めた。その今泉のことを念頭に、山本はその前年の共助誌で「年頭の祈願」と題し、今泉批判の文を掲げ、「たとえいかにキリスト教が日本的になることを必要とするも、その真理をまげて妥協するならば、それは自らの自殺行為である。……日本のキリスト教徒が今最も留意すべき大切なことは、明確に神の絶対的権威を認め、これに絶対に服従し、神、キリストに対して信仰の忠誠を全うすることである。今日ほど、我らがキリストに従って、その信仰的良心によって生活を賭けて戦うべきことを要求せられつつある時は少ないであろう。」この問題については「共助」2019年第3号に飯島信委員長が「主にある友情を想う ― 山本茂男と今泉源吉」と題して詳しく書かれているので、御参照ください。

ところで、それでは山本茂男は戦争中にどのようなメッセージを語っていたのか。その点について語ることは苦しいことではあるが、やはり見逃すことはできない。今泉源吉に対しては右のような発言をした山本があるが、戦時下の発言は今の私たちから見ると、そこまで言わなくてもよいのではないかと思われるような発言が「共助」誌の戦中の中にくり返されている。その中から、多少長い引用になるが代表的な山本の発言を記しておく。「東亜における神の国建設 ― 森 明先生の20年を迎えてその志と精神を思う」(44年3月号)から引用しよう。

「思うに、日本民族の理想と使命とが天壌無窮の国体と八紘為宇(はっこういう)の精神にあることは、肇国以来の伝統的精神である。……しかしながら世界新秩序建設の前に、まず東亜の共存共栄の秩序が建設されねばならぬ。これがために各国の自主独立と調和が保持せられ、各民族の精神を生かしてその文化を昂揚し、人種的差別を撤廃して大東亜を共自存の一家たらしめねばならぬ。……今や大東亜戦争はひとり日本の自主自衛のためのみでなく、実に大東亜の共自存の秩序建設のため、ひいては万邦協和の世界を実現せんためである。ここにこの戦いの道義戦たる所以がある。」 右の論ずるところは、森 明の「民族の使命について」(1922)の論旨を受けて、戦時下における戦況の中に更に時局化させ、ついには「この戦いの道義戦たる所以」にまで進んでしまっている。それでは「東亜における神の国建設」とキリスト教信仰はいかなる関係にあるのか。

「しかしながら、人類はまず罪から救われねばならない。しからざる限り共自存の秩序も万国協和の世界も結局はバベルの塔に終わらざるを得ないであろう。……かくの如く、キリスト教は力強く我が民族精神を貫き、その本質を生かして、八紘為宇(はっこういう)の理想を実現すべき真の力たり命たるを知るのである。……ひろく東洋は神の国を建設せんことは森 明の使命の自覚であった。我々もその志と精神を継承せねばならぬ。」つまり、東洋に神の国を建設するためにはキリストの贖罪が必要であることを前提にして、森 明の精神を受け継いで行こうと呼びかけている。以上のような論旨の主張は戦時下の山本の書いた文章にくり返し見られることである。あの戦争を大東亜戦争として受けとめつつ、東亜の共存のためにはキリスト教によって罪の赦しの福音が必要だと論じている。森 明以来の祖国愛がその根底に流れている。

④ 戦後の山本茂男 

山本茂男は、戦後の発言と行動において極めて熱心に取り組んだことは、平和と憲法擁護であった。「共助」誌の戦後版を読むだけでもそのことは一目瞭然であり、そのことを山本は委員長として強く主張し、また実践活動にも携わった。そのことを私は高く評価すべきことと思い、心から嬉しく思っている。また「共助会」にもその活動の中に平和運動と憲法擁護を位置づけている。共助会の先達の中でそのように積極的に政治的・社会的な運動にコミットした人はそれほど多くはないと思われる。そして、山本が実践したこの伝統は今に至るまで共助会の中に受け継がれていると思うし、これからも受け継がれて行って欲しいと願うものです。

そうであるから、ひとつだけ山本茂男の戦後の働きについて、問いを発したい思いがする。それは何かと言うと、戦時下における共助会と委員長としての山本茂男の発言について、反省や釈明がはっきりした形で表明されてこなかったのではないか。それはなぜだったのか。その必要性を認めなかったためか。あるいは共助会としてそのような合意を得ることが困難であったためか。

