寄稿

「教育こそが、未来をつくる」―バングラデシュでのとりくみ 玉木由美

生涯忘れられない場面がある。それは、よく晴れた午後のことだった。

導かれるようにして行ったバングラデシュという国で、私は自分ができることを探していた。初めて、たった一人で行った国、バングラデシュ。多くの出会いがある中で、ある友人が言った。「ガジプールという場所に土地を買って、教会を建てて伝道活動をしているキリスト教の牧師夫妻がいるんだけど。その奥さんのほうが、この教会の敷地で学校を作りたいと思っているらしいよ。ユミ、この夫妻に会ってみたい?」私が二つ返事で言った答えは、「YES!」

その翌日、その土地に向かった。首都ダッカから車で北上し、2時間余に位置する、ガジプール県。その教会に到着し、車から降りた。その教会は大きな敷地に立っていて、緑深い木々に囲まれていた。降り注ぐ太陽の下、その牧師夫妻は屋外に椅子を出し、二人で紅茶を飲んでいた。私のことを笑顔で出迎えてくれた夫妻は、包みこんでくれるような柔らかい雰囲気を持っていた。私のためにも屋外に椅子が運び出され、奥さんのリナさんがお茶を出してくれた。午後の時間、3人で庭に丸くなって座り、ともに紅茶を飲んだ。日本では味わったことのないような、ゆったりとした時間。自然に、ふと自分の思いを話したくなった私は、「私は、何かをしたくてこの国に来たんです。もはや私が生きているのでなく、何か別の人が私の心の中に生きている気がするんです。それはイエス・キリストなんです。イエス様が、私の心の中に生きておられる気がするんです。その思いに押されて、この国に来たんです。」と自然に口に出した。私の心は、この緑の木々とあふれる太陽の日差しの下で、そして初めて出会うこの夫妻の優しい笑顔の前で、ずいぶん素直になっていた。すると、このワハブ牧師が、すぐに言ったのだ。ティーカップを持ちながら、間髪いれずに。「ああ、それはガラテヤの信徒への手紙2章20節だね」と。

まさか、イスラム教が国教であるこの国で、バングラデシュ人でありながらキリスト教の牧師夫妻に出会うとは思ってもみなかったし、彼らから、聖書の御言葉を聞くとも思っていなかった。しかも、勇気を出してたった一人で行ったバングラデシュで、心の奥にしまっておいた大切な御言葉、ガラテヤの信徒への手紙2章20節を。神様が、人知をはるかに越えて、夫妻と出会わせてくださった瞬間だった。

私は、東京都足立区の下町で生まれ育った。私の家の目の前に、偶然にも教会があった。それが神様と私との出会いであった。日本基督教団 西新井教会。今振り返ると、自分の生まれる前から、教会から自宅の道のように、神様は小さな私を招いてくださったのだな、と。姉、兄と3人で、教会のバザーに行っておいしい軽食を食べたりゲームをしたり。また3人で教会学校にも通った。その時が、心に神様を信じる心の原点だったように思う。その後、公立の中学高校と進み、教会とは離れていった。でも、キリスト教を主とする青山学院大学に入学し、また神様と再会することになった。まず入学して驚いたのは、大学の一番目立つ中央に礼拝堂があったこと。キリスト教の授業を受けたり礼拝に出席し、またクリスチャンの多くの友人とも出会え、それらの影響から、自宅の目の前にある西新井教会に再び戻り、毎週通うようになった。今度は兄や姉と一緒に遊び半分で行くのではなく、礼拝に出席し青年会の交わりにも参加した。そして、社会人になっても、いや生涯ずっとイエス様についていきたい、という願いが起こされ、受洗。大学4年のクリスマスだった。

その後、大学を卒業し、私は東京都の公立中学校の英語の教師になった。校内暴力の大変な時代であったことから、新米教師として学校に行った初日、教頭先生から言われた言葉が忘れられない。教頭先生は、メガネを少し下にずらし、大学を卒業したてで幼さの残る私に、こう言った。「靴は、ハイヒールなんてもってのほかだよ。学校では運動靴が一番。生徒が暴れたり問題を起こした時に、すぐ走って駆けつけられるようにね。そして走りながらだって、ただ走るんじゃないんだ。その現場でどう生徒に声かけするか、どう問題を解決するか、を頭で考えながら走るんだ」と。そこで私は、その翌日からヒールでなくスニーカーで出勤、ひたすら走った。教員時代は、その教頭先生の言うように、よく走ったなあ、と懐かしく今も思い出す。

