寄稿

戦後80年 私の少年時代  助川 暢

私は、1934(昭和9)年、福島県の阿武隈山地の中程の片曽根(かたそね)村(現田村市)の生れです。今は独立学園の史料整理・環境整備などをしています。今年91歳です。

父は炭屋をしながら早稲田で学び、卒業後は帰郷し28歳で片曽根村の村長になりました。村役場職員は全部で5人、村の人口は3105人、戸数406戸であったそうです。養蚕(ようさん)業などの発展のために繭(まゆ)市場を設置したり、青年を対象とする農業補習学校を設置したり、1921年に県会議員となり、全日制二ヶ年の片曽根実業学校を設置し、自ら校長となり地域の教育に尽力し、1930(昭和5)年に衆議院議員となり、死ぬまで町長をしながら国会で農村議員として努力するようになりました。

母は、隣の町から来てくれ、多忙な父を支え、農閑期(のうかんき)には、地域の娘さんの裁縫の指導をわが家を会場として教えていました。

私は6人兄弟で、一番上が兄、姉が4人と続き、私は末っ子として育ちました。

父は、国会で農業問題について責任ある立場として、1943(昭和18)年の10月に、日本と満州の間の課題を現地で視察・検討するために、松村謙三(けんぞう)氏、加藤鯛一(ちょういち)氏(社会党の衆議院議員加藤勘十氏の兄)などが一緒に行くことになりました。

松村氏は、一船早く乗船し釜山で待っておりましたが、助川と加藤は次の崑崙丸(こんろんまる)が、朝鮮海峡でアメリカの潜水艦に攻撃されて死亡してしまいました。『松村謙三 三代回顧録』(吉田書店発行)にその時のことが詳しく記されています。

戦争中の学校の様子を見てみたいと思います。それは、天皇を生きた神とした天皇中心の徹底した軍国主義の教育でした。

北朝鮮の人民集会のテレビで見る、軍国主義的なみんなが旗を振って、どうどうと行進するあの姿は、かつての大東亜戦争の時代の日本の姿にそっくりです。日本は、天皇を生きた神としていた点で、日本の方がより徹底をしていたと言えるでしょう。

当時の小学校は、1941年から1947年まで、「国民学校」と呼ばれていました。初等科六年、高等科二年で、戦時体制に即応し、天皇の治める国にふさわしい教育体制が整えられていました。

朝、学校に行くと、校門をくぐった左手の方にある、石造りの奉安殿(ほうあんでん)という小さな神殿に最敬礼をします 。奉安殿の中には、天皇・皇后の写真(「御ご 真しんえい影」と呼んでいた)と教育勅語謄本(ちょくごとうほん)が納められていて、その所に最敬礼をしてから教室に向かうようになっていました。生きた神である天皇に拝礼をし、天皇の教えが記された教育勅語の教えに徹底して従う心を持つことが、一日の始めに行うことでした。

また、毎月近くにある神社に全校生徒・全職員で行って戦勝祈願をしていました。

町内で出征する人が出ると 、授業は止めて、学校総動員で駅まで見送りに出ました。

出征する人たちを励まそうと、次のような軍歌を次々と歌うのでした。

勝ってくるぞと勇ましく 

ちかって故郷(くに)を出たからは 

手柄立てずに死なれよか 

進軍ラッパ聴くたびに 

まぶたに浮かぶ旗の波

太平洋戦争下に兵士が不足し、それを補うため、1943年、学生の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入

隊・出征されることになり、父が亡くなった年の12月、兄にも出征の連絡が入り、若松連隊に入隊することになりました。郡山まで磐越東線(ばんえつとうせん)で、郡山から若松へは磐越西線(さいせん)です。姉と二人で郡山まで兄に付き添って行きました。いよいよ列車が出発する時になります。私の目に涙が出てきました。

入隊して相当日数が経ち、母と私がおはぎをもって面会に行きました。なかなか会えませんでした。雪の多い若松で、番犬が大きな声で吠える声が聞こえ、連隊での生活の厳しさを感じさせられました。