日本キリスト教団が総会議長・鈴木正久の名のもとに「第二次世界大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白」(いわゆる、戦責告白)が出されたのは戦後22年たった1967年であった。山本茂男はこの戦責告白を積極的に受けとめ、直ちに賛同の意を表している。当時、この告白に対してやや否定的な意見も少なくなかったことを考えると、山本が直ちに賛同歓迎したことを共助会としても喜ぶべきことと思う。

この問題は、森 明以来の「祖国愛」の課題と関係があるのではないかと私は考える。明治時代生まれのキリスト者はほとんど祖国愛とキリスト教信仰を結びつけて受けとめているが、それは歴史的にある種の必然性があると思う。ただ、「祖国愛」というとき、それが天皇制とどのような結びつきがあるのか、ないのか、あるとしたらどのような関係なのか、そのあたりが戦後に育った私には良く分からない。天皇制とは全く関係なしに、祖国愛というものはありうるのではないか。

山本茂男がキリストを信じ、森 明というすぐれた先達と出会い、友情を重んじて、キリストに従って生涯を神にささげ、共助会の重責を担って生きぬいた人物であることを多少なりとも学べたことは感謝である。彼には真実さ、私に言わせれば純情と言ってよいほどの真実さがある。共助会として、山本をいかに受け止めるか。これはこれからも忘れてはならない課題だと思う。

*引用文の漢字表現はひらがなに直した部分があることをお断わりいたします。

(日本基督教団隠退教師)

【シンポジウム② 発題】和田 正   朴 大信

1 はじめに

本来なら、和田 正「先生」と敬意を込めてお呼びしたいところですが、この場ではあえて「和田 正」と呼ぶことにします。先生や牧師といった肩書抜きの、言わば主の御前に生きた和田 正その人を純粋に見つめ、出会ってゆくことを願うからです。

私は、実際に和田 正にお目にかかったことはありません。大変恥ずかしいことに、実はその名も、私が現在の松本東教会に赴任することが決まるまでは存じませんでした。そんな私がここで和田についてご紹介するなど、特に彼と面識のあるご年配の方々を前にすると大変おそれ多いことでありますけれども、それでもいくらか私なりに受けとめたその素顔をご紹介させて頂くことで、さらに深く、また新たに出会う契機になればと思います。

2 エピソード

和田が天に召された後、親しい仲であった韓国共助会の李 英環先生は、故人のことを「怖い人だった」と振り返りました。それは「和田先生を騙すことほど簡単なことはないが、そんなことをすると主に罰せられるだろう、そういう意味で恐ろしいのだ」ということだったようです。もうこれだけで、和田の姿を象徴的に物語っているようにも思います。また、『基督教共助会九十年』を手にすると、その索引を見るだけで、和田の名が至るところに出ているのが一目瞭然です。共助会の中で、特に日韓をまたいで、いかに大切なお働きをなしたかが伺えます。しかし今日はせっかくですから、実に和田が40年近くも牧会をした「松本日本基督教会」(現松本東教会)での在任中の姿から、さらにもう一つのエピソードを加えようと思います。私がお仕えする松本東教会は、手塚縫蔵(ぬいぞう)を中心とする松本聖書研究会を母体として1924年に設立されました。そして1947年、戦後の単立教会として再出発した当教会は、京都・北白川教会より和田 正牧師を招聘しました。1986年に隠退するまで、特に和田が尽力し、また教会にとって大きな出来事だったのは、何といっても1980年の会堂建設です。教会設立以来、半世紀以上も会堂なしで転々と場所を移しながら礼拝を守り続けて来た本教会にとって、それは悲願の会堂でした。ところがこの会堂建設について、和田はしばしばこう警鐘を鳴らしていたのです。「会堂のあることによって信仰の堕落を恐れる」。これは今や伝説のような戒めとして、ほとんど毎年、献堂記念礼拝の中で語り継がれている言葉です。 和田はこの言葉を公にすることで、教会とは何か? 教会を教会たらしめる真実とは何か? ということを真剣に問おうとしたのだと思います。残された教会資料を見る限り、おそらくその念頭にあったのは、第一に、教会とは「エクレーシア」(主に呼び集められた群れ)であること。そして第二に、教会とは生きた人格として、「キリストのほか、自由独立」であるということ(共助会精神とも重なる)。つまり和田にとって、たとえ姿・形は整っていなくとも、「キリストの名によって二、三人が集まる所」(マタイ18:20)にこそ教会は立つ。これが和田にとって、教会形成の重要な軸ではなかったかと思うのです。逆にこの真実を見失ってしまったら、どんな立派な会堂が建っても、教会は教会でなくなると。

