応答をしない/求めない傲慢さ T.T.

今年の初夏、人生に絶望を感じていた時に安積力也先生の本を読んでメールを送った。ご自宅で6時間以上対話していただいたことが心に残っており、彼が(唯一)所属している団体である「キリスト教共助会」に興味を抱いた。中学の時に通っていた教会学校以降、教会から遠ざかっていたので、勇気が必要だったが、思い切って飛び込んだ。

二泊三日の夏の修養会を経て、最も大きな気づきは、「自分は傲慢であるかもしれない」ということだった。私は安積先生の許を訪れた際、「教師になりたい」「教え導く者になりたい」という願望があった。それは、今まで出会ってきた大人に対しての不満の裏返しだった。しかし、修養会で多くの教師や牧師をされている方と出会い、彼ら彼女らは「教え導きたい」とは願っていないことを知った。その師たち(というよりも、人間たち)は、「祈る」=「神の呼びかけに応答する」、目の前の他者一人一人に、その時にできる全力で応答しているだけだった。自分が他者を救える存在だと思ってはいなかった。

一方、私はというと、ニコニコと愛想よく振る舞っている裏で、相手を無意識に評価し、自分の影響力を過信し、コントロールしようとしていた。そして、自分のことを配慮もできて、人を良い方向に導ける「恵まれた」人間だと勘違いしていたのだ。それは、思っていることを率直に言わない傲慢さだった。

それは、自信から来ているようで、恐れから来る態度だと気づいた。目の前の他者、自分、神の呼びかけにどう応答したらいいかには正解は無い。だから、応答するときに真摯さがあればこそ、失敗し、恥をかき、苦しみがある。それを恐れて、私は、率直に応答することも、応答を心から期待して相手に呼びかけることも避けていたのだ。

共助会の方達は、みんな神様のことを考えており、会の中のすべての言葉が神の存在を前提としたものだった。その言葉は、仲間たちに無根拠に応答を期待する言葉でもあり、神に呼びかけ続けられる言葉であった。そこには、他のコミュニティでは感じられないような、苦しみと、なぜか希望があった。私は、期間中、神様が私たちをどう導くのか、その業は、いかに真剣に呼びかけても決してわかり得ないような気がしていた。しかし、修養会の閉会式で気づいた。「神の働きは後にならないとわからない」。だからこそ希望があるのだ。

・「共に祈ること」H.U.
今年の夏も修養会に参加する機会が与えられたことを感謝します。また修養会に来ようと思ったのは誰かと祈りを共にしたいと思ったからです。誰かと共に祈る時間が今の自分に必要で、そのことを切に感じていました。留学から帰国して以来は教会や集まりにはほとんど行かず、聖書を一人で読む日々が続き、それ自体は自分にとって豊かな時間でありましたが、自分の言葉を誰かの言葉と共に自分の心に抱くような時を持ちたいと願うようになりました。私は自分の言葉を人に伝えることに対して強い恐れを感じるために人前で話すことからは逃げてきたのですが、共助会では少しですが自分の心の言葉を他者に向けて発するということができるような気がします。その言葉がずっと自分の奥で反響し続けるような、自分の人生における灯であるように思え、暗い場所に沈んだ時に帰って行けるような、祈りができるような気がします。そしてそのような祈りがただ自分のみに発せられたものではないこと、他者と確かに生きている空間において発することができたことは自分にとって本当に大きなことです。

講演でのお話と皆様のお祈りを聞き、聖書の神様は私の神様なのだという気持ちが強められたような気がしています。自分の人生でずっと自分の言葉をささげ続けて生きたいと思えるような神様なのだと思いました。共助会で皆様とお会いし、言葉を交わす時間を通して、自分が神様の前であり続けたいと願っている自分に向かって、神様に向かって歩み続ける励ましが与えられているような気持ちがいます。この歩みは自分のものではありますが、共に歩く他者が与えられていることの恵みを感じました。