寄稿

戦後80年 詩編23編    上野 瑤子

昭和16年(1941年)3月に、生まれ故郷の京都から父の都合で鎌倉に引っ越しました。小学校一年の時です。3月の海岸は人も少なく磯の匂いで一杯でした。4月から鎌倉教会の日曜学校に通い始めました。バス停「材木座」から一人でバスに乗って通うのがとても楽しみでした。内容はよく覚えていませんが、礼拝の後に江の電に乗って小さい散歩に出掛けたこともありました。

12月に戦争が始まってからはラジオからピーピー音がしていたのを覚えています。

私は夕方、近くの材木座海岸で、新田義貞(にったよしさだ 1301―1338)が刀を投げたと言われる稲村ケ崎を右手に見ながら太平洋に向かって鉄棒でよく遊んだものですが、その雄大さは素晴らしかったです。翌年あたりから海軍の水兵さんたちが夕方浜辺を散歩に訪れるようになりました。横須賀基地が近かったからでしょう。3年生の時、何日からか覚えていませんが、礼拝が大人と一緒になりました。子どもの座席の両側に大人がいました。そこで詩篇23篇を全員で暗唱したのです。畳半分程の白紙に墨で書かれた詩篇を覚えたのです。どれ位の期間かは判りませんが確かに覚えました。文語体でした。

4年生の中頃から鎌倉も艦砲射撃の心配から疎開が始まりました。私は横浜市の戸塚の田舎へ引っ越しました。二学期までは教会に通ったようですが覚えていません。5年生は戸塚小学校に通い、6年生は近くのお寺に通いました。

戸塚は空襲されませんでした。たまにB29が横浜市などを襲撃した帰りに機銃掃射を受けた位です。あの低音は忘れられません。

横浜の空襲時は空が真赤になりました。敗戦の日、近所の方々が我家に来られ、一同正座0 0 して玉音0 0 放送を聴きました。戸塚は厚木(あつぎ) に近く、将兵が横浜に行く国道の近くでしたから、敵兵の〝鬼〟の顔とはどんな顔かと見に行きました。「鬼畜米英」と言われていましたので、お笑いですね。戦後は最後の学制の女学校に入りました。

横浜駅の西口に出ると瓦礫だらけで見通しの良い道を歩きました。まるで砂漠でした。私はその後、意味の判らない文語体の詩篇を想い出しながら、これはどんな字かどんな意味かを時々考えるようになりました。その結果、私の中に詩篇23篇が深く刻み込まれました。今でも全部覚えていて書ける詩篇は23篇だけです。

大変な時期に教会員のことを深く想い、詩篇を一人ひとりに刻んでくださった鎌倉教会の愛と叡えい智ち を生涯感謝しています。(誌友 日本基督教団 東松山教会員)