『公的』と『私的』の自分の狭間で M.U.

この度は共助会の夏期修養会にお邪魔させて頂き、皆様と一緒に過ごす時間を頂きまして、誠にありがとうございました。

今回の修養会は私にとって社会という大きな「他者」に向けた「公的」と「私的」な自分の感覚について考える時間でした。

個人的に韓国のことを考える時、ある一人の男の子を思い出します。中学の時の転校生である彼から、自分と何も変わらない人間だと思っていた彼からいつか先の時間で兵役にいくのだと聞いたことは今でも忘れません。日常の一端で、階段を下りる中で語る雑談で、その言葉が、制度が出てくる人生を、国籍を持っているのだと感じたことは忘れないと思います。

その一方、高校時代に学び、大学の講義でも関わることになった慰安婦や戦争時の問題に向き合う時、どこか焦るような気持ちになります。かつて自分の国の人々が起こした「行動」、もっと言えば「罪」に対して、どこか真っすぐに向き合えない自分にぶつかります。「日本人」である自分のもの、でも、自分が物理的に知らない「過去」のことです。「公的」な自分も、「私的」な自分も同じ「自分」です。私は、自分がどういたいのか、どうありたいのか、まだよくわかっていません。しかし、どちらもとても大事なことはわかっていたいと思います。

加えて、分団や個人的にお話させて頂いた時間で、自分が多くの知識や考え、感覚等、公的な部分と私的な部分が意識的にも、無意識的にも複雑化して、入り混じって話をしていたことに気づきました。いまだに様々なことを複雑な自分が持つ色々な視点から考えさせられています。分離できるようで、分離するべきでないような、分離できないものでもあるような、そんな不可解なものだと、今の自分を感じます。でも、同時にとても大事なことが腑に落ちた自分もいて、その自分に対しては少し誇らしく思います。まだまだ考えたいこと、同時に感じ取りたいことがたくさんあります。これから多くの時間を用いると思いますが、ゆっくり時間をかけてもう少し考えていこうと思います。

極めて読みにくい感想になってしまい、申し訳ありません。

改めまして、この度は夏期修養会のお時間を皆様と過ごすことができ、心から感謝します。またぜひ皆様とお会いし、お話出来ることを心より楽しみにしております。この度は本当にありがとうございました。 (明治学院大学文学部英文学科4年)

・「心を見つめて、ゆるされて、はじまる」R.S.
共助会の修養会に初めて参加できて、本当によかった。楽しかったし、それを超えるものがあった。修養会の前後に実現した様々な再会と出会いも含めた一週間、私は自分を一歩前に進めてくれるような学びと気づきを与えられたと思う。修養会では、色々な「仲間」に出会うことができた。仲間のことばを聴いて、私も問いかけられ、語ることばを聴いてもらった。その中で、私自身が何に苦しみ、何を喜びと感じるのか、自分の心が少し見えた気がする。

私は教員として働くのが楽しい。人と関わることが好きで、自分は幸せだと感じている。それは本当だが、実はその裏で、自分の未熟さ、弱さに困ることもある。自信が持てない時、感情に自分自身が追いつかない時、自分の中の課題を乗り越えるのが困難に感じる時がある。少しでも他者の助けになれたらと思うけれど、日々、力不足・経験不足を実感する。まだ、自分が思う「大人」にはなれていない。自覚はあるつもりだが、なるべく目を逸らしたくなる。

それでも、私はここにいることをゆるされている、と教えられている気がした。修養会の色々な場面で、また会が終わってからも、葛藤し悩んできた人生の先輩、仲間のことばが、じんわりと心に入ってくる。仲間の葛藤も垣間見たし、それを通して自分の苦しさと救いに気づくことがあった。そうして、自分に葛藤があるからこそ、他者と何かを共有できるのかもしれないと思った。先輩・同僚に、生徒に、救われている私。一緒に成長させてもらうしかない。私は人と一緒に学ぶことや人と関わることが好きで、もっと成長したい、と再認識した。この好きな仕事をすることも、ゆるされている。そっと背中を押された。

私は今年のイースターに、導きの波に乗るようにして受洗した。ここ数年、神さまに(仲間と一緒に)歌をささげること、人と直接関わることをどんなに渇望していたのか、今もどれほど求めているのか、気がついた。神さまは、私の周りにいる人を通して働きかけてくれる。私も、神さまの「救い」を少し感じられるようになったのかもしれない。

私は、自分の心についての気づきの幅が少し広がって、やっとことばを見つけ始めた気がする。私は、自分にとって楽しいことを、支えにしてきた。しかし苦しいことについても、無理に自分を納得させようとはせず、心の中からことばを見つけ、少しずつ向き合っていきたい。ここを、また一つの「はじまり」として。 (国際基督教大学教会員、キリスト教学校〔中高〕教員)