エタノールの如く 藤坂 一麦

エタノールの炎は、光の満ちているところでは透明でほとんど視認できない。暗闇の中で初めて、それは仄青い正体を現す。私の奥底で、エタノールのように燃え続けている何かがある。情熱や希望が近い概念と思うが、その言葉で形容するにはあまりにも高貴ななにものかである。この炎が、私を辛うじて信仰に留めている。

「神の御子は、われわれを見捨てた神自身を呼び求めるようにと教えた」下村さんの紹介したシュナイダーの言葉である。私はよく思う。「キリスト」者として生きるというのは、神に見捨てられるという悲惨、その中にあったとしてもなお神へと歩き続けていくことを含むのではないか。

「主よ、どうか私を見捨てないでください。これは私の最後から二番目の願いです。しかし主よ、もし、私があなたから見捨てられるとしても、それがあなたの御心ならば、どうかその通りになりますように。これが私の最後の願いです」

私がこのように祈ったとき、友人が反論した。「君は、神から見捨てられるというのがどれほどのことかちゃんと分かって祈っているのか」これは重要な問いだと思った。私は、神から見捨てられるということの意味をよく分かっているわけではない。きっと想像を絶することなのだろう。しかしもし、自分に理解できる事柄しか祈ることを許されないのならば、私は何を祈ることが出来るのか。私は神の前に全くもって無知である。神が私をどこに連れていくのか私は知らない。しかしその無知も含めて、私は私のすべてを神にゆだねようと思う。

四年前、「これから何が起ころうとも、私はあなたに従っていきます」と祈った。この四年間、当時の想定を上回る試練が連続した。しかし主は今なお私を捉えて離さない。四年たち、私の暗闇はいっそう深くなった。それゆえにこそ、四年前には知らなかったエタノールの炎がうっすらと見えるようになったのである。この炎の言語化が、今回の修養会の収穫であった。究極的な諦めの選択が時折脳裏を掠める。そのたびに、十字架の悲惨を共にしている盗人に語ったイエスの言葉「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」が、ギリギリのところで私を拾い上げる。

(京都大学学生 日本基督教団 北白川教会へ通う)