感想

反転の時代に問われていること  K・T

二日目のシンポジウムで山本先生は、戦後築いてきたものがことごとく反転してゆく ― 「底なしの反転」という言葉で現代を特徴づけられた。私は物心つく頃にはバックラッシュ(反動)が本格化していた世代に属するが、それでも数年はとくにその傾向の加速を感じることが多い。戦後八十年を越した直後の年始には、米国によるベネズエラ攻撃が報じられた。ロシアとイスラエルとに続いて帝国主義的野心をまたも剥き出しにした無法だが、その既視感のせいか軍事侵攻への驚きがすでに鈍麻している自分をも知らされた。国内でも民衆の不安を煽りながら排外的・好戦的な風潮は強まるばかりであり、平和・人道・正義・寛容といった理念を建前としても語らせないほどのシニシズム(冷笑主義)が言論の場には蔓延している。社会の各所で無気味な地滑りが起きていると感じる。けれども、こうした危機感の深まりは同時に、これまで自分が享受してきた「平和」の実像を問いなおす契機でもあるのだと思う。そもそもガザ・ジェノサイドに極まる民族浄化をイスラエルが組織的に始めたのは、戦後秩序の指針として世界人権宣言が公布された1948年のことである。また日本国には、占領の終了する1952年4月28日が米軍に売り渡された「屈辱の日」として記憶されている地――沖縄があり、この屈辱を中心部日本国民はいまも政官民一体で軍事要塞化を強いる暴力により島民に与えつづけている。戦争の土壌となる植民地主義やレイシズム(人種主義)が、そうした場所では戦後を通じて一度も過ぎ去ったことはない。「被抑圧者の伝統は、私たちの生きる「例外状態」が通常であることを教える」(ベンヤミン)。そのことを覚えるとき、片柳先生が講演のなかでジイド『贋金つくり』の救命ボートに近代の先進諸国を譬えられたこと、また三人のシンポジストによる発題もこの社会で弱くされ、周縁化され、ヴァルネラブル(無防備)にされた他者との共生をそれぞれに呼びかけるものであったことには偶然ではない意味があると感じた。戦後を終わらせるような反転への抗いは、マジョリティの看過する不正義により平和と尊厳を現に奪われている者の声を自分自身への問いかけとして受け止めることと一つでなければならない。そのような他者への責任に私たち、社会の構成員一人ひとりを目覚めさせうるものは何なのか、修養会の日から考えている。(京都大学大学院博士課程 日本基督教団 北白川教会員)