それでも仕事は楽しかった。教師として働きながら、結婚もして、子どもも2人もうけた。仕事に子育てに忙しい日々の中で、息子2人も一緒に通える教会は近いほうがいいね。埼玉県草加市に家をかまえた私たち家族は、自宅近くの教会を探し、ウェスレアンホーリネス教団 八潮キリスト教会に転会した。それから日曜には家族4人で教会に通ったものだ。子どもたちは日曜学校に通い、私もその日曜学校スタッフをさせてもらった。当時の夫は、教会聖歌隊の隊長だった。忙しいながらも、充実した毎日だったな。

その生活の歯車が狂ったのは、私の発病だった。偶然行った人間ドックで、胸にガンが見つかった。幸い初期のステージではあったが、やむなく休職し、治療に専念することに。家族がこの闘病を支えてくれたが、その闘病を乗り越える前に、当時の夫が、心臓の発作で急逝した。自分を支えてくれていたはずが、彼のほうが先に逝ってしまったとは。

その日から私の心はさまよった。何も手につかず、前を向く気力も出てこない。そんな時、机の中から、偶然にある手紙が出てきた。亡夫が生前私にあててくれた手紙だったようだが、当時は日々を忙しく生きていたせいか、机の中に入れっぱなしにしておいて忘れてしまったようだ。彼は国際協力に関心が高く、いくつか途上国に行き、できることを模索していたようだった。中でも、特にバングラデシュに関心が高かったようで、その手紙は、3度目のバングラデシュからの帰りの飛行機の中で私に書いてくれたものだ。そこにはこう書いてあった。「バングラの人々は、家族を大切にする。僕もこれから家族を大事にしていきたい。そのことを気づかせてくれたこの国に感謝する。いつかまたこの国に行き、できることをしたい。でも僕は弱い。1人でなく家族と、君と一緒に行きたい。いつか一緒にバングラに行こう。」その手紙を読み終えた時、すでに心は決まっていた。流した涙は止まり、再び生きる気力が出てきていた。そうだ、バングラに行こう。でも、こんなちっぽけな私に何ができる? そうだ、忘れてた。そういえば、私は教師だったんだ。教育という分野で、自分のさせていただけることがあるかもしれない。そうだ、できたら学校を作りたい。無謀にも、そう思った。その時まだ中学3年生の担任をしていた私は、生徒たちの卒業式を終え、その春には、バングラの空港に、たった一人で立っていた。2007年3月だった。

現地ではいろんな人に会い、周囲に自分がしたいことを話した。機会があれば学校を訪問し、突撃出前授業もさせてもらった。幸いに私は英語の教師だったので、世界共通語である英語はバングラでも通用し、私の英語の授業は、バングラの生徒たちにも好評を得た。どの学校に行っても、熱狂的に子どもたちはこの日本人を迎え入れてくれた。初めて「ああ、自分は教育という分野でこの国でやっていけそうだな」という自信を持つことができた。

しかしその時、一つの違和感も覚えた。バングラデシュには全国統一試験があり、その試験に合格しないと進級できない。つまりこの国の教育とは、いわばその統一試験に合格できるようにすること。しかも教育熱の高まっているこの国で、少しでも上のグレードで合格すること。教師も生徒も保護者も、目的は一致しているようだった。

この時初めて日本が恋しくなった。バングラの教育熱は素晴らしい。でも、それだけじゃないよ。日本には課外活動があり、そこで生徒の興味関心を引き出してあげる教育があった。日本の教育も、素晴らしいよ。日本を出て、初めてこのことに気づいた。バングラで、このバングラの良さと日本の良さを融合した、新しい教育をしてみたい。突撃出前授業をして、もがきながらも、新たな目標を見つけることができたのだった。「教育こそが、未来をつくる」と信じて。