3 略歴

ここで少し、和田の若き日に目を向けてみます。1910年、大阪の商人の家で8人兄姉の末っ子として生まれた和田は、随分と早熟というか、ませていたようで、その少年時代は、本人に言わせると「放蕩の時代」だったと言います。中学の頃は、しばしば学校をさぼっては映画や演劇を観に行くという生活をし、その当時流行っていた遊びはほとんど経験したとか。

さて、和田がキリスト教と出会ったのは高校生の頃でした。京都の第三高等学校時代、理科に入って学んでいましたが、全く勉強が面白くない。ちょうどその頃、人生問題に直面し始めていたこともあり、さらに勉学が手につかない。そんな折、和田はキリスト教の講演会や仏教の講演会などにも出かけて、真剣に人生とはいったい何だろうかという問いを深めていくことになります。そして二年生だったある日、「贖罪宗教の真理について」という講演を聴講したことがきっかけで、そこで京都キリスト教共助会員を中心とした奥田成孝、鈴木淳平、草間修二、山本茂男、沢崎堅造、松村克巳ら多くの先輩同僚と初めて出会います。この新しい出会いを通じた支えと激励によって、和田は四年かかって何とか高等学校を卒業します。その後、京都大学文学部哲学科に進みますが、しかし彼にとって、そうした熱い信仰と友情で接してくれる仲間たちとの交わりは、必ずしも喜ばしいものではなく、むしろ苦痛が深まっていくような経験でもあったようです。後に和田は、この頃のことを「北白川教会三十年史」で次のように回想しています。

「しかし、信仰の協同生活は罪をはらむ者にとっては耐え難く苦しい。祈りたくないのに祈りの座に引き出される。心にもないような祈りをする羽目にも陥る。稲城の二階の毎朝の祈祷会、私は時折布団の中で怯えていた。今にも二階から『和田君』と呼ぶ声が聞こえて来はしないかと。共助会の人たちと信仰生活を共にしていきたい気持ちはある。しかし、生活がついていかない。自分はあまりに醜い。矛盾に引き裂かれている。中学時代一番親しかった友人がその頃大阪からやって来て忠告してくれた。『君はキリスト教へ行くような性質ではない。キリスト教へ深入りすればするほど矛盾が烈しくなり、破綻に陥るぞ』『破綻とはどういうことだ』『自殺だ』と。

とうとう私はある日、今日こそキリスト教を捨てよう。共助会の人たちから逃れようと考えて、一人賀茂川べりを散歩しながら、いよいよその決心をしようとした。ところがその途端、ふだん気にも留めなかった聖書の言葉が不意に心の中に閃いた。『義の道を知りて、その伝えられたる誡命を去り往かんよりは、むしろ義の道を知らぬを勝れりとす』(ペテロ後二・二一)。その聖言が決心の出鼻をいっぺんにへし折ってしまった。私はまた稲城へ戻って行った。」

4 贖罪信仰

以上の思春期から青年期までの姿からも伺えるように、和田にとっての人生問題とは、罪の問題でした。それは単なる教理的な問題などではなく、自分自身の問題でした。和田はこの自己の内にまとわりつく罪の問題で、人生の至るところで苦しみ悩みました。言うなれば、生涯にわたって、キリスト者であるということや伝道者であるということについて回る聖なるイメージと、現実の自分にとりついて離れない罪の実体との隔たりに苦しみ続けたのです。そして、だからこそまた、己の罪を知れば知るほど、キリストの十字架の赦しの恵みにすがり続けるのでした。聞くところによると、和田の説教は、いつもキリストの十字架の血による贖いを基に、神との和解、そして人間同士の和解について語られたと言います。それは、牧師としてそれを語るのが務めだからというのではなく、和田自身がどうしてもこの十字架の福音に貫かれなければ講壇に立つことができなかった故であったに違いありません。

