キリストの平和 阿部真希子
第一次世界大戦直後の1921年、デンマークに一つの学校が誕生した。創立者のピーター・メニケは、敵同士であった者でも、学びと生活を共にすることで、互いを尊重し、共通の理解を育み、平和を実現することができると信じた。私は2016年に、同校で半年間の学びの機会を得た。34か国から来た100名の学生と教師達との出会いは、教科書やニュースで知るだけだった国々の印象を大きく変えた。創立から一世紀が過ぎたが、このメニケの、シンプルだが的を射た平和構築の方法は、分断の多き世の中で、ますます意義深いものとなっている。
私たちには、国籍に限らず、できる限り多様な背景、生き方を持つ友が必要である。これは決して容易ではない。自分と異なれば異なるほど、友となることは難しいからだ。私自身、デンマークでも、アジア学院でも、自分が培ってきた価値観に全く当てはまらない相手の言動に、ショックを受けたことが幾度もあった。しかし同様に、衝突とカオスを超えた先で、最後には同じ人間として、理解し合う経験もした。
5月に甲府の義両親を訪ねた折、山梨教会で及川 信牧師の説教をお聞きした。説教題はヨブの言葉、「人間とは何なのか」であった。これは、友人からミャンマーで起きている惨状を聞くたび、何度も心に浮かぶ問いでもあった。先生は、ウクライナの状況を踏まえながら、「人を殺す道、主イエスにおいて現れた神の愛を証しつつ生きる道、どちらを選ぶかは私達の自由にかかっている」と語られた。人はこの二つの選択ができるということに、希望を抱くと同時に、大いに考えさせられる言葉であった。また、聖餐卓の原型が「棺」であるとの話にドキリとした。以前から、白い布がかけられた聖餐卓を見ていると、何だか落ち着かないような、畏怖のような気持ちを抱いていたが、その理由を知り、襟を正される思いがした。
自分を殺す者を赦し、代わりに死なれたキリスト。私はどれだけの思いで、この大いなる愛を受け取ることができているのか。無償で頂いた愛なのだから、他人にも無償で与えるべきではないのか。子育てをしていて、心に余裕がない時、自分の内にある残虐性にふと気付き、絶望することがある。家族に投げつけた愛のない言葉に、実は自分自身も深く傷ついていることを知る。平和の実現とは何と難しいことか。
主よ、私の弱さを憐れんでください。願わくば、人を殺す道ではなく、生かす道を選ぶことができますように。
(浜松バプテスト・キリスト教会員)