尊厳について 林 香苗
荒川朋子さんの原稿を読み、共助会の草創期から現在にかけて活躍されてきた女性のはたらきを知りました。お一人お一人の苦難、葛藤がおありだったこと。それらの問題を抱えたうえで、神の心をたずね求めながら日々を歩まれたことを知り、励まされました。少しずつ文化も社会も変化しているだろうと思いますが、描かれているしんどさには馴染みがあると感じました。記事に大きな刺激を受け、最近思っていることを文章にしました。
女性が尊厳を持って生きるためには、女性らしさ(外見、振る舞い)と、社会における成功の両方が必要なように見えます。意識すると辛いですが、会社員として生活し、欠点を持つ生身の人間同士のコミュニケーションがある以上、やむを得ないと捉えています。本当は、このような表面的な面ではなく、より本質的な面で、尊厳を認め合えるといいのになあと思っています。倫理的に優れていることなどの、他者との比較でもなく、また過去の自分との比較でもなく、ただ存在自体が受けとめられることを望んでいます。
ここで二つの問いから考えてみたいと思います。
一つ目は、尊厳(存在の受容)を獲得するにはどうすればよいのか。
二つ目は、私はなぜ、女性らしさと社会での成功が尊厳の獲得に必要だと内面化したのか。
尊厳とはそもそも何でしょうか。
尊厳:「尊くおごそかなこと」(精選版日本国語大辞典)、「気高く犯しがたいこと」(デジタル大辞泉)。似た言葉に尊重があります。
尊重:「とうとびおもんじること。価値のあるものとして大切に扱うこと」(日本国語大辞典)、「価値あるもの、尊いものとして大切に扱うこと」(デジタル大辞泉)。
世界人権宣言の第一条は、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。(後略)」とあります。
日本国憲法第13条では、「すべて国民は、個人として尊重される。(後略)」とあります。(「国民」ではなく「市民」と言い換えたいところです。)
このように、尊厳とはすでに一人一人に備わっているものとされています。それが真実であれば、獲得しようという努力は本来不要なものです。
しかし、私の実感では、尊厳は場面によって増えたり減ったり無くなったりします。
仕事の場面を例にあげます(※以下はフィクションです)。私の営業成績があまり振るわない時のことです。業績を上げた社員がより偉いという考えに飲み込まれて私は卑屈になります。私はそのような自身に尊厳を感じることができません。同じ場面において、私は上司を尊厳ある人として見ていません。その時の私にとって、彼は恐るべき上司という役割に過ぎず、彼の人格を想像することはありません。私の卑屈モードが終わって気を取り直した時には、彼のことを「人を数値で測る冷酷な人だ」と断罪します。
このように、私は日常の自動思考において、自身の尊厳獲得にはそれなりの理由が必要であると考えているようです。例えば、毅然とした態度をとっている、成果が出ている、誰かに褒められたり感謝されるような立派な行いをしているなどです。同様に、私が人を見る視線も冷酷です。優しい人、頑張っている人、天才肌である人、深く物事を考えることができる人をより大きな価値を持つ人とみなしています。努力してもしなくても、誰にでも尊厳があるという命題を聞いて、すごく腑におちて安心する自分と、「本当にそうなのだろうか? 理想に過ぎないのではないか?」と疑う自分がいます。
それでも、冷静に考えれば、人は皆、尊厳があるという命題は真実です(もしかしたら真実ではないかもしれないと考えると、地面がスポッと抜けるような恐怖を感じます。今のところ、私の心の実感と頭の理解ではこれが真実であると信じています)。そのため、「尊厳(存在の受容)を獲得するにはどうすればよいのか」という問いはおそらく適切な問いではありません。「尊厳(存在の受容)を実感するにはどうすればよいのか」という問いの方が適切だと思います。
存在自体が受容されるということは、行為や思いとは無関係なことです。○○したら自動的に手に入るというものではありません。△△したら自動的に失うというものでもありません。(この○○には、「努力したら」「人助けしたら」、「業績を上げたら」などの何かしら優れていることが当てはまります。反対に、△△には劣っていることがはいります。)
○○したら手に入れられる尊厳は、存在自体を受けとめられたから手に入るものではなく、何らかの卓越性が評価されたから得られるものです。これにより得た承認や評判は、短期的には尊厳を得たいという願いを満たすものです。存在自体を受けとめられているわけではないかもしれないけれど、自らのこと
を「○○ができて、人の役に立つ大切な存在」であると認識し、安心することができます。存在自体を受けとめられているという実感が乏しい時には、努力の甲斐があるこちらの尊厳を得るためにがんばりがちです。うまく行っている時には、この尊厳をエネルギーにして楽しく生きていくこともできると思います。
しかし、どうにも色々なことがうまくいかない時にはエネルギーが枯渇して、生きているのがしんどくなります。誰しも、存在自体を受けとめられることを必要とする時があるのではないでしょうか。