5 熱河宣教

こうした内なる罪の問題を真正面から見つめる中で、和田に一つの転機が訪れます。当時のことについては、これもご本人が直接述懐した言葉で辿る方がよく分かると思いますので、「北白川教会五十年史」より、いくらか縮めながらそのまま紹介します。

「太平洋戦争が段々激しくなって来た頃であった。皆食糧難に苦しんでいたが、中国人の困りようは比較にならぬ程酷いものだということを知った。日本は東亜新秩序の大理想をかかげてその盟主を以て任じている。そして、英米を鬼畜と罵倒している。しかし、その中国で日本は何をしているのか、日本人の中にハドソン・テーラ宣教師のように中国を愛し、そのために命を捧げた人がいたか。毎日毎日、多くの同胞が爆弾を抱いて敵艦に体当たりし、尊い命を捧げていった。文字通り血みどろの戦いである。しかし、東亜の諸地域で日本のやっていることは東亜新秩序建設の理想と矛盾すること甚だしい。日本のキリスト者はこのような深刻な事態に直面して何をなすべきか。私は思い迫られる気持ちで暮を迎え、毎朝、瓜生山へ行って祈った。

十二月三十日、私は一つの事件に出会った。銀閣寺の停留所前であっという間に二、三才の子が電車に轢き殺されたのである。何の罪もない幼児が無残な死に方をして、あやまちを犯した母親がかすり傷一つ受けずに、死んだ幼児の無残な姿を見詰めていなければならぬ。次の日から山へ行って祈っていると、いつもこの幼児の姿が眼前にちらついた。ここでも罪なき方が十字架上で無残な死に方をしておられる。ここでも彼を十字架につけた罪人なる私が反って十字架上のキリストを見詰めている。だがここでは私は傍観者ではなかった。あの母親の立場であった。あの時、私は傍観者でありながら、じっとしていられなかった。そうであるなら、十字架上の主を見上げて私はじっとしていることが出来るだろうか。毎朝、山で祈る毎に、この思いに満たされた。今後はただ十字架の主のためにのみ生きる事を祈り、身を主に捧げた。

私は中国への責任を強められて行った。一月十日にはのっぴきならぬ問題として決断を迫られていた。十一日の朝も早くから瓜生山に出かけた。ガラテヤ書三章二八節から読み始めることになっていた。『今やユダヤ人もギリシャ人もなく』と読み始めた時、『日本人も中国人もなく』と心に強く響いてくるのを覚えた。ここにのみ日中の問題の解決がある。同胞は血みどろになって苦闘しているが、キリストによらずして絶対に解決はない。神によって起こされた志はいかなる形にてか必ず成就される。私は現実に中国へ渡れるかどうかは問題ではないと考えた。祈り続けて行く中に、今日もし死んでキリストの聖前に出たとしたら、主は『中国へ献身します』と申し上げるのをお喜びになるか、『献身しません』と申し上げるのをお喜びになるか、どちらだろうという問いが心に生じた。すると即座に主は『中国へ献身します』という答えを喜び給うと確信せしめられた。そして私の心は定まった。厳かな思いにうたれて、直ちに靴を脱ぎ、平伏して神に対し、『中国へ献身致します』と申し上げ、導きを祈った」。時は戦火の広がる1944年の暮れ。中国の窮状と日本の矛盾を目にしながら、和田はその間でキリスト者としての自己のあり方に苦悩していました。そんな時、ある事件に遭遇します。無残な死を遂げた幼児と、自らの不意な過ちから幼児を死なせてしまった母親。こうした痛ましい現実をどのように理解し、受けとめるかは本当に難しい問題です。人間には到底予測し得ない仕方で、突如としてぶつけられているからです。しかしだからこそ、私たち一人ひとりがその現実を神との関わりの中で問い続け、また問い返されながら、時を得て受けとめ直すプロセスが大切なのだと思います。和田は、瓜生山での祈りの中で、あの幼児の姿に、何よりも自分の罪のため、そしてまた人類全体の罪のために十字架上で死なれた神の独り子イエス・キリストの姿を見ました。しかしその時、もはや傍観者のようには見ることができなかった。それどころか、そのキリストのためにこそ自分は生きなければならないと思いを定めさせられたのです。