そんなある日の午後、ある友人から声をかけてもらい、ガジプールに行った私は、紅茶を飲んでいるワハブ牧師と、奥さんのリナ夫人に出会い、一緒に紅茶を飲むことになる。その夜、夫妻の別宅に招かれた。その別宅は、ダッカの北に位置するウットラのマンション。夫妻には4人の可愛らしく美しい娘さんがいたのだが、その4人が、夫妻と私を出迎えてくれた。今度はベッドの上に7人で丸く座り、娘さんの賑やかな質問攻めにあう。バングラに来て、何回も何十回も受けた同じ質問。「なぜ、たった1人でこの国に来たの?」なかばこの質問にうんざりしながらも、なぜかこの家族だけには心を開くことができ、しかも心の隅々まで光を当てられ、嘘もつくこともできない心境になり、夢中で話した。日本での辛かった経験。そこから、なぜこの国に来たのか。できたら教育を、できたら学校を作りたいと思っていること。私は泣いていた。すべて話し終えた時、顔を上げた。4人の娘さんが一緒に泣いてくれているではないか。ワハブ牧師とリナ夫人も、笑顔で泣いている。7人で泣いた。その後、リナさんは私に語ってくれた。「ユミさん、一緒に学校を作りましょう。私は夫のキリスト教伝道の土地、ガジプールで学校を作りたいとずっと思っていたの。あの地域には学校がなく、子どもたちは毎日家の周りで遊んだり手伝いをするだけで過ごしているのよ。私はここで、キリスト教の精神で教会を建てたいと思っていた。でも私は主婦。自分にパートナーが与えられるように、5年間祈ってきましたよ。教育のプロ、同じ女性、同じクリスチャンであるパートナーを祈って、今やっと出会えたわ。」 その隣で、ワハブ牧師が静かにうなずいていた。その時、日本で辛い経験をして傷ついてきた自分の心は、彼らが一緒に泣いてくれたおかげで、初めて癒された。人の心が癒されるには、慰めや飾りの言葉はいらない。ただ隣に座って一緒に泣いてくれた時、人の心は癒されるんだな。生まれて初めて経験した、癒しだった。そして、こう思った。もっと貧しく、教育が必要な地域はあるかもしれない。でも、このガジプールでも教育が必要とされている。だったら、この家族と一緒に一番したかったバングラデシュでの学校建設と運営がしたい、と。7人で泣いたその夜、彼らと共に学校をつくる決心をした。

2007年8月11日。ワハブ牧師の礼拝堂に大人用の大きなイスを並べ、生徒を待った。学校開校の告知は、村々を歩いて話していった。何人来るかな。ドキドキ待っていると、26人の子どもたちが、母親たちと手をつないで集まってきた。子どもたちは裸足。でも恥ずかしそうな笑顔がそこにあった。私が最初の英語の授業をし、みんなで歌をうたった。その後、リナさんが母親たちを集めて初めての保護者会。ここで学校を開きます。教科はベンガル語、英語、算数。時々母親のお茶会もしますよ。今は1年生の学年だけですが、少しずつ学年を増やし、幼稚園も併設します。そんな話をした。お母さんたちの目も、期待に輝いていた。

YOU&MEインターナショナルスクールは、こうして26人の生徒から始まった。翌年の2008年には、日本からの寄付によって、自分たちだけの校舎ができ、2011年には政府に学校登録をし、寺子屋から正式な学校となった。2018年、生徒が増え、初めて日本から助成金を得て校舎を2階建に増設。2024年現在、幼稚園から10年生まで、生徒数240人、教師17人、スタッフ5人、今や地域になくてはならない教育施設となった。目指すものは、日本の良さとバングラデシュの良さを融合した独自の教育。この学校では、教師たちの熱心な毎日の授業指導をベースに、クラブ活動、委員会活動、文化祭、図書館経営、遠足や運動会、保護者会、地域病院との連携など、バングラデシュの他の学校にはない、オリジナルな活動を積極的に取り入れている。

日本でも動き始めた。私は日本から年に3回バングラに渡航しているが、日本でもこの活動に関心を持って下さる方が増え、一緒に渡航してくれるようになった。それをスタディーツアーと称し、活発な動きとなっていった。帰国した方々が日本でも友人知人に紹介してくださり、2015年にNPO法人となった。このNPO法人YOU&MEファミリーは、会員の集い、活動報告会、チャリテイーコンサート、国際イベント参加など、活発に活動している。2017年には地道な活動が認められ、埼玉グローバル賞を受賞。当初私ひとりで始まったこの活動が、会員制度をつくり、おかげさまで現在会員が140名、現在も会員募集中です。