幸いにも、私はこれまでに、存在自体が受けとめられているという実感を得たことがあります。私の努力とは無関係に起きた出来事でした(勇気はいくぶん必要だったと記憶しています)。優劣の測りでは劣っていることが明らかな場面において大切にされ、心から驚きました。その時の場面を思い出すと、劣っていることが露わになったことによる恥ずかしさがありますが、同時に心が温かくなります。
自分を省みると、優劣に関係なく自分や他者を大切にするということが、なかなかできないことに気づきます。他者に対するその冷たい姿勢が、自らにも返ってきているからこそ余計に、私は尊厳の実感を求めているのかもしれません。自分のことと他者のことをありのままに知ったうえで大切にしてくれる神が生きているとは思えないこともありますが、大切にされた経験と思い出を記憶の中に探すときちんと残っています。そのことをうれしく思って、神に対して「自分も他者も温かく受けとめることができますように」と日々祈りたいです。
二つ目の問いに移ります。私はなぜ、女性らしさの獲得と、社会における成功を達成項目として内面化したのでしょうか。端的にいえば、女性らしく振る舞い、かつある程度の業務成績を上げるほうが、職場で大切にされるように感じたからです。
会社に入って、「女性らしさ」と「業績」の価値がそれまでにいた場所よりも重視されることを感じて、戸惑いをおぼえました。私は割と真面目で思い詰めるタイプなので、この場所で生きていくには、会社を変えるか、私を変えるしかないと思いました。(いくつかの理由から逃げるという選択肢は除外しました。)もちろん会社の文化を変えることはそう簡単にはできないので、私を変える作戦をとりました。行ったのは、会社が求めている(と私が感じる)二大事項の、女性らしく振る舞うことと、仕事を頑張り業務成績を上げることでした。この作戦のおかげかはよくわかりませんが、会社の中での自分の立ち位置を徐々に確
保し、一定の安心感を得られるようになりました。この「成功体験」が、内面化を加速させたと思います。
(女性らしい振る舞いと業務成績の向上が実際に、私に対する周囲の人の評価をどの程度あげたのかはわかりません。彼らの評価軸はそれらの表面的なものに過ぎない、と私自身が決めつけていたのかもしれません。)
内面化の弊害は少なくありません。一点目は、到達すべき自己を外部に設定することにより、現在の自分のことを大切な存在だと素直に思えなくなります。二点目は、尊厳は数値によって測られると錯覚します。心のどこかでは、「女性らしさ」や「業績」が尊厳の根拠ではないということをよくわかっていますが、同僚や上司からの対応が変わることを経験すると、それらが尊厳獲得の必要条件だと勘違いしてしまいます。三点目は、ハラスメント被害を受ける恐れがあります。職場での立場が弱い若年女性が、身だしなみに気を配り、愛想良く振る舞うと、つけ込まれることがあります。
人は皆、尊厳があるという命題は真実だと信じていますが、なかなか腑に落ちるほど実感を持つことはできません。優秀であること(世間的な業績だけでなく、徳の面も含みます)や、美しいこと(ファッションモデルではなくとも、内側から染み出してくる美しさも含みます)が、この社会で尊厳を認められ、言葉や気持ちが重んじられるために必要だと、感じる場面は少なくないからです。
尊厳の実感は、他者が私に接する様子を私が解釈し受け取ることによって得るものです。主体は他者になります。実感を求めるために私ができることは限られます。他者が気持ちよく接してくれるように、感じよくすること。優しくされたいなら、優しくすること。業績を上げることで上司が私に親切になるのであれば、そこそこの業績を上げること。化粧をして身だしなみをきっちり整えることで、同僚が優しくなるのであれば、そのように装うこと。しかし、人との交わりとは自らの尊厳を得るために行うような薄っぺらなものではないはずです。
最近、エレミヤ書を読んでいます。エレミヤの孤独が随所に満ちています。人々から見放され、あざけられ、投獄されています。彼は、尊厳の実感は持っていなかったのではないかと思います。もし同じ立場になったとしたら、私はおそらく耐えきれず、他の生き方を探します。しかし、エレミヤのことが少し羨ましくもあります。彼は、神に対して呪いの言葉を吐きながら、それでもなお、神に魂を深くとらえられて神と人を愛する以外の生き方ができなかったからです。神は彼を大切にし、エレミヤはそのことを心の底で理解していました。
尊厳の実感を得ようと望むと、心は煮詰まり、手足は強こわばります。このような時の対処方法として、私は身体を動かすことにしています。掃除をしたり、ストレッチをしたり、散歩をすると、心身が楽になります。そして、たとえば掃除をしてきれいになった様子を見ると、「私も捨てたもんじゃないな」と思い、じんわりと満足感に満たされます。他者ともっとリラックスした関係を築けそうな明るい気持ちにもなります。
(会社員・日本基督教団松本東教会出席)