「隣人を自分のように愛しなさい」 とは?小林 詩音

マルコによる福音書12章28節―31節に、愛にまつわる記述がある。彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

この箇所は、神と自己の関係、そして他者と自己の関係を扱っているように見えるが、私はそれだけではないと考えている。2つ目の掟である『隣人を自分のように愛しなさい』という箇所で命じられていることは、実は2つある。隣人を愛する前に、自分を愛していることが大前提になっているのである。では、自分を愛するとは、そして隣人を自分のように愛するとは、どういうことなのだろうか。この度は、私の自己認識、神や他者との関わりがどのように変遷してきたかをお話したい。

1  過去

私は幼少期から親に連れられて教会に通い、原罪やイエス・キリストによる罪の贖い、そして隣人愛の概念を学んだ。そんな私にとって、自分自身は、罪深く汚れた、憎む対象、否定する対象に他ならなかった。私は生れながら罪深い存在のようだ。自分はまだキリストの十字架による救いの体験がないから、今現在も罪深い人間に違いない。そしてそんな罪人の行いは、すべて悪になるらしい。幼少期の私は、自分を罪人だと認識し、頻繁に罪悪感を覚えながら生きていた。この罪悪感は、私の心の内から出たものというよりは、自分の外部から植えられた罪悪感だった。

この罪意識は、神と私の関係、私の自己の捉え方、そして私と他者の関係に影響を及ぼしていた。まず、罪意識は神と私の関係に影響を与えた。愛なる神を説かれ、そして知識でそれを理解できても、私は心で神の愛を実感することができなかった。

私にとって、神はまず裁く神、罪人を糾弾する神であり、そしてその上でキリストの十字架という慈悲をちらつかせる神だった。裁かれることが恐ろしいと感じていた自分にとって、裁きと愛がセットになった神は、純粋に愛なる神だと実感できるような方ではなかった。神の愛を感じるためには、自分はなんという罪人なのだ、と自分をけなし、自分を憎むことが必要だった。その直後に、自分のために死んでくださったキリストを知ることで、ようやく愛を実感することができたのだった。

また、私の罪意識は、私自身の精神的自立という側面にも影響を及ぼした。聖書には、イエスが両親に仕える記述がある。それに倣い、教会学校ではわがままを言わず両親に従うように教えられた。ここから、私の中で、親に逆らうことは神に逆らうことである、という肯定式が成立した。親に反旗を翻したら、罪深い子供というラベルを貼られ、この哀れな子が救われるように、と教会で祈りの課題に挙げられるかもしれない、何より神から罪人だと裁かれるかもしれない。そのような恥と恐怖が私の心の片隅に、影を潜めて居座っていた。そんな私には、自立して自分らしくあることと、わがままの違いが識別できなかった。自分らしくあるということは、自分が自力で何かを決断することであり、それは神の御心に従うことと相反するものだった。私は自分を殺し、キリスト教という外部から取り込んだ価値観を基準に全てを判断するようになっていった。

さらに、罪意識は私と他者の関係にも影を落としていた。私はノンクリスチャンに対して、密かに優越感を覚えることがあった。自分も含め、人には皆原罪がある。でも私は、そこから脱却する「キリスト教」という綱を握っており、模範的クリスチャンになるよう努力もしている。だから自分は相対的にきよい側にいるのだ、そしてクリスチャンでない人は哀れな罪人ステータスにいるのだ。心の奥底にひっそりと、そのような意識が根を張っていた。なんという高慢だろうか。

このように、私の中の罪意識は、心の中に愛の神ではなく裁く神を描き出し、私の自立に歯止めをかけ、回り回ってノンクリスチャンへの密かな優越感を作り出していたのである。

2 転機

そんな私に転機が訪れる。数年前、私は、自らの病と人間関係の問題が重なり、自分のしたいことが思うようにできなくなった。自分が取り込んだキリスト教の価値観と相反する自分の感情をコントロールできない。やるべきことがあっても病のために体力が足りずできない。身近な人を支えなければならないのに、むしろ自分も一緒に泥沼にはまっていく。その過程で様々な価値観を曲げ、信念を放棄してしまった。それは私の弱さであり、罪であった。私は神から責められているような気がした。お前があの時、自分の感情を取らずキリスト教の価値観を遵守していれば、こうはならなかったのに。お前がこの道に来なければ、あの人もこの人も苦しむことはなかっただろうに、そしてお前自身も苦しまなかっただろうに。神にそう言われている気がした。私は、自分が取り込んだキリスト教の価値観を恨んだ。それさえなければ、中途半端に信念を貫いた結果、泥沼にはまることはなかったのに。神も恨んだ。罪を犯すような方向に向かっていると分かりながら、なぜ私を止めなかったのか、そしてなぜ後々私を責め立てるのか。

ついに私は、こんなに苦しまなければならないなら、キリスト教も神も捨ててしまえ、と決心した。全てを捨てたそのとき、私は心の奥に、何か温かいものを、愛を持って私を見守る視線を感じた。神を捨てたときに、私は神に再び出会った。その神は私がそれまで考えていた、愛はあるけれど神の意志に反する部分は罪だと糾弾し切り捨てる方ではなく、私の全てを、できる部分もできない部分も、私が抱いていた神への不満や怒りも、全て受け止め、愛する方であった。

遠藤周作氏の著書に『沈黙』や『イエスの生涯』があるが、彼がそこで描くキリストは、人の弱さと痛みにとことん寄り添うキリスト、人々をひたすら愛そうとするキリスト、そして奇跡で人を救わない、ある意味無力なキリストだ。私が信じている神は、遠藤周作氏が描いたキリストのような神である。人の苦しみ、悲しみ、痛みに寄り添ってくださる神。激しい愛ではなく、温かな、穏やかな、ありのままの私を受け入れてくださる神。それが、私が再び出会った神であった。そしてそこから、私は自分を愛するということを学び始めた。

