小高夏期自由大学報告 北村令子、上田英二、岡崎公子、蜷川文子、林香苗、木村葉子、南原摩利

小高夏期自由大学によせて 北村 令子

小高伝道所の飯島 信牧師の紹介で、「夏期自由大学」に招かれました。「残念ながら予定が詰まっていて、虫食いのような参加しかできないのですが……」と言うと、「構いませんよ、自由大学だから」と大変快く受け入れていただき、肝心の第1日目を欠席し、2日目も3日目も午前中のみの参加で、ここに何か書けるほどのことがないのですが、この自由大学を開催していただいたことの感謝は表明したいと思いました。
この三重の被災地の小高で、今を語り、今後を考える市民レベルでのこのような催しができたこと自体を、大変うれしく思います。
パネラーお一人お一人の貴重な体験談を聞かせていただいて、小高がどんなに可能性を秘めた町であるか、これからの町民一人一人の生き方で大きく変容する希望を強く感じました。
私は、広島県の出身で、放射能被害を子どものころから身近な人―被爆者から直接聞いて育った関係で、この小高の地域の人々の不安に他人事ではない感情を抱いています。町の復興に一人一人の心の復興が忘れられてはならない最重要課題だと思います。イエスがここ小高の町に住んでおられるなら何を?と自問する日々です。
この自由大学が、今後も継続的に開催され、秘められた可能性を現実化させていく力となりますようにと願っております。
( 援助マリア修道会 シスター)

小高夏期自由大学に参加して 上田 英二

私は昭和30年に福島県の中通りにある棚倉町という所で生まれ育ちました。大震災で原発事故が起き、馴染み深い浜通りの町や村の有様を茫然自失の思いで見ていました。そこで起こったことを自分の中で整理することができなかったのです。少しずつ避難地域が解除される頃から、この地で起きたことを心に留めるために、毎年浜通りの地を訪ねるようになりました。昨年、飯島信先生が小高、浪江に来られて、私も礼拝に参加し、それまではあまりできなかった地元の方たちと交流する機会が与えられました。そして今年は豊かな学びと交流の場として小高夏期自由大学が与えられました。印象に残ったことをいくつか記します。
高橋哲哉先生と言葉を交わしているうちに、私とは同学年で高校まで福島の地で過ごしたことを知り、福島に原発が建設された同じ時代を生きてきたことに感慨深いものがありました。先生の原発政策への糾弾の基には、郷土に対する深くてあたたかいまなざしがあることに気づきました。教会付属小高幼稚園出身の作家の志賀泉さんは福島で起きたことを文学の力で伝えようとしています。水俣の本願の会にも参加された由、ここにも石牟礼道子さんに連なるような方が居ることを知ってうれしく思いました。浪江伝道所の礼拝では心が揺さぶられました。この伝道所の歩みを知り、こうして礼拝が守られていることに感謝です。最後に、宿の懇親会で私達が風呂に入っている時に、黙々とゴミ出しをしている飯島先生の後ろ姿を見ました。これらの働きすべてに感謝です。 (日本基督教団 流山教会員)

被災地の人々―小高夏期自由大学に参加して 岡崎 公子

私の母方の祖父は、関東大震災の時、福島県浪江町の営林署の所長だった。もう百年も前のことで、当時小学生の母や叔母が請うけ戸ど の浜で海水浴をしている写真や、浪江駅の写真もあるアルバムが3冊、千葉県の空き家に放ってあった。 飯島 信さんが、帰還禁止 が解除になった福島県小高 伝道所と浪江伝道所の牧師 に赴任したという話をきき、 行ったことのない浪江に 行ってみたいと思った。写 真アルバムの事もあるし、 礼拝に参加したことがある 湯田さんに、今度行くとき 私もご一緒したいと言った。 飯島氏に伝わり、小高夏期 自由大学というプログラム への参加を勧められた。 プログラムは地元の人が中心に運営され、初めて聴 く被災の話に、胸を突かれ た。我が子を必死に探し 回ったお母さんは夜に なって奇跡的に生きて 帰っていた次男を見た! 同慶寺の田中徳雲住職 は、車に家族が乗って各地 を転々とし、最後に福井県 に辿り着きそこで4年。子 どもたちは14 回転校した、 という 10 年間だった。ご住 職は、みんな被災の時の話 を聞きたがるが、「話すほ うは大変なのです。疲れる のです。」 浪江のリサイクルショップの奥さんに請戸の浜を見たいと いったら、「あそこは怖い場所です。行かないほうがいいです。 地元の人は行かない」と言った。緊急避難命令で、とるものも とりあえず人々は散り、浜には何百という遺体が放置されたま ま何か月もあったのだ。 若い人々が動き出している。「 10 人の就業者が住みついてくれ るなら、私は 100の 会 社 を 起 業 し た い 。」 す ご い ! 希 望 が あ る!と思った。(元ペディラヴィウム職員)

