戦後70年と上原良司(2015年7号)〜牧野 信次

「死者は記憶されることで生きる」(「新版 きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記」岩波文庫から)

戦後70年の夏が過ぎ去った。私は共助会夏期信仰修養会に参加した後、8月中旬に長年の念願であった、長野県安曇野池田町の『上原良司』記念モニュメントや生家跡また彼が育った有明病院などを心静かに訪ねる機会を得た。上原良司とは前掲書の冒頭に載る遺書「所感」を死の前夜に書き遺し、特攻で沖縄の海に逝った青年学徒である。彼の略歴は以下の通り。1922(大正11)年9月27日生。長野県北安曇郡池田町鵜山(旧七貴村)出身。松本中学校卒業後、慶應義塾大学予科を経て、1943(昭和18)年経済学部入学。同年12月1日松本歩兵第50連隊に入隊。1945(昭和20)年5月11日陸軍特別攻撃隊員として、沖縄嘉手納沖の米機動部隊に突入戦死。陸軍大尉(二階級特進)。22歳。

50数年前の学生時代から上原良司について知り、戦争という人間の理不尽な行為に直面して死に向かっていく地上の最後の時まで、彼がいかに生き悩み考え抜いたのか、その生き様と生の軌跡をなお正しく真実に知りたいと、私はずっと願ってきたのである。豊科や穂高はこれまで度々行ったことがあるが、穂高川と高瀬川を越えて向こう側の丘の中腹を訪れたのは今回が初めてで、パノラマとして北アルプス連山と安曇野の緑地を遙かに見渡す美しい丘の斜面に、上原良司を記念するアーチ型のモダンなモニュメント

が立っていた。彼の妹、上原清子の筆跡で以下の言葉が毛筆で彫られていた。

きけ わだつみのこえ/自由の勝利は明白なことだと思います/明日は自由主義者が一人この世から去っていきます/唯願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです/上原良司

隣接する「建立の趣意」に、「その多くの戦没者の思いを代弁したともいうべき、突撃前夜に上原良司が書き残した『所感』の一節をここに刻み、そのメッセージを次世代に伝えるべく生誕地・池田町にこの碑を建立する」と書かれてあった。その「所感」の最後に上原良司が自らのことを記した「彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」の一句があり、自国の敗北を予知しつつ軍国主義国家の中にあっても本来の自分自身の生き様を見失うことなく全うし、自らの死に様を確立させたのだと思われる。出撃の朝、母から貰った煙草の1本を最後まで残しておいて吸い、空き箱の裏に次の歌を記した。死後母親の許へ空き箱は届けられた。

出撃の朝の楽しき一服はわがたらちねの賜いしものなり
(2015年8月31日記す)