3 現在

では、自分を愛するとは何を意味するのだろうか。自己の捉え方にまつわる言葉の中に、自己受容と自己肯定という概念がある。心理学界隈では正式な定義があるだろうが、ここでは私なりの定義を紹介する。

⑴ 自己受容:ありのままの自分を受け入れること。自分が感じているものを抑圧せず、フルに感じること。

⑵ 自己肯定:自分の状態や言動を良いと判断すること。自己受容と自己肯定の重要な違いは、判断をするか否か、という点だ。自己受容は、ありのままの自分を受け入れることであり、良し悪しの判断は不要である。対して自己肯定は、これは良いのだ、という判断が必要となる。

現在の私は、自分を愛するということを、自己受容とほぼ同

義で捉えている。私にとって、自分を愛するとは、まずありのままの自分自身を受容することを意味し、また、自分をケアする対象としてみることも意味する。例えば、辛いことを言われて傷つき、悲しみという感情を覚えたら、それを抑圧してなかったことにするのではなく、きちんと悲しみを感じる、また「ああ、自分は今傷ついて悲しんでいるんだな」と認識し、ケアするよう意識する。そういったことが、自分を愛することの一例だと思っている。

以前の私は、自分を否定しがちだった。しかし、受容的な神の愛に触れることで罪悪感から解放され、私自身が自分を裁かなくなった。自分が感じているものを抑圧するのではなく、自立してありのままの自分を感じ、自分の心の声をきけるようになった。そして、自分の力を過信せず、自分が必要としているものを認識できるようになってきた。

では、自分自身のように隣人を愛する、とは何を意味するのだろう。この聖書箇所は、自己に向ける愛と同様の愛を隣人に向けるように命じている、と捉えることができる。私の場合は、自己受容の対象をそのまま他者にすり変えて「他者を受容」することが、隣人愛になる。

昔の私は、自分は誰のことも愛せない人間だと思っていた。キリスト教では、神は全ての人を愛しているという教えがある。それが理想的な愛ならば、私もあらゆる人を愛さなければいけないのではないか、と捉えていた私は、あらゆる人を平等に愛すること、言い換えると博愛を試みていた。博愛を簡単に実行できる方法がある。相手との距離を詰めないことだ。相手のいい部分だけ見え、欠点は見えない程度の心理的距離を開けておく。そうすれば、比較的簡単に相手を好きなままでいられる。

10代半ばまでの私は、相手を肯定することで相手を好きでいようとしていたが、相手を受容することからは逃げていた。そして、自分が相手と向き合いきれていない、愛しきれていないような感覚をいつも抱いていた。

しかし、自己を受容することを学んだ私は、愛のイメージが、良し悪しの裁きをせずありのままの相手を受け入れる、というものに変わった。自分が命を捨てるとか、頑張ってみんなを平等に愛そうとするとか、そういった自分から努力して働きかける能動的なものよりも、相手から発信されたものを受け取る、受動的なものを愛の行為として捉えるようになった。

さて、ここで自分を愛することと隣人を愛することをどう両立させていくか、という課題が出てくる。どの相手であれ、他者である限り、自分と異なる背景、価値観、性格、そして欲求を持っている。近づけば近づくほど、どうしても相容れない部分が見えてくる。私自身、身近な人から憎悪の感情を向けられ、性質を否定された経験がある。恒常的に憎まれていたのではなかったからこそ、近い距離を維持し続け、傷ついても蓋をして

やり過ごし、時にそれが累積して表出するということもあった。また、相手の欠点を指摘し、厳しく接することこそが愛だと考えている人とも出会った。私はそれを愛として受け取ることができなかった。これだけ自分のために力を注いでくれているのだから、その思いに応えなければと思う反面、苦しんでいる自分がいるのも事実だった。

近づけば近づくほど、相手が自分を拒否するかもしれない、逆に自分が相手を拒否するかもしれない、そして愛の形が違いすぎて苦しむかもしれない。どうすればいいのだろう。答えは分からないが、自分はこれまでの経験を通し、重要なことを2つ学んだ。1つ目は、相手のために自分を殺すのは良くない、ということだ。自分が傷つき、怒りや苦しみを覚えた際、それを押し殺すのではなく、適切な形で表現し、相手に伝えることが大切だ。隣人愛を遂行しようとして自分への愛を疎かにしてはいけない。でなければ、別の形で問題が表出することになる。

そして2つ目は、受容の大切さだ。相手を全部肯定するのは困難だ。自分と相反する価値観や意見、自分へのネガティブな感情に心から同意することは、基本的にはできない。けれども、受容することは可能だ。相手が自分と違う部分を持っていることをひとまず受け入れる。その相手自体の存在も受け止める。それなら可能だ。相手の全てを理解し肯定することができなかったとしても、相手を受け止めようと心を開いておくことはできる。そしてそれが難しければ、そんな自分を受容すればいいのだ。私には、大切な人、愛情を向けてくれる人がいる。その人達にどれだけ返せているか分からないが、自分は他者を愛せる人になりたいとよく願っている。神に「この人を愛することができますように」と祈ることもある。愛はいい相手と出会ったら自動的に発生するものではない、愛は覚悟だ。けれども、それは肩肘張って努力する能動的な愛の覚悟ではなく、未熟ながらも相手を受け止めて愛したいという、ある意味受動的な愛への希望である。(国際基督教大学大学院修士課程学生)