児童婚。18歳未満の男女の結婚だが、圧倒的に女子が犠牲になるケースが多い。世界の中でも南アジア、特にバングラデシュに多い社会問題だ。親の強制で結婚させられた女子たちは家庭内で弱者になり、家庭内暴力の被害も。未発達の身体での妊娠出産は母子に負担が行き、障害児出産も多い。政府は児童婚を禁止し結婚最低年齢を18歳と定めたが、貧困層を中心に守られず、現在も貧困層家庭で犠牲になっている女子が多い。

YOU&MEでも同様の事例があった。Sさんは、真面目な女の子で図書委員になり活動していた。将来は医者になりたい、とはにかんで語っていた。そのSさんが、2018年卒業試験の直前に親の強制で結婚させられた。20歳以上も年の離れた男性との14歳での結婚。そこに自分の意志はない。同学年のうち、彼女だけが試験に不合格。私たちスタッフは心を痛め、女生徒も一緒に話し合い、学校として出来ることを議論した。そうだ、この学校には独自のクラブ活動がある。そのクラブ活動のうち、職業訓練に直結する洋裁クラブとパソコンクラブの2つを活性化し、貧困層生徒のための職業訓練クラスをつくろう。私たちは、この目標に向かって動き始めた。2020年、複数の団体から助成を受け、この職業訓練クラスが始まる。金曜を除く毎日16時から17時。洋裁訓練とパソコン基礎技術の取得訓練だ。この訓練を修了した生徒は、近隣地域の縫製工場でリーダー格のスタッフとして就業することができる。またはパソコン技術を活かし事務職も。将来は社会的にも経済的にも自立し、自分の意志で強く生きることができる見通しである。

この職業訓練クラスは、2024年現在さらに大きな事業となっている。このクラスを日本からの支援だけに頼らずに、現地の力で自立して持続可能にしたい。この発想で、2つのクラスをビジネス化することに。洋裁クラスでは大人女性衣服の製作販売と学校制服の制作販売。パソコンクラスでは、夜間大人クラスの開設である。ここから収益を得て自立していく。5年間の中期経営計画であり、まずは2つのクラスの専門講師2名の給与を生み出すところから、クラス経営すべてをまかなえる計画だ。5年後からは、このビジネスを学校全体の維持費をまかなえるまでに発展させ、学校経営も、日本からの支援から離れて現地の力で運営していく展望なのだ。

さらに嬉しいことが起きた。一つは、この5年計画のビジネスプランに、卒業生の2名がビジネス専門スタッフに名乗りをあげてくれたのだ。彼ら2人は貧困層家庭であり、親からの支援は一切ない。これが成功すれば彼らにとっても大きなビジネスチャンス。彼らの人生の大逆転のためにも、この計画を成功させたい。もう一つは、昨年から卒業生の声かけによる、若者の募金活動が始まったことだ。自分の学校のために寄付をする。自分の国の問題は、自分たちで解決していくぞ、という思いだ。彼ら若者を中心に、この国が他国を頼らず自立していくのを、期待している。

振り返ると、いくつもの困難があった。例えば2016年7月、ダッカのレストランでイスラム国関連団体による大規模テロがあり、日本人7人を含む28人が犠牲になった。その影響から私たちの活動も表立っては行えなくなった。コロナ禍の3年間も、学校は休校に追い込まれ、生徒たちは家庭内で自習する時期もあった。また、イスラム教が国教であるこの国で、キリスト教を中心にしたこの学校は、通常は穏やかに守られて過ごしているが、何か衝突が起きた時には宗教の対立となることも多い。過去にはキリスト教徒であるワハブ牧師の家が放火されたこともあり、またリナさんの携帯に殺人予告が何度もあった。それでも、イスラム教の中でのキリスト教伝道を使命とするワハブ牧師夫妻の活動も、YOU&MEの活動も、今まで守られ、ここまでの歩みをさせていただいている。これからも神様は一番よい方法で、この活動を守り導いてくださるだろう。

(NPO法人YOU&MEファミリー 代表理事/ウェスレアンホーリネス教団 八潮キリスト教会員)