私たちの現在地 ─ 小高夏期自由大学から学ぶ 小暮修也
信仰の友の生き方から
2011年3月11日に起きた東日本大震災により、地震、津波、そして原子力発電所爆発が発生し、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした。震災後、宮城、岩手の各地における復興は目覚ましいものがあるが、福島においては、放射能汚染という深刻な事態が復興を遅らせている。福島第一原発20キロ圏に位置する南相馬市小高区の小高教会幼稚園では、3月11日、後日行われる卒園式後の謝恩会等の準備に追われていた。しかし、翌日には全員避難指示が出され、以後、5年間は立ち入ることが禁止され、72年にわたって地域の幼児教育を担っていた小高教会幼稚園は休園を経て廃園となった。
2022年4月に、50年来の信仰の友である飯島信牧師から日本基督教団小高伝道所・浪江伝道所の牧師として赴任したとの連絡を受けた。その頃、私は長年にわたる務めを終えて古希となり、ゆっくりした余生を送ろうと考えていた。ところが、飯島さんは70歳を過ぎても尚、先立つ主の導きによって被災地に赴き牧会に当たるという。私は、彼の生き方を見て、「自分にできそうなことは、やらなければならない」と考え直した。
小高とは
福島県南相馬市小高区は東京駅から常磐線で北へ約280キロに位置し、福島原発がなければ穏やかで風光明媚な地域である。現在、小高駅は無人で券売機もなく、障がい者・老人用のエレベータもない。ただ、住民たちの手によって毎月飾りが施され、昔ながらの駅舎は味わい深い。
小高駅を出ると北側に向かって真っすぐの道路が伸びている。道の両側には所どころ花が飾られ、50メートルほど歩くと左側に双葉屋旅館がある。この双葉屋旅館女将の小林友子さんは小高商工会女性部部長で小高教会幼稚園同窓会長を務めていて、町の復興・再生のために尽くしている。震災を伝える「おれたちの伝承館」を開いた方や移住してきた方がたは口々に「友子さんにお世話になった」と語るほど多くの人たちに仕えている。
さらに北に200メートルほど進むと左側に、十字架の塔が立つ小高伝道所・小高教会幼稚園が見えてくる。小高伝道所の会堂は、平日は幼稚園の教室を兼ねていたらしく、伝道所玄関には、後に卒園生によって飾られた「にゅうえん・そつえんおめでとう!」の文字が目を引く。さらに奥に進むと、幼稚園の教室が3部屋あり、遊具が並んでいて、今すぐにでも使える状態である。
小高夏期自由大学のとりくみ
飯島さんは、この伝道所を会場に、小高住民の交流の場を設け、2022年10月から「小高を愛し、小高を語る集い」と「小高を語る自由人の集い」を開催してきた。その総集約として、小高夏期自由大学を開くことにした。私たちはこの大学の目的を何度も話し合い、「小高復興の現在地を知り、脱原発と平和への道筋を描きつつ、内外との交流を深める」こととした。第1回の夏期自由大学では、高橋哲哉さんから「私たちの現在地─今、世界で、福島で問われていること」と題して主に原発の問題を明らかにする基調講演をいただき、パネルディスカッション1では「小高に戻り、考えたこと」と題して、それぞれの方から地震、津波、原発事故での苦難の日々を語っていただいた。パネルディスカッション2では「小高の再生を語る」と題して、この小高の町を自立した地域にするための取り組みが紹介された。
なお、これらのお話はそれぞれに深い内容を持っているので、全国の多くの人に知ってもらいたいと願い、小高住民の手による題とデザインで『心折れる日を越え、明日を呼び寄せる─手造りの再生へ向かう原発被災地の小高から』(ヨベル新書)を刊行した。
幼稚園舎を展示と交流の場に
ところで、閉園となった小高教会幼稚園の園舎は、当初解体予定であったが、卒園生や地域の人びとから取り壊さずに残してほしいとの強い願いがあり、小高の歴史と震災遺構の展示、教会幼稚園の園児たちの想い出の部屋、小高伝道所120年と小高教会幼稚園72年の歴史資料を展示する記念館として残すこととした。ただ、計画の段階では、東京電力からの原発補償金を記念館創設のために用いる予定であったが、県から「廃園になる幼稚園の記念館に補償金を支出してはならない」との通達があり、全て自前で資金を用意しなければならなくなった。
2025年3月までに第一期目標「主に震災遺構を含む小高町歴史資料室建設資金」として500万円を募っている。教会幼稚園が廃園になったのは彼らの責任ではない。それ故に、このようにして地域の記念館として、交流の場としてよみがえらせようとする取り組みに、祈りつつ支援してほしいと願っている。
(小高夏期自由大学事務局、前明治学院長)
『心折れる日を越え、明日を呼び寄せる―手造りの再生へ向かう原発被災地の小高から』
(新書判・二四〇頁・定価一四三〇円〈税込〉・ヨベル・再版準備中)