報告

【分団A報告】下村喜八

今、分団報告の難しさを感じています。話し合われた内容が多岐にわたり、かつ豊富であったにもかかわらず、メモと記憶が不十分なため、遺漏や誤りがあるかも知れません。またかなり主観的な報告になることをご容赦ください。

この分団は、メンバー8人のうち10代が一人、20代が二人、そして最高齢は82歳と幅の広い世代で構成されていました。最高齢の筆者には若い人たちと話し合うのは久しぶりで、胸がときめく思いで司会役を務めさせていただきました。全般をふりかえり、司会者がでしゃばり過ぎた感が否めず、反省しています。

まず自己紹介から始めましたが、奇しくも全員が、今回のテーマを念頭においてお話しになられました。発話内容をテーマごとに整理して報告します。

⑴ SNSの時代。1990年代半ば以降に生まれた世代はZ世代(デジタル機器に取り巻かれた環境に生まれた世代。デジタルネイティヴともいう)と呼ばれている。そしてこの世代の人間は人格陶冶(人格形成)がなされず、核(コア)のない人間とみなされている。SNSが及ぼす影響は多大である。兵庫県の知事選挙をみるとその危険性を感じる。ゆがめられた情報、切り取られた情報が流される。そして人間には自分にとって都合のよいものを受け入れたいという志向性があるため、異なる意見は拒絶し、一方的な判断をすることになる。また個人が容易に情報を発することができ、しかも匿名でなされるので言いたい放題である。虚偽の情報、興味本位の情報、デマや誹謗中傷が流される。お互いに呪い合っている感が深いため「呪いの時代」と呼ぶ人もいる。何が本当なのかの判断が難しい。したがって自分はどう考え、どう判断するかが極めて重要になる。以上のような問題が指摘されるなかで、次の発言が筆者の心に残った。「(上述の志向性があるなかで)、自分に都合の悪いことをも背負うことが求められているように思う。イエスが負われた痛みを自分が背負えるとは言えないけれども」。

⑵ 人間不在。〈ある学生の発言〉相手に対して「あなたはどう思っているのですか」と本心を聞くことのできない人間関係に虚無感を覚えている。自分はこのように考え、このように生きているといった実存的な話が不在である。人と人との関わりがなくなり、物と物との関わりになっている。人格教育はおこなわれず、教育の目的は人材を作ることになっている。すべては取引である。戦争を促進することにならないかと心配である。〈別の学生の発言〉人々は将来に対して不安をもち、絶望的にすらなっているが、絶望的な現実に気づきたくないために、無関心でありつづけている。「今が幸せで良かったね」と、自分と自分の周辺、家族の平安・安心を守ろうとして自分を閉ざしている。

⑶ 福島原発事故と今後。〈同じく別の学生の発言〉福島県出身で5歳のときに震災にあった。父は有機農業をしていた。事故後も地元に残り、安全性を検査するため作物を作りつづけている。自分たち子供はたえず放射線探知機をつけていた。動く線量計である。原発事故はまだ終わっていないにもかかわらず国はエネルギー政策として原発を推進する方針である。地域をあげて「原発は安全」の教育が行われている。そして事実、原発賛成の人が増えている。人々は沈黙している。何を信じれば良いのか分からない状況におかれている。核ゴミは無害になるまで10万年かかる。誰も責任をとらない。悲惨な状況に心が引き裂かれる思いである。しかしどのように生きるべきかを語り合える人がいない。

⑷ 過去に学ぶことの大切さ。ある方は、満蒙開拓団について語られた。ご自身は引揚者で、帰国の途中で妹様を亡くしておられる。1945年、終戦間際にソ連軍が侵攻してきた。関東軍は南方に移動していたために庇護されることなく、開拓団の多くは逃避行の末、「いさぎよく死ね」の命のもと集団自決に追い込まれた。後には白骨の山ができた。また残留婦人と残留孤児も生じた。後に中国人によって日本人公墓、養父母の墓が造られた。これは歴史的事実である。過去に学ばない者は現代にも盲目である。筆者もその通りであると思う。

⑸ 世界情勢。トランプ大統領の再登場により、世界の先行きがいっそう見通せなくなった。いつ何を言い出し、何をするかが分からない。世界中が振り回される感である。筆者は、第二次世界大戦後間もない頃のラインホルト・シュナイダーの言葉を紹介した。「止むことのない憂慮のあまり、すでに述べてきたことを敢えてもう一度繰り返したい。アドルフ・ヒトラーとわれわれの対決は終わっていない。また終わりえない」。そして今、人間不在とニヒリズムが世界を覆い、そこから生まれてきた独裁者たちの支配のもと、地球と人類は危機的状況にあるように思われる。トランプ大統領とイーロン・マスク氏の得意げな全能感が何より恐ろしい。

⑹ 慰めのない世代。この研修会の前、筆者は飯島信編著『いのちの言葉を交わすとき』(ヨベル)を再読しながら、大森恵子著『ノートル・ダムの残照― 哲学者、森有正の思索から』(藤原書店)を並行して読んでいた。この二冊に描かれている世界はまるで正反対である。そして青年たちは、「慰めのない世代」と呼ばざるを得ないほど厳しい時代を生きていることに気づかされる。前者に収められた光永 豊氏の感話には、現代の状況が実に的確に表現されていると思われるため、参考資料として一部を抜粋して配付させていただいた。その内容を紹介したい。「多すぎる情報の氾濫、あまりにも早すぎる世界の変化は、人間本来の処理能力、心の限界を大きく超えていて、無意識のうちに疲弊を招いている」。さらに、自分のものといえる時間がもてず、思考と感情までもが情報や競争に支配され、振り回されながらも、変化の目まぐるしい複雑な社会構造に合わせつつ生きざるを得ない現実、そして「人々の内から愛が冷えた」現実が切実に語られている。

混迷を極める時代にあって、現実を言葉で的確に表現することの中から現実を変革する糸口も見つかるように思える。そのことを実感できる話し合いであった。殊に参加された青年たちが、自分の頭で考え、自分の言葉で話されることに筆者は言い知れぬ感動を覚えた。その高ぶりはまだ冷めない。

 (日本基督教団 御所教会員)