追悼

奥田義孝さんを偲ぶ ― 断想風に ―川田殖

毎年誰よりも早くクリスマス・カードを下さっていた奥田義孝さんが亡くなった(4月9日85歳)。それから半年、敬愛の思いはいやますばかりである。義孝さんは人も知る成孝(しげたか)先生の一粒種。三菱銀行や森永製菓での実業人としての働きを含めて、ご生涯の全貌はおろか、その一部をも十分に記すことは難しい。紙面の制約もあり、断想風に記すしかない。

義孝さんは京都生まれ、京都学芸大付属小・中、府立洛北高校を経て慶応義塾大学商学部を卒業された。スポーツ好きな健康少年で、牧師の家庭で育たれながら宗教臭さを感じさせない人だった。しかしご両親への敬愛は深く、天皇崇拝や英雄志向の風潮一色の小学校時代に「いちばん尊敬する人は」と訊(き)かれて「それは父です」と答えて担任を唖然とさせたというエピソード(恒子母上談)は、奇しくも義孝さんのその後の生涯を予兆しているかのようである。若き日からキリスト教を教え込まれず、礼拝出席も強要されなかった義孝さんが、長じて信仰を告白し、典型的なキリスト者実業人となったことを思えば、言葉ではなく生活を持って信仰を育てる家庭教育の大切さを改めて深く考えさせられる。

義孝さんは、私が京都にいた頃には、もう上京されていたので、その辺の消息は直接には知らない。東京では山本茂男先生と孝(よし)夫人に愛され、ご家庭にもよく行かれたようだが中渋谷の礼拝に出席されたことはなかったという。しかし後年の中渋谷教会での受洗を思えばここでも人格的感化が大きかっただろう。大学での勉強についても私はご本人から聞いたことはないが、はるか後、お宅の応接間に『大塚金之助著作集』全10巻が並べられているのを見て、この気骨ある経済学者を尊敬していた義孝さんに感服した覚えがある。夏休みなどに帰られても義孝さんは日曜日、会堂の掃除をされた後、短パンとラケットでテニスに出かけ、出会う人に親しく挨拶をされていたとのこと。おそらく就職されてからも仕事に精出されるかたわら、このような気さくな人間関係のうちに、比較的自由な生活を送られたのではなかろうか。

このような義孝さんが心機一転、教会生活に密接な関わりを持つようになったのは、ご結婚ごろからだと思う。お相手はキリスト教主義学校の出身で信仰のしっかりした女性をと希(ねが)っておられたとのこと。その頃国際基督教大学(ICU)に居られた小塩 節(たかし)先生のご紹介で愛子さんと結婚されることになる。愛子さんはICU卒、英語の先生で明るく音楽好きな女性、ルーテル教会平井 清牧師のご息女、英文学者正穂先生を叔父にもつ、歴とした信仰の持ち主である。

義孝さんはこれを機に中渋谷教会で受洗、ご結婚後は孝明(たかあき)・祐子(ゆうこ)の2子を恵まれてお仕事と教会生活に精勤、東京・京都のほかロンドンにも勤務されながら前記三菱や、のち森永の重鎮としての役割を担われた。

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とは言っても私は一介の教師、義孝さんが活躍された実業の世界 ― 金の力がものをいう世界 ― の実情に疎く、ご生活のいちいちについて記す力は無い。しかしご両親が老齢になられ、ご一緒に住まわれた頃、成孝先生が「実業の世界は昼夜を問わずの重労働でなかなか大変なものだ。あれでは教会に出席せよと強要するのは難しい」としみじみ述懐されたことからも、その情況は推察される。しかもその中で、それと人には語らずとも、キリスト者としての筋を一本通して、正邪善悪の判断と実行を貫くのは容易ではない。きれいごとでは済まされまい。時には血みどろのこともあろう。まさに戦いである。

義孝さんの教会生活については、中渋谷教会の本城牧師の心を尽くした式辞があるが、私はその中の一つ、義孝さんが奉仕された日本聾話学校での理事また時には理事長としての義孝さんの振舞いにいたく敬服したことが多い。各人が良かれと思う発言に静かに耳を傾けつつも、時には「お言葉ですが……」とか「……いかがなものか」と前置きして語られる言葉と思いに、粛然として襟を正し、腰骨を立たせられる経験が幾度もあった。また当時、院長であられた小塩 節先生の要請を受けてのフェリス女学院理事のちには理事長としての存在もこれと変わらぬものであったことは畏友である現院長鈴木佳よしひで秀さんからも伺うことができた。それでいて普段はまことに気さく、同窓会や関係者から親愛されていたことは、これらの方々の追悼文にも明らかである。私にもある時、ユーモアたっぷりに、時勢を慨しつつ「川田さんが総理になったら、ぼくが官房長官をやろうか」と笑われたことが思い出される。

4

基督教共助会は、今から104年前、森 明によって、旧帝国大学・高等学校の友にキリストを紹介する目的で始められた。それから50年後、大学・高等学校の枠は外され、「キリストをこの時代と世界に紹介し、キリストにおける交わりの成立を希い、キリストにあって共同の戦いに励むことを目的とする団体である」と表現された。しかし当初から含まれた「キリストのほか自由独立」の精神と、「主にある友情」の育成はいささかも変わらない。

義孝さんは、創立以来のメンバーであった父上と同様の会員ではなかったが、この精神に育まれ、この友情に生きた友として、実質的には会員に勝るとも劣らぬ方だった。のみならず、筋の通ったノーブルなキリスト者実業人として、世を清め正す地の塩・世の光であったことは、彼を知る万人の認める所であろう。それはまさに、時代と世界とにキリストを証しし、キリストにあって共同の戦いに励むことを希う共助会の働きにも深くつながっていると思わざるを得ない。

義孝さんには小塩先生のような優れた共助会員をはじめ、多くの友があり、私などにも折々長電話をくれ、時代を憂うると共に教会や共助会の課題と希望を語って止むことがなかった。会員以外にもこのような友がいることは何という喜びだろうか。思うてここに至れば万感胸に迫り、記すべき言葉を失う。

しかしこうした背後には、ご両親、わけても愛子さんの変わらぬ信仰と愛と工夫があったことを忘れてはならない。義孝さんは戯(たわむ)れに「ぼくには、仕事へと、教会へと、家庭へとの3つの顔がある」と言われたことがあるが、実業人としての活躍、教会人としての奉仕、晩年のご両親をも迎えられた家庭の中で、その疲れを癒され、暖められ、新しい力を蓄えられて一つの見事な人格に統合されていたことをしみじみと思わざるを得ない。今やご両親もすでに在天、遺された愛子さんはじめ、義孝さんが愛してやまなかったお二人のお子さんとそのご家族の上にこれからも上よりの祝福を祈るばかりである。

あの特徴ある書体で毎年下さったクリスマス・カードを今後は天上から霊においていつまでも送ってくださるだろう。天地を貫いて共に心を通わせつつ、人を怖れず、神を仰ぎ、友を信じ、終わりの日まで共同の愛の戦いを全うせしめ給うよう、祈って筆を擱(お)く。〔2022・12・1、待降の時〕

(哲学者 日本基督教団 岩村田教会員)