戦後80年 敗戦のこと 下山田 誠子
10月1日はお隣り中国の国慶節で、長い休暇に入ります。 といっても抗日戦争勝利なので、多くの人たちは海外旅行、とりわけ日本は近くて安くておもしろいと、旅行に行くことを楽しみにしています。 特に若ものが増えているようで、日本も歓迎の様子です。
中国政府は小さい子どもから大学生までくり返し抗日戦争の被害と犠牲を教育し、愛国精神を高めいます。 勝手に武力で占領して満洲国(傀儡)を建国、不況で貧しさにあえぐ日本の農村部から多くの農民を開拓団として送り出しました。 私の故郷長野県はその送出数、ダントツ一位です。
戦時下の頃キリスト教界からも宗教報国として基督教開拓団が送り出され(詳細は割愛)またキリスト教布教の熱意もって隣国に宣教にと熱河に赴いた一団のあったこと。困難なことのみならず、敗戦による悲惨な現実の記録は心に残されます。……ここではこれも省略する。
さて私個人のこと、乏しい記憶でしかないが何とぞお許しいただきたい。
父は下級官吏として新婚の母を連れて満洲国の首都新京(現長春)に赴任し長女誠子と続いて妹淑子が誕生した。父はテニスや乗馬を楽しみ、母はデパートに買物に行ったり客人をもてなしたりと安定した暮らしだった由。 国境に配属された青少年義勇軍の労苦などわかっていなかったのだと思う。
1945年8月6日ソ連が不可侵条約を破って侵攻し、辺境の開拓団の方々の悲惨な逃避行のことなど長じてから学んだことであった。 私たちの官舎には上層部から何らかの伝達があったのか、大急ぎで荷物をまとめ列車を仕立てて内地に引きあげることとなった。
ちょうどその時、父は長期出張中で早く早くとせかされた母は父の帰りを待った為、難民となったのである。帯を解いてリュックをつくり私に背負わせ、母は胸に妹を抱き、小さなリュックを作り荷物を……。駅は混乱を極め、ようやく乗れた無蓋の貨車もしばらくして停まり、もうすでにソ連兵がいたという。それからは炎天下ひたすら内地に向かって歩き続けたという。それからどんなルートを辿ったのか私は知らない。父は、といえば出先から武装解除された兵と共に貨車に積まれてシベリアに連れていかれる運命にあった。しかし途中速度が落ちた時、仲間と一緒に飛び降りた。機銃掃射を浴びた仲間たちは命をおとし、しかし父は何とか逃げおおせたとのこと。両親はそぞれ、お互いの消息もわからないままであった。 私たち母子はどこをどう歩きつづけたのか、どんな避難民の団体と合流したのか、何も聞いていない。 そして朝鮮のピョンヤンの収容所に収容された。
どれだけの道のりを歩いたのか、妹はまだ生きていた。食べるもののない母に乳の出もなく、収容所に着いて翌日妹淑子は泣き声もたてず死んでいった。 朝鮮の人がみかん箱に妹の亡骸を入れ、なにがしかのお金を渡して…母はわずかに残る髪の毛と爪を切って襟にぬいこんで故郷の墓にともちかえった。みかん箱を見送った気丈な母が声をあげて激しく泣いていたので、私は恐怖で母にしがみついたことを覚えている。厚生省(援護局)に問い合わせてようやくわかったことは、母と私は朝鮮仁川から帰国とあった。LSTという船についてはわからない。(昭和21年10月13日)帰国して栄養失調の私は首がすわらず、布団を敷いた上に座って三尺帯で大黒柱に結わえられていたという。家中の者が誠子を死なせてはならないと必死だったという。母は6月16日になると「今日は淑子ちゃんのお誕生日」とポツリと言っていた。 私は母の心に寄り添うこともせず、心ない娘であった。
母は、昔はよかったなどということは口に出さず、敗戦後の大変な時期を気丈に生き私を育ててくれました。もしかして、和田さんらご一緒のルートだったのかしらと想像をたくましくしましたが、本当のことは何もわかりません。
うれしいニュースが昨年ありました。妹の淑子のお墓がピョンヤンの郊外にあるということがわかったのです。引き揚げ者の労をとっていた方が調べて下さり、フルネームで記名されたお墓の地図をみつけて下さったのです。
母が口癖のように「朝鮮の人に生命を助けられたのよ」と度々言っていたことが思い出されます。 墓参が許されたら、勇んで訪朝したいと願っております。
(松本共助会)
