感想

生きる責任と慟哭 畠山 公

この時代に生きる責任とは何でしょうか。混迷を深める時代に対して、私はどう応えることができるでしょうか。

共助会一日研修会に参加し、改めて自分の生きる意義について考えました。正直に言えば、この世界の揉め事には関わりたくないという気持ちもあります。その揉め事が、自分が生きていくのにどれど関係があるのかと。無関心であれば、どれほど「幸せ」を感じたまま生きていけたでしょうか。

ただ、私は無関心でいられるほど、頭が良くはありませんでした。他者と関わってしまったとき、「責任感」というものを持ってしまうのです。しかし、「責任感をもつ」ということと「責任を果たす」ということは全く異なります。

ある人が「信仰には〝痛み〟がある」と言っていました。この〝痛み〟は、何の痛みでしょうか。私は、その痛みは、他者の痛みであり、他者を理解できず、他者の痛みを担うことができない自らの嘆きであるように感じます。私には、限界があり、助ける力などとても足りません。この現実が私を慟哭させ、絶望させます。私が信仰に希望を見出すのは、そこに依ることしか生きることができないと思うからです。

この世に生きる責任は、私には重すぎます。しかし、いくら重くても、自らに課せられたものを背負い、引きずって歩くことしか、私にはできないのだろうと思いました。

(基督教独立学園高等学校73期卒 福島大学生)