【京阪神修養会 報告】テーマ 「深き淵より十字架を仰ぐ」 永松英高
*11月22日開会礼拝 片柳榮一氏
深き淵より 詩編130編第1―8節
1節2節は、嘆き祈る私の苦しみの叫び。3節は、苦悩の叫びが自我の暗い蠢きとしての罪に起因している事を感じ、それを見つめておられる主の眼差しに戦慄している。4節は、自ら自身が紡ぎ出し、自ら自身をがんじがらめにする罪の泥沼にはまり込み、深淵に面している。その中で厳しい尊厳なる眼差しの真中で、主の「赦し」を感じている。それは、神と共なる生の根底にある赦しであり、「畏れ」のもとにあって真に始まる神と共なる生です。5節6節は、畏敬から起こる望みを語ります。
この詩人が述べるように、私たちは夜が明ける前の暗がりの中にあります。そして主への畏れから与えられる望みを抱かしめられ、この地上で呻く苦悩の叫びに耳を閉ざさず、一歩でもこの苦悩の世界の中へと、前に踏み出したいと願います、と語られました。
*主題講演Ⅰ「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」― 今日、私たちにとってキリストとはだれか。下村喜八氏
経緯 「ご依頼当初は説教等でもお話し致しましたのでお役御免ください」と述べました。しかし片柳さんに再度お会いした時、満面の笑みをもって「シュナイダーは一度聞いただけでは理解できません。従ってよりよく理解したい爲にぜひもう一度お願いします」。そしてお引き受け致しました。
ラインホルト・シュナイダーは、イエスは、苦しむものと共に苦しむ人、共苦の愛ゆえに、人間の最も暗い状況、神のおられないところに降りられた。インマヌエル(われらと共におられる神)。神を喪失された罪人になられた。《私はいつもあなたと共に、あなたのそばにいる。私と一緒に生きよ》。
ボンヘッファーは、イエスを「他者のための存在」であるとした。「13世紀に始まる人間の自立を目指す運動は、神という作業仮説の助けをかりずに自分自身を処理すること学んだ」作業仮説とは、人間が認識と能力の限界で願望によりつくりだす神。彼は、否定的。
「キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さによって、彼の苦難によってわれわれを助ける。」「イエス・キリストとの出会い。それは人間の全存在の転換が起こったという経験であり、イエスはただ他者のために存在するということの中で与えられる経験である。」「信仰は、このイエスの存在にあずかることである。」「神に対するわれわれの関係は、他者のための存在の中で、すなわちイエスの存在に参与することによって、新しい生を生きることである。」
報告者が、下村先生の講演を喜びと感じたのは、イエスを共苦の人、他者のための存在だと教えられたこと。アダムとエバとが神の命令に従わなかった事が罪であり、それから人は罪人となった。そして父なる神は、罪の最終問題解決をイエスに担わせられたが、そのイエスは生前罪に苦しむ人の友となり、また存在となられたことを知り得たことです。
11月23日
Ⅰ 主題講演2「信州の地より十字架の主を仰ぐ」 朴大信氏
1 信州がどういう特徴を持っているかについて。
2 日本基督教団松本東教会がどういう教会か。主に歴史。
3 十字架の主を仰ぐ マタイ伝第23章13節―22節より
4 主イエス・キリストの言葉、7つの言葉について
マルコ伝15章33節よりテーマを当日は4つの論点よりご講演くださいました。
Ⅱ 質疑応答
質問1 信州長野は教育県、青少年の自死率が突出して高いと聞き驚いています。伝道の課題として受け止めていると聞き、その原因と具体的な対策があれば教えてください。
質問2 詩編
22編の内容説明の中で共苦の窮まった姿としてイエスは罪人になった。イエスは、神のおられない所にまで降りられた、と述べられた。その意味を教えてください。
質問3 作業仮説としての神。そのような神を失う喪失感は大きい。たとえそのような神を失っても、神に捨てられたイエス・キリストと同質の遺棄感をいだくであろうか。作業仮説としての神を失う以上の喪失感を推測させる(ボンヘッファーは)。「成人した世界(作業仮説的な神はいない。先ほどの神なしに生きること)はいっそう無神的だが、おそらくそれゆえに成人していない世界よりもいっそう神に近い」と。ある意味そこでこそ本当の神に出会うんだと。そうすると前の処の「神に捨てられたイエス・キリストと同質の遺棄感をいだくであろうか」。そのボンヘッファーが感じている遺棄感ということと、この真実の神に近いというふうに言われていること。そこはどういうふうになっていますか。
質問4 ボンヘッファーは、成人した世界はある意味で機械仕掛けの神を必要としない形で人類、歴史が13世紀以来少しずつ進んできたというわけですね。だからそこに立たなければならないというわけですが、何か現実の世界はその成人した世界に耐えられなくてそういう神はいない、と。では何を神とするかというと結局国家、自分でもいいですが、こういう形にならざるを得ないようなのが現実であって、ボンヘッファーは、そこは少し近代に対する非常な楽観的信頼があったんではないかという気がどうもする。人類はそれほどいまだ成人していない感じがする。その点はいかがですか。答えくださるやり取りに感銘を受けました。
Ⅲ 懇親会(自己紹介)井川 満氏
懇親会ですが、主に皆さんの自己紹介をお願いします、と述べられ、その時座席におられた方々、2時間の懇親の時を持ちました。
Ⅳ 閉会祈祷会 山本精一氏
昨日今日参加して思う処を2点お話しします。
1 2001年に国際NGOの反植民地・反人種差別主義の会合に参加。植民地主義問題を、私たちの世界が何一つ解決しようとしていない。居直り続けている、世界を切り裂いている。その現場にいたのだとの感を今新たに思い起こします。
2 オランダ系白人入植者のポールトレッカー開拓者記念堂についての歴史。
しかし我々が無意識に栄光を求めている、光り輝く王的支配者イエス・キリストと、深い淵に中にあって仰ぐ十字架の主とは、全く違っている。改めて十字架の主を、深い淵の中での主、がれきの下で息絶えてゆく主、そのことを覚えたいと思います。報告者は、2つの話を通して現在の課題を感慨深く受け止めました。(日本基督教団 北白川教会員)