京阪神修養会に参加して. 下山田 誠子
開会礼拝説教や下村さんの主題講演の専門的なお立場から、ラインホルト・シュナイダーやボンヘッファーの引用を通して「共苦」(ミットライデン)ということについて、私は大きな示唆を受けました。
弱い人、蔑まされている人、取るに足らない人に向かって、自分のこととして共に苦しむ、そして担う、という信仰の倫理・道徳の中心課題であること。
十字架に釘づけされながら、痛み、苦しみの極致から尚、われら人間の様々な苦しみを共に味わってくださった、という。
そして私たちと同じ人間の体を持ち、苦しみ喘ぐ姿を見せてくださった。それは過去の事実のみならず、今もなお、その姿で私たちとともに生きていてくださるのである。それは神を喪失した人間イエスであり、われらと共に今もいますインマヌエルの神である。このイエスの生き方に深く心して、熱河承徳(しょうとく)に、イエスに続こうと出て行った沢崎賢造の一途な生きざまとその死。私は、「われは暗きに泣く赤子、光もとめて泣く赤子……」と苦しみの中からうめきを上げた内村鑑三を想起しつつお話を伺った。
この不安のよぎる暗い時代に、主イエスは歴史的過去ではなく、今も私たち一人ひとりを覚えて苦しみを共にしていてくださる。
神さまは、人間を造り、愛と平和の世界に歴史を導いてくださるのではなかったのか。このような世界観・歴史観に、永遠へと究極的に逃げもせず、この地上の生を生きなければならないという。それは他者(隣人)のために、他者と共に、苦しみ、重荷を担いつつ終わりまで生きるということである、という。
この文明・科学が発達した今日において、たとえ神がいなくとも生きられる社会に私たちは立たされている。そしてそのことを認識して生きなければならない。
ナチの時代を生きた哲学者・神学者のイエス像、救いの道のりを「共苦」というキーワードから語っていただいた。難しく理解できない部分も多かったが、この終末的時代に生きる時、安易な道に逃れることなく「共苦」を心して生きなければと思わされた。
2025年1月の東京での研修会において、下村喜八さんから、一葉のコピーを見せていただいた。『炊き出しの列に並ぶキリスト』と題するフリッツ・アイヘンバーグという画家の作品である。炊き出しをしてくださる側でなく、飢えと寒さにうつむいて並ぶ列の中のイエスの姿である。私は驚きと深い衝撃に打ちのめされる思いであった。これが、これも、「共苦」なのだと心深く思えた。
(松本共助会)