あの日のこと 原田 博充
私(87歳)は、今パーキンソン病(指定難病)を患っており、原稿を依頼された時、その任に耐えられるかどうか自信がなかった。例えば文章を書くことが困難であり、文章を書き始めても、小さくヒョロヒョロの字になって、お読みいただくのも困難である。お断りしようと思ったが、せっかくのご依頼であるから、妻美智子の口述筆記により書いてみることにした。「あの日のこと」については、拙著『聖書の平和主義と日本国憲法』(キリスト新聞社)所収の「戦争と平和についての教育の役割を想う」に一度書いているので、それをもお読みいただけると有り難い。さて、「あの日のこと」とは1945年8月15日のことか、それとも、8月の数日のことであるか定かでないが、まず8月15 日前後の記憶を呼び起こし書いてみたい。8月10日頃、母が「広島と長崎に新型爆弾が落ちたらしい。ひどいことになった」と言ったのを覚えている。
「8月になって、九州の田舎町佐賀にも空襲が襲った。ある晩、真夜中に母に起こされ、急いで身支度をして真暗い裏庭の防空壕に連れ込まれた。空襲警報だ。しばらくすると続々と飛行機(B29)が飛来し、夜空にぱらぱらと焼夷弾を落として飛び去って行く。防空壕の入り口からこわごわ天を仰いで飛んでいく飛行機と火花を散らして落下する焼夷弾の雨を見上げたあの数分間を、私は今でもはっきり覚えている。ここでは危ないから、田舎の方へ逃げよう、ということになった。家の周りを流れる川の水でふとんをびしょびしょにぬらし、それをかぶって、川をわたり、必死の思いで逃げ出した。当時私の家は町はずれで、すぐ裏はもう田んぼだった。水をたたえた8月の稲田もあたりかまわず踏みちらし、田の中を逃げた。あちらの空、こちらの中空に、火の手があがる。途中で泥まみれの靴が片方抜けてしまい、片方の靴だけ履いて、袋といわれる村のあたりまで逃げた。たくさんの人々が避難してきていた。自分の家のあるあたりは夜空が赤くこげ、燃えている。もううちも燃えてしまっただろうと母や姉たちが話している。明け方まで待って、もう明るくなり始めた頃、帰った。幸運にも我が家は焼けていなかった。焼夷弾の殻が23本も、わが家の敷地内に落ちていたという。しかし折からの西風にあおられて、中味は、すべて3軒隣りの小さな川を へだてた東側の大通り一帯に落下したという。幼い私たちは明け方からしばらく眠った。目が覚めて外へ出ると、川向うの町々は、広々とした焼け野原になり、あちこちの焼け跡にはまだ煙がくすぶっていた。恐ろしい一夜だった。」(前掲拙著所収)
その後、8月15日、母が正午から天皇陛下の大事なお話があるので、皆聞かなければならないと言って、家族4人(父は出征して、いなかったので)母と姉弟3人が畳の部屋に正座して昭和天皇の終戦の辞を聞いたのを覚えている。はっきり覚えているのは、敗戦ではなく終戦の辞であったことである。あの戦争は、天皇が始めた戦争で「この戦争は終わりにする」と述べられたのを批判する力もなく、最敬礼したのを覚えている。以来、後には佐賀でも占領軍のジープが走りまわり、政治も教育も急速に民主化された。私の小学生時代は、この激変の中で民主教育が急速に進められる日々であった。
もはや天皇は神ではなくなった。しかし、昭和天皇の戦争責任はうやむやにされ、ついに問われることなく今日に至っている。
この民主教育の中で、「戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かねばならない」というユネスコ憲章の一節が心に刻み込まれた。しかし、今、世界では戦争と戦争の噂が地を覆い、人の心には、不安が漂っている。私たちは、あの戦争の悲惨な記憶を心に刻み、平和を創り出す人として歩まねばならない。 (京都みぎわキリスト教会前牧師)