兄が出征すると母と4人の姉と私の5人家族で、母を中心として田んぼの作業、畑の作業など、みんなで協力して作業を進めました。私も学校の帰り道に我が家の田んぼの水具合を見て帰るという生活でした。

郡山市がB29により爆撃されるのを片曽根山から見ました。私たちの町にも低空で3ヶ所ほど爆弾を落とし、飛行士の顔も見えました。

「1945年8月15日」この日は日本の歴史の中で特に大切な日です。日本が連合軍に降伏し、戦争が終わった日です。

今日は大事な放送がある、ということでした。ラジオの前に近所の人たち数名も来てくださり、ラジオの前に座っておられました。私たち子どもは、めんこを持って外で遊んでいました。

天皇の放送の時刻になりました。子どもたちも静かにしていました。

放送が始まって数分たつと、大人の人たちが次々と涙を流しはじめました。「日本の方が降伏した」と教えられ、遊ぶのをやめてラジオに耳を傾けました。天皇の言葉は「玉音」と言われています。全国に日本が連合国に敗れたことが伝えられました。日本の歴史の中で、最大の出来事です。

心配していた兄が無事帰って来ました。兄は、在学中に従軍したので、東大法学部の方に戻り、大学の学びに励み、学びを終えて帰郷し、農業協同組合で働くようになりました。大学の休みの時に、当時の東大総長の南原繁(なんばらしげる)先生の著書を持ち帰りましたので、南原先生の『祖国を興すもの』など中学生であった私にもよく理解できる、分かりやすく深い内容の言葉でした。

兄が帰り、一番上の姉が結婚し、うれしいことが続きましたが、母が体が弱くなり中学一年の時に、寝こむようになって亡くなりました。母の存在は大きかったです。

当時は、亡くなると墓地に大きな穴を掘ってお棺に入れたまま埋めていました。埋める前にお線香を供え、亡くなった方とお別れをします。亡くなった母と最後のお別れをしなければなりませんでした。私は母にお線香を供え祈りました。その時に悲しさが強く高まり、大声をあげて泣きました。

そのような悲しみを、兄や姉と分かち合って生活したのですが、元気がありませんでした。夜に目が覚めると、涙が流れるのがしばしばでした。そのような私は、その時の国語教科書に出ていた1876(明治9)年に、札幌農学校(北海道大学の前身)に来られて大きな働きをされたW・S・クラーク先生についての文章に大きな力をいただきました。教科書に出ていた文章は、雪の手稲山登山とクラーク先生が一年後アメリカに帰る別れの場面でした。

大雪の中、札幌に近い手稲山に先生方と学生の皆さんと登山します。山頂近くにある大木の枝に見事な地ち衣い類るいが出ているのに気付き、高い所にあるのでクラーク先生が四つん這いになられて土台の代わりになって、背の高い生徒に背中に乗ってもらってその地衣類を取ってもらって喜びを分かち合っている場面が描かれていました。そのような先生の生き方に大変感銘を受けました。

明治の始めの時代ですから、クラーク先生がアメリカに帰る時、列車はまだありません。馬車で石狩平野を越えて、船のある港まで馬に乗って行かれました。

クラーク先生と馬車の見送りの方々が別れます。その時にクラーク博士は馬の上から学生に、”Boys be ambitious” と叫んで、去って行きました。この言葉から、「苦労があってもへこたれるな、がんばるのだぞ」と私を励ましてくれています。このクラーク先生の残された言葉は、どれほど多くの方々を励まし、力づけてくれたことでしょうか。私は母を亡くした悲しみから、私を産んで育ててくれた母に感謝し、苦しみがあってもへこたれず、一生懸命に生きて行こうと決意しました。

中学校でたまたまこの文章を学ぶことが出来、深く感謝しています。これからも与えられる課題をしっかり受け止めて進んで行こう、と祈っています。

(基督教独立学園 元校長)

注:クラーク先生のことは大島正健著『クラーク先生とその弟子たち』(国書刊行会発行)に出ております。