【分団B報告】繋がって、ここに来て、また繋がる R・S
私は「分団B」に参加し、さまざまな方面からここに導かれてきた皆さんとお話しすることができた。自己紹介を兼ねての話が一周するだけで、たくさんの話題が出てきた。教会、共助会、今のお仕事にどのように繋がってきたのか。共通するのは「ひと」との出会いだと感じた。私にとっては話にしか聞いたことのない、かつて大学にいらした先生方、その道で大きな働きをした方々のお名前も、私が直接会ったことのある友人や先輩のお名前も出てきた。それぞれの人が、「ひと」に出会って、色々な方向に心を動かされてここにいるのだと思った。そして、私が今繋がっている人たちのことを、年を重ねた私が若い人たちに話す時が来るのかな、とも想像した。
また、日本の教会やキリスト者のコミュニティで、苦しみを感じてきた声もいくつか聴くことができた。自身がキリスト者と呼ばれるかどうか、また共助会の会員であるかどうか、ということは、自分の生き方を考える上では重要になることもあるだろうが、ここでの分かち合いでは、それほど重要なことではないように、私には思えた。私は、キリスト者と呼ばれるのは「まだ」だと拒否しつつも、求道者でありたいと何年も願いつつ歩んだ末に、今はキリスト者と呼ばれるようになったが、まだ共助会の会ではない。教会をはじめ、信仰者の多い場で語られることが「私に向けられていない」と感じる経験を私もしたことがあるので、そのような枠にとらわれずに語り合える時の安心感は大きい。
最後に全員が一言ずつ話す時間に、前半のほうで話した私は、(修養会に比べてあっという間に時間が過ぎてしまい)「物足りなかった」と言ってしまった。説明が足りなかったかもしれないのだが、特に分団で語られる一つ一つのエピソードや「そのひと自身」について、もっと詳しく掘り下げて聴きたいという気持ちがあったからだ。私の心は食いしんぼうである。
しかし、全員の一言ずつを聴き終わり、研修会の終わりを迎える時には、私の心は満たされていた。私も仲間も、自分の心にある思いや考えを、自由に安心して共有することができ、また他者の心に耳と自分の心を傾けて聴くことができた。それを大切にする空間がそこにつくられていたことを感じられたからだと思う。語れる言葉や話せる時間は限られていたかもしれないが、見えるものだけではない世界を共有できたのではないだろうか。
ある仲間が言っていた、「この人たちにまた会いたいと思うから、来る」という言葉が、心に残っている。私もそうだ。また会いたいと思う人たちがいて、また行ったら新しく素敵な人たちに出会えると期待する。私は今年度、夏期信仰修養会、クリスマス礼拝、一日研修会と参加することができて、まさにこ
のように感じている。今までお会いした皆さんにも、まだお会いしていない皆さんにも、何度でもまたお会いしたいと願っている。
(ICU教会員)