小高を訪ねて 蜷川 文子

私は初めて常磐線に乗り福島小高での「夏期自由大学」に参加しました。震災後一度も被災地を訪ねたことがなかったので 遅まきながら自分の目で見させて頂く良い機会と思いました。 無人の小高駅の前には放射能線量計が設置され、閑散とした駅 から直角に伸びる通りの両脇は空き地が多く残り、車も人もほ とんど見かけませんでした。 会場で美しいパンフレットをいただきました。呼びかけ人の 方々が作って下さったもので時間割や情報がぎっしり詰まって いました。高橋先生のお話に始まる2泊3日のどの場面も初め て聞く震災時の体験や未来に向けての計画や貴重な報告とお話 で圧倒されました。東京からの岡崎さんと私以外80過ぎた高齢 の参加者がおられなかったのは残念に思いました。震災前年に 亡くなった同い年の親しい友が小高出身で番地も小高伝道所の すぐ近くでしたが友を知る人には会えませんでした。(後にいわ き市に住まわれる小高伝道所会員のSさんが友人をよく覚えて いてくださったことがわかりうれしかったです。) 働く所があって帰還された方、移住された若い方々の新しい 町づくりへの前向きな姿はとても希望を感じましたが、車も運 転できず健脚でもなく介護の必要な高齢者が生活して行くのは 現在でも難しいに違いありません。 会の開催に小高・浪江の方々と共に働き尽力された飯島さん の生き生きした姿に感動し、また安心しました。礼拝堂に人は 集まらなくても、

住民と共に歩む飯島さんの先にイエス様が歩 いていて下さるのだと思います。今回小高はそう遠い所ではな いと分かりました。今もなお多くの問題を抱える小高にこれか らも心を寄せて祈りたいと思います。 (共助会 事務局)

小高夏期自由大学に参加して 林 香苗

鮮やかに思い出されるのは、食事の時の歓談、伝統芸能の鑑 賞、被災した小高幼稚園に思い出の品が飾られている様子です。 日常をよろこび、楽しむことの尊さ。それが決してあたりまえ ではないことを噛みしめる時間でした。 プログラムの中で語られる事柄は切実で、解決への道筋は途 方もありません。しかも、処理水の放出のような更なる人災が あたかも解決策であるようにして加えられています。 村上春樹がエルサレムで語った壁と卵の比喩を思い起こしま した。一人ひとりは卵のように脆くて壊れやすい存在です。そ れに対して、政治や経済というしばしば無機質となるシステム が立ち上がり、卵が壊れても仕方ないとでも言うかのように暴力的なふるまいをします。も ともとは卵を守るためにでき たシステムが暴走し、猛威を ふるいます。 以前、友人が、脆くて壊れ やすいものこそ尊いと語った ことがありました。強くて永 遠に残りそうなものが尊いと いうのはよくわかります。残 念ながら、私にはこの逆転の 発想を心から理解することが できてはいませんが、それを 聞いたときに肩の力が抜けて ほっとしました。 夏期自由大学において、無 機質なものはほとんどありませんでした。肩書を抜きに共に過 ごすことのさわやかさを感じました。(村上春樹・雑文集・新潮文 庫、2015、 98 頁) (日本基督教団 松本東教会出席)

「小高夏期自由大学」に思う 木村 葉子

9月の残暑の中、常磐線小高駅に降りたつと遠く一本道が伸びていた。小高の風景は家が疎らで、大震災の年、南相馬市の原町教会へ行き、放射能除染のボランティアに加わった時の風景を思い出させた。当時、常磐線が止まり、仙台からバスで延々と走る車窓から見た景色は畑が津波で茫々と荒れ、家は無人だった。大震災から12年目、小高に広がる風景は公立の真新しい交流センターなどが建てられていたが、復興はこれからと思わせた。小高教会幼稚園を訪ねると放射能汚染で集団避難を余儀なくされたその時間で停止していた。幼稚園の卒園式の予定が黒板に今も残り、園児の絵もそのままに突然、大切な日常が中断された居場所を離れ、遠くへ避難した人々の衝撃と残念さは察して余りがあった。

今回、「小高の再生」を胸に集った地元の人々の活動と熱い思いを3日間聞かせて頂いた。10mの津波の来た海岸の長い防波堤や貝塚、福島原発の敷地に続く小高・浪江地区に広がる太陽光発電パネル等を見学した。その電力は水素発生装置に使われ住民には還元されていない。その中に点在する樹林は、原発誘致反対派農家が売らなかった土地という。原発は住民を分断し
た。相馬藩の菩提寺同慶寺なども見学し、大震災映像や音楽工房の歌、伝統舞踊を拝見した。さらに小高教会幼稚園同窓生のつながりや、夕食後のユーモアにとむ交流会に、地元を愛する住民の方々の真摯な飾らない思いを知らされた。

