感想

京阪神修養会に初めて参加して 上田英二

京都の北白川教会を初めて訪れて、そのたたずまいに深い印象を持ちました。共助会の原点のひとつであり数々の素晴らしい信仰者を輩出し、共助会の精神的支柱ともいえる北白川教会とはどんなにか素晴らしい会堂か、とあこがれを持って訪れました。しかし夕闇の中、やっと探し当てた建物には教会らしさはなく、本当にここなのか? といぶかしみながらその入り口をくぐりました。けれども、虚飾を排した簡素な屋内の造りと静かなやりとりの中、ひとたび修養会が始まると、その簡素さとはまさに正反対に深い深い豊かな言葉がとめどなく語られ、受けとめきれない事態となりました。様々な言葉に接しているうちに、会堂に対して私の感じた疑問(先入観)は徐々に氷解し逆にハッとさせられました。そして「会堂が建ったことで信仰が堕落することを怖れる」との言葉が紹介されました。以前は奥田成孝先生の居宅が北白川教会であり、礼拝は家のふすまを取りはずして行われていたことを知りました。「教会とは人間の人格的結合以外の何物でもない」というブルンナーの言葉を奥田先生は用いています。北白川教会にはこの精神が貫かれていることに気づかされました。

修養会で語られ印象に残った言葉がいくつもありました。「深き淵から」、「共苦」、「偽善者」、「キリスト者の罪」、これらの言葉は書かれたものを読んだだけでは伝わらない、それぞれのお話の中で人格的な言葉となってその迫力と共に迫ってきました。二つの次のような教えを私なりに受け取り、打ちのめされました。

⑴ 世界はまさに深き淵にある、しかしその深淵をもたらしているのは実は私たち自身なのではないか。深き淵の中にいる、この時代の状況を嘆き悲しんでいるばかりの自分がいる、しかしその状況をもたらす者達の中に自分は含まれないのだろうか?

その嘆き悲しみは偽善ではないのか?

その偽善は自分にも他者の目にも見えていないけれど、世界を超えた永遠のまなざし(神)によって明らかにされる。深き淵とはこのような偽善の中にいる私たちの有り様を指しているのではないだろうか。

⑵ このような時代にあってナチスの迫害の下にあったボンヘッファーの信仰が語られました。どんなにつらくても置かれた現実の状況の中でキリスト者として生きること、その状況の中で苦しむ人々と共に苦しむこと(共苦)、他者のための存在であること、そのことが信仰であり、そうしてこそキリストと共に十字架につけられ、甦らされるのだ、と。

人格的な出会いは参加者がそれぞれに語る自己紹介や証しの中にも多く感じられました。この北白川教会という場所、伝統がこうした出会いに満ちた修養会を生み出しているように感じられます。未熟な自分がこの会に参加させていただけたことに感謝するとともに、このような言葉を突き付けられた以上はもう以前のままではいられない、地上の課題と困難に向き合って生きること、そしてそれにどう向き合うのか、重い重い宿題を受け取りました。

(日本基督教団 流山教会員)