こうして中国への献身は、決して和田一人の意志や計画によるものではありませんでした。そこに伝者として立てられるために、そしてそれが主の御心だと確信できるために、キリストの無残な死と見ず知らずの一人の尊い幼子の犠牲が、和田にとって特別な意味をもつ出来事となったのです。

熱河宣教に赴く和田の心境がいかほどのものであったかは、次の一言に込められていると言ってよいでしょう。「もし中国に行くことを許されたら、ただ一人の中国人の為にだけでも生命を捧げよう。……だが神によって起された志は、たとい自分が死んでも無には帰しない。何らかの形で神御自身が成就される」。

6 御言葉に生かされて

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ書3:26~28)。 既に触れたように、この御言葉によって、和田は神の全き御心を知らされて伝道者とされました。彼にとって伝道の真髄とは、主イエス・キリストを信じる信仰によって全ての人間が罪赦され、そして互いに罪を赦し合うという和解の福音を宣べ伝えることに他なりませんでした。この和解の福音は、神の独り子イエス・キリストがその命を十字架に捧げてくださったその真実に根ざして、私たち人間に与えられているものです。しかしこの福音を本当に受け取り、その恵み生きるためには、私たちもまた主に命を捧げる決断を求められるということ。つまり、この福音はただの言葉だけでは決して伝わらず、そこには自らの命を捧げる思いと行いが伴わなければならないということを、和田は身をもって示していると思うのです。

したがって、和田にとって和解の福音は、中国に留まらず、韓国との関わりにおいても、その後いよいよ必然的に根を下ろしていくことになります。彼は晩年の1990年、共助会の友たちと韓国を訪れました。病を抱えながらも、「たとえ韓国で倒れても本望だ」と言うほどに、和田にとって韓国は、和解の福音を身をもって生きなければならない隣国でした。その韓国で、彼はかつて十字架のキリストの故に赦し合い、真の意味で兄弟となった尹鍾倬先生の牧する教会で説教しました。その時、尹牧師は和田にスーツを贈ったそうです。そして帰国した直後の主日、和田はそのスーツを着て説教しました。キリストの愛を着ているようだと証ししながら。その時の説教題は、先のガラテヤ書から「ユダヤ人もギリシャ人もなく」と掲げられました。和田が伝道者として神に立てられた時のあの言葉です。召命を受けたあの時、彼はこの言葉を「もはや日本人も中国人もなく」という神の語りかけとして聞きました。しかしこの時、彼は「もはや日本人も韓国人もなく」と受けとめ、キリストにある真実の和解を精魂込めて語ったのでした(この逸話の詳細は、『共助』2019第7号の拙文参照)。

7 おわりに

私は今回を通じて、「出会い」という言葉の意味を改めて思わされています。私は和田 正その人にお会いしたことなどない者です。それでも、不思議と血が通うような出会いの心地を感じます。この出会いに生かされる喜びを禁じ得ません。もしかしたら、これが「出会い」の真実なのかもしれません。文字通り、出て、会う。自分の殻の外に連れ出されたところで出会う。言わば、自らがむき出しの存在にさせられるところで他者の真実に触れ、命の交わりに生かされると言うべきでしょうか。そうであれば、それはまさに和田自身が、キリストの真実に出会っていたからに他なりません。絶えずキリストに連れ出されながら和解の福音を生きた。愛に生きた。

先達の歩みに学ぶとは、決して先達を美化して信奉することではなく、その人を生かしていた真実に私たち自身も出会い、そこからまた新たな真実なる出会い、主にある友情へと押し出されてゆくことではないでしょうか。 (日本基督教団 松本東教会牧師)