寄稿

平和は正義の業 愛の実り 木村 葉子

この6月23日、「沖縄慰霊の日」に「平和巡礼」に参加してきました。大倉一美神父様(88歳)、斉木登茂子さん、プロテスタントの渡部優子さんらに同行させて頂きました。6月21日に羽田を出発、斉木さんがレンタカーで諸所を回り恵まれた5日間の旅でした。

21日の午後は、「つしま丸資料館」と、瀬長亀次郎の「不屈館」を見学しました。「対馬丸」は、1944年(昭和19年)、那覇市の8校の子どもたちと疎開者1,661人が乗っていた集団疎開船で、8月22日夜、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、8割の人が亡くなりました。記念館には多数の児童の写真と遺品が展示され、天てん妃ぴ国民学校の渡口兄(10歳)と弟(8歳)が、日本軍の戦闘機やアメリカ軍との空中戦の様子を描いた絵もありました。愛国軍国教育を奨励するスローガンもありました。現在も、日本が再び戦争賛美の教育で洗脳し戦争に巻き込む悲劇を繰り返さないように市民の覚めた監視と批判が必要と思いました。

「不屈館」は、瀬長亀次郎(1907 – 2001)の記念館です。彼は戦後、沖縄人民党を初め、衆議院議員7期を務めた政治家です。記念館で買った、瀬長亀次郎著『カメジロー抵抗の序曲』によると、1945年の沖縄戦は大日本帝国軍と連合軍の一翼である米軍との決戦場でした。沖縄を占領して日本本土上陸を目指す米軍は55万の兵員と大量兵器で沖縄を凄惨な戦場にしました。米軍沖縄上陸の3月、夜中、瀬長が両親と戦死者を避けながら逃げたその惨状の現場が、現在の「魂こんぱく魄の塔」辺りでした。在沖縄日本軍は10万人、沖縄戦で、島々街々は焦土と廃墟と化し、県民の4分の1の数万人が死亡しました。6月に牛島軍司令官が自決しました。戦後、沖縄の米軍占領支配は、「ポツダム宣言」の約束をことごとく反故にする、銃剣のもとの軍事的監視、言語に絶する圧制支配でした。基地建設の土地を強制接収し、人権を蹂躙する米軍支配に対し、「ポツダム宣言」の履行を迫り、沖縄日本復帰の先頭で闘った瀬長は「カメさん」と呼ばれて広く県民に愛されました。「不屈館」は、今に至る、米軍支配と日本政府への民衆の抵抗の歴史的拠点です。

1969年、瀬長に、世界平和評議会から、ジョリオ・キュリー平和賞を授与された金メダルが展示されていました。現在も沖縄は、全国の米軍基地の70%が密集し、2019年には辺野古新基地のための埋め立てに県民投票で70%が反対し、衆・参議院議員選挙でも反対派が勝利したのに民意を踏みにじる建設が続行され、この9月4日に、軟弱地盤で辺野古不承認を巡る訴訟を、最高裁が上告棄却で県側敗訴確定です。そこに司法の正義はない。また、現在、「敵のミサイル基地を攻撃する能力」を持つための安保三文書や、巨額防衛費増額が閣議決定され、奄美、宮古、石垣、馬毛島などに、住民生活を破壊する自衛隊ミサイル基地が次々と建設されています。攻撃が起これば、沖縄、周辺諸島が再び戦場の脅威にあることを沖縄のTVは何度も問題にしていました。沖縄の人が「既に戦前」と苦しむ事態を県外の者の無関心はゆるされないと思います。

22日は、ヘリパッド基地が作られている高江の抗議場所を訪問しました。ここも国東郡高江村の住民総会の反対を無視して建設されています。ユネスコ遺産の動植物の深いやんばるの森の上空を見上げると、自衛隊訓練のオスプレイが轟音で行き交います。水源地のダム付近で、遺体撤収訓練をやっているそうです。辺野古新基地建設反対の抗議現場には行けませんでした。激しい梅雨の中、日本初のハンセン病療養所「愛楽園」も訪ねました。

23日「沖縄慰霊の日第37回カトリック那覇教区平和巡礼」に参加しました。早朝、6時からの小禄教会での野外ミサに始まり、沖縄、九州の司教や神父、シスター、信徒、老若の大勢の方々が参列しました。那覇市の小禄教会から、激戦地だった沖縄本島南部の糸満市の「魂こんぱく魄の塔」を目指して、15㎞を進みます。途中5ヶ所で小集会、聖書と沖縄戦観想、冊子「沖縄戦から観想する十字架の道行き」を交読し、主の祈り、讃美歌、月桃、平和の歌「ヌチ ドゥ タカラ(命こそ宝)」を全員で歌いました。「十字架の道行き」は、主イエスのゴルゴダへの福音書抜粋です。それに観想があります。その例は「政府は、戦没者遺骨が眠る沖縄本島南部の土砂を辺野古埋め立てに使用する計画を出しました。これは戦没者・遺族に対する冒とくです。反対の声に応えて、全国230の自治体が政府に計画撤回の意見書を出しました。イエスが『石が叫びだす』といわれたように、今戦没者遺骨まで叫び始めています。」

カトリック中高等学校では全校で「平和巡礼」に参加します。私の前を、毎年参加という80歳代の老婦人が歩いていました。「魂魄の塔」で大勢の人々が祈っていました。「ひめゆりの塔」や「摩ま ぶに文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」が近くです。「平和の祈り」の集会の時を持ち献花、千羽鶴を捧げました。沖縄そばを食べた午後、近隣の広場での「国際反戦沖縄集会」に行きました。南部戦跡土砂の採掘に反対する具志堅隆松さん(遺骨収集ボランティア)のお話、辺野古新基地建設に反対する辺野古ブルー、高江―ヘリパッドいらない住民の会、在沖縄ミヤンマーの会や若い韓国の方のアピール、普天間基地ゲート前で基地反対ゴスペルを歌う会の合唱があり、私たちも飛び入りして40人近くになりアンコールを受けました。東京の人も多数会いました。連帯するゴスペル会が全国24、東京でも首相官邸前で毎月第4月曜日の午後6時から歌っています。

ゴスペル・讃美歌は平和を作ると信じて歌っています。黒人霊歌が、理不応な苦難にある人の霊肉魂と信仰を支え、主にある希望に生かしたように。平和の闘いは命の主のもの、先頭で闘われる主が、人の思いを遥かに超えた勝利を導いてくださると信じます。
 
24日、渡部さんと一緒に、共助会の平良久美子さんとランチを楽しむ機会がありました。平良さんは、1959年に宮森小学校で発生した米軍機の墜落により17人の児童が亡くなった事故について話してくれました。彼女はその当時、給食係として教室を離れていたことから生き残りました。また、数年前、平良さんは「イエス様の十字架の救い」について語られ、その影響で年配のお父様が洗礼を受けることになったとも教えてくれました。お父様は以前、自身が経験した戦争については一切話さなかったそうですが、洗礼を受けた後、平和な時を過ごし、その後天に召されたことが感謝されています。

その後、琉球新報ホールで行われた「沖縄を平和のハブとする東アジア対話交流」シンポジウムに出席し、デニー県知事や鳩山由紀夫元首相のスピーチを聞く機会がありました。

この旅を通じて、「慰霊の日」において多くの沖縄の人々が献花の儀式に参加し、「平和の礎」を訪れる姿を目撃し、本土と沖縄の人々との思いの違い、そして国政における差別といった問題について考えさせられ、心が痛みました。私は「戦争の備えではなく、平和の備えを!」という声に耳を傾けるべきだと感じました。

(ひばりヶ丘北教会牧師)