戦後80年 「母の『祈られている』との信仰 佐藤 義子
1 はじめに
満州の年表(*)によれば、「昭和2212月現在、引揚げ対象者数660万人中584万人が引揚げ完了。残りはシベリア抑留50万人、樺太・千島20万人、満洲6万人、他に中国、大連、北鮮など。と推定された。」とあります。それを見ますと、私たち母子と付き添いの友人の4人は、584万人の中の4人だと改めて知らされます。
2 母(飯島多嘉)の証し
母は、大正六(1917)年、東京で大勢の兄弟の末子として生まれましたが、8歳で母親と死別したため、満洲で家庭を持つ長兄(3人の子育て中)の家で育てられました。以下は、母が64歳の時の教会での証しの一部です。
「昭和九年、就職のため寒い中国大陸の中でも特に寒さの厳しい旧北部満州のチチハル市に参りました。そこで唯一の日本人教会・メソジスト・チチハル教会に通い、19歳で洗礼を受けて、矢田文一郎牧師(50代)から信仰の手引きを受けて、鍛えていただきました。昭和21年8月引き揚げ命令が出され出発は9月1日午前3時。その時3歳の長女は38度の熱、私も過労から肋骨に水がたまり38度の熱が続いていました。が、長女をおぶい2歳の二女を前にひもでくくりつけ、脇には野宿用のゴザと薄い布団、手には便器とリュック(着替えやおむつ、受洗時に戴いた聖書讃美歌も)を持ち、2人の引揚げ団(団長は矢田牧師)の一員として船が出るコロ島までのつらく長い旅を終え、明日船が出るという前日、近くの川でおむつ洗いに行った帰りに倒れ、翌朝目が覚めたけれど子連れのこの状態では船に乗れず、後日、付添い条件の病院船での帰国となりました。
矢田牧師は重責のため出港前に後に残る私に『祈っているよ』と声をかけて出発され、教会の若い女性の友人・白山さんに『飯島さんの骨を持って帰ってきてくれ。そのためにすまないが残ってくれ』と頼んでいかれたそうです。矢田牧師は、私がもし死んでも白山さんが責任を感じないようにという配慮だったからではないでしょうか。死ぬ条件がそろっていた私を神様は生かしてくださいました。生き続けることが出来たのは『祈られている』ということで、神様に祈りが届いているとの確信からだと思います。
病院船で幻覚症状にさいなまれている私と幼児2人の付添役の白山さんは、11月1日無事に佐世保港に到着。子どもたちは白山さんが、私は付添役がいないため、桟橋に担架で降ろされたまま夕方まで置かれて声も出ないほど衰弱していました。最後の見回りの人が『この人はまだ息があるぞ』とトラックで病院に運んでくれました。病院に入院中ふと胸の名札を見た時「長野県」の主人の住所が目に留まり、白山さんに『タダシ(夫の名前)イキテイルカ』と電報を打ってもらい、『スグイク』と返事があったので、白山さんは安心して福岡に帰っていきました。」
3その後の母の歩み
母が退院して回復したその後、姉と私に弟と妹が与えられました。母は私たちを育てる傍ら、大学進学の為上京した友人の息子や、父親が刑務所に入所中の息子や、頼まれた青年の3人を、時をずらして我が家で預かりました。信仰を土台として引き揚げの苦しみを深く味わった母だからこそ、困難な中を生きる若者に心を寄せて、引き受けたと思います。
4おわりに
今も戦争が起こっており、多くの人々が平和を願っているにもかかわらず争いは絶えず、かつての日本の国がそうであったように、強い国が弱い国を支配下に置こうとする。その一方で、私たちの身近な周りに目を向ける時、戦争の縮図のような人間関係を見ます。
戦争の悲惨さを十分学んできた私たちは、「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)との仲間を増やすために、復活の証人としての歩みを続けていきたいと願っています。
文中*満州の年表は、母の友人の浅井紀明氏からの手紙から引用。1894年(明治27年)から1947年(昭和22年)までの年表。
(飯島多嘉 二女・誌友・隠退牧師)
