報告

夏期信仰修養会 報告 江村 悠子

8月9日から11日、信州・小諸で行われた2023年度夏期信仰修養会。この記事では「報告」として、会全体の流れや空気感をお伝えできればと思います。とはいえ、筆者個人の感想も入らざるを得ないことをご了承ください。

参加者の顔ぶれ
今回は3日間で35名の参加者がありました。そのうち初参加の方が10名、またいわゆる若い世代に分類される20~30代が12名でした。普段教会や集会に出席していなくともキリスト教や聖書に関心のある方も何名か参加されました。

会の初めには、年に一度か二度の再会を喜ぶ多くの満面の笑顔もあれば、ほとんど知る顔のない中に飛び込み少し緊張した面持ちもありましたが、次第に至る所で参加者同士の対話が繰り広げられるようになりました。 「主にある友情」が共助会の生きた柱であることを思わされます。

エレミヤ書の学び
今回主題として取り上げられたのはエレミヤ書です。筆者は2016年からの参加者であり、まだまだ共助会との歴史は浅い者ですが、今回の案内を読んだ時、聖書のある書物を中心とする今回の主題は王道でありながら共助会の修養会としては新鮮に感じました。

開会礼拝の朴大信さんの説教の冒頭において、修養会の主旨が改めて確認されました。主旨文の最後にある「自らの立つ位置を定め、明日を生きる力としようではないか」という文をもって、以降3日間の向かう先が示されました。 この修養会の役割は、日常生活をしばし離れて静かに聖書の言葉に耳を傾けることにとどまらず、その先の現実においてキリスト者としての確かな歩みをしていくための力を得ることであることが再確認されたのです。 このことは、半ば年に一度のバカンスや同窓会のような気分で小諸に降り立った筆者個人にとっても重要な方向付けでした。

この方向性にたがわず、開会礼拝での説教においても、それに続く片柳榮一さんの主題講演においても、私たちの現在置かれている現実の世界、そこに置かれる現実の私たちを踏まえた真摯な言葉が語られました。 きわめて濃厚な発題であり、予定していた時間枠では収まりきれず、主題講演後に予定されていた応答は急遽翌日に移動されました。

主題講演直後には、飯島信さんからの突然のご指名により、川田殖さんから一言を頂きました。相変わらずの力強さで、聴く者の目の奥をじっと見つめながら、「エレミヤはイエス様と同じくらい神様を身近に感じていた、そう思いませんか」と問いかけられました。

翌日行われた応答では、小友睦さん、高橋伸明さん、石田真一郎さんがそれぞれエレミヤの「苦難」「召命」「新しい契約」をテーマとして語られました。それはお三方それぞれに与えられた生から生まれた信仰の証でもあり、今この時代に働かれる神様を示すものでした。

3日目の閉会礼拝では飯島信さんが、エレミヤの祖国と民への想いから得た気づきである、日本の国と民を愛することの深い意味を語られました。この励ましをもって参加者たちは、それぞれの生きる現実に再び押し出されていったのでした。

早天礼拝
2日目の早天礼拝は齊藤凜さん、3日目は林香苗さんが奨励を担当されました。齊藤さんは「すべてのいのちが等しく無限に尊いと信じることと、より善い生き方を求めること」という主題で、ご自分の経験してきた他者との出会い、自分自身との出会い、神との出会いから紡ぎ出された言葉を語ってくださいました。 林さんはずっと続けてこられたエレミヤ書の学びを通して感じたことを、ご自分の日々の生活での所感と絡めて語ってくださいました。いずれも本人にしか語ることのできないものであり、参加者一人ひとりの心にしみじみと響いているのが感じられました。そして、共に祈り、共に聴くことから一日を始められることの恵みを思いました。

分団
分団は4グループそれぞれに多様な属性を持つメンバーが配置されました。当初、2日目の午前と夜の2回持たれる予定でしたが、応答が2日目午前に移されたことにより、2日目午前の後半(80分)、夜(90分)、3日目午前の前半(60分)の3回となりました。筆者のグループでは、会の感想、日々の感情、労働のあり方、韓日関係、家族関係など話題は多岐にわたりましたが、各自の問題意識を率直に吐露し、応答し合う、共助会らしい自由で真剣な時間を過ごしました。 ほかのグループの様子は断片的にしか聞いていませんが、それぞれ充実した対話となっていたことが窺えました。

裵貞烈(べーチョンヨル)さんの存在
今回、この修養会のために遥々韓国から裴貞烈さんが参加してくださいました。裴さんが今年共助会に入会され、修養会に来てくださったことの深い意義は別の記事で先輩方が大いに語ってくださることと思います。2日目夕方には裴さんを囲んでこれまでの歩みを伺いました。特に筆者の印象に残っているのは終盤に語られた「キリスト者であってうれしい」という言葉です。私はキリスト者であることを喜んでいるだろうか、その喜びとは何か、と改めて考えさせられました。

おわりに
最後に、修養会での学びについての筆者の感想を述べます。大きく印象に残っているのは、エレミヤが預言者としての召命から逃れようにも逃れられずに応答したということです。自分の今までの人生での重要な岐路を思い起こす時に、こうした「逃れようにも逃れられない呼びかけ」を体験したことがあったかと問われれば、これといって思い浮かびません。しかし、日常の小さな出来事を考えた時、エレミヤと比べることは到底できないものの、これが「逃れようにも逃れられない呼びかけ」に近いものなのではないかと気づいた事柄があります。それは食卓での隣人との会話、道端に落ちているゴミ、通りすがりの困っている人、絶望したくなるニュースなどの一つ一つの出会いの中で、自分の損得を脇に置いても自分のなすべきことに一歩踏み出した時の感覚です。 このことを思うと、私は確かに、どんな時にも、神様から小さな声で呼びかけられています。そのほとんどは聞こえず、聞こえても無視してしまっていることでしょう。 エレミヤはこうした日々の出会いの中で、つまり自分の生きる現実の中で、耳を澄ませて神様からの呼びかけを聞き分け、それに応答する者であったのだと思います。私はエレミヤのような苦しみを味わうのはできる限り避けたいと今でも思います。それでも、神様に呼びかけられた時、その呼びかけを聞き取り、逃れずに応答することができるように、いつも目を覚ましていたいと願います。

(アジア学院 職員、日本基督教団 桐生東部教会員)