「小高の現状と課題と再生を語る会」とグループ討論会は、現在、「小高」で起こっていることは、混迷するわが国が負う課題であり、その開拓、希望の模索だと共感させられた。自立をめざす起業家を育てようと若い世代の活躍が報告された。ゼロからの出発、予測不可能な未来をむしろ自由とし楽しもうとパワフルな響き。この間、既に地元を活性化する数々の企画が成長しているのが素晴らしい。ママたちのガラス工房や、大学生時代の被災地学習支援子ども会から、居場所のカフェに、子どもの居場所づくりに。さらに、モノに溢れる時代、本当に必要なものは何かと問う。高校生のアイデアを大切に、授業で起業を学ぶ。仲間作り、自立、手助け。発想が斬新だ。やろうという人がまず始めること。Nさんは、かつて渋谷で数万人の若者の反原発運動に参加したが、2012年安倍政権下の再稼働に失望。では自分の半径1㎞から幸せに変える方法でと思い小高で、起業の支援のチラシや「クリエーティヴ・スペース」を仕事にした。大学で大学生の小高の街づくりワークキャンプが取り組まれたこと。

3日目のグループ討論。B 班では教育が話題になった。原発事故当時6歳だった子が今、大学生。避難所で、我慢する生活が続いて、自分の欲求を我慢し自分を見失いがちな彼らをありのままに受け止めるメンタルケアが必要。子どもたちが自分を発揮する自由な居場所が必要と話し合われた。また、原発事故については、多世代の人から、原発の仕組みや危険性をもっと教えて欲しかったという声を聞いた。1973年の福島原発の始動以前から、国策により、核の平和利用と安全神話を教育に盛

り込み、チェルノブイリ原発事故では日本の原発の優秀性が喧伝された。危険性指摘の科学者と市民反対運動の声を強引に弾圧して、日本列島を54基の原発過密地帯にして、ついに福一過酷事故に至った。高橋哲哉先生は講演で、原発の国策の持つ、「犠牲の論理」を詳しく歴史的に語られ、日本の核兵器保有の核抑止力の意図も話された。

高校の物理の授業で原発の危険性も毎年取り上げてきた元教員の私も心が痛む。「人間は考える葦」であり「考えることに人間の尊厳と、道徳性の本源がある」と語ったパスカルについても高校生に伝えた。日本の教育ももっと真理と平和を求める「自由な精神」と「共なるいのち」にしっかり立たなければならないと思う。この機会に浪江伝道所に集い礼拝と平和の祈りの時を持てたことは、主にある大きな恵みと希望の時となった。
(ひばりヶ丘北教会牧師)

小高夏期自由大学に参加して 南原 摩利

小高夏期自由大学の構想を飯島牧師さんから伺ったのは、何か月も前のことでしたが、どんな内容なんだろう、小高のことが学べるなら是非参加したい、とそう思っていました。この3日間は、そんな私の期待を裏切らない素晴らしい内容の3日間でした。残念ながら全日程参加ではありませんでしたが、参加できたことを心から感謝しております。

初日にまず基調講演で福島について客観的に学んだ後、小高の住民の方から震災当時のお話や帰還後に感じたことなどのお話を伺い、翌日には、小高に移住された方や小高の再生のために頑張っておられる方からのお話を伺い大変刺激を受けました。スタディツアーには参加できませんでしたが、小高という土地は文化財となるべき歴史ある文化や場所のみならず著名な人をも輩出している素晴らしい地域なんだということを改めて感じました。
最終日、「小高再生への課題と現実を語ろう」というテーマのもと4グループでグループワークを行いました。様々な意見が出ましたが、参加されている誰もがこの小高という土地を心から愛していて一生懸命頑張っている、そんな印象を受けました。

オプショナルツアーでは、ガイド役も務めさせて頂きながら、楢なら葉は 町宝鏡寺にある伝言館に初めて訪問することができました。原爆、原発事故による被害の大きさを改めて学ぶ機会を持つことができたことも大変意義あることであったと感じています。

準備される方は、きっと大変だったことと思いますが、是非来年もこのような企画を継続して頂きたいなと感じました。

小高区は、震災後一度は人口がゼロになった地域。それでもゼロから始まって現在これだけの方が小高に住んでおられることは、すごいことだなと感じています。私自身は、震災後に復興支援で南相馬市に入ってから10年の月日が経ちました。今後もこの地に住み続けることによって、住民の皆様と共に歩んでいきたいと思っています。感謝のうちに……。
(カリタス南相馬 所長)

カリタスジャパン(Caritas Japan)
日本のカトリック教会として、教皇庁に本部を持つ国際カリタスその他の国際機関と連携しながら、国内外の被災地への募金活動や救援活動、また弱い立場に置かれた人々が人間らしい生き方を獲得するための啓発活動を行っている団体