絶望に抗う 一之瀬ちひろ

5月からはじまった「エチカの会(注1)」は、日本と世界、東アジアの政治、社会、思想、文化など、人間に関わる物事についての問題意識を語り合うための勉強会で、このところロシアによるウクライナ侵攻についての議論が続いている。「エチカの会」に参加することは、私にとって、主語が途方もなく大きく感じられ個人の気持ちが薄れてしまいそうになる問題を、自分の日々へとつなぐための大切な時間になっている。

9月の「エチカの会」に参加した翌日、彩の国さいたま芸術劇場に演劇集団マームとジプシーの公演『cocoon』を観に行った。『cocoon』は、死者24万人と言われる1945年の沖縄戦に動員されたひめゆり学徒隊に着想を得た漫画を原作に、戦争で変化する少女たちの日常を、史実とフィクションを交えながら描いた劇だ。お芝居の前半、にぎやかな学校生活を送る少女ちのたわいのない日常会話のやり取りにはじまり、物語が進むにつれ、彼女たちを取り巻く状況は少しずつ地上戦へと向かっていった。しまいには始終爆音が鳴り響き白煙が立ち上る戦場に、目の前で友人の腕が捥げて身体が砕けちる地獄に、彼女たちは置かれることになった。

物語のなかで、1945年の沖縄が舞台であることが明確に語られることはなく、少女たちが流行りのリップをプレゼントしあったり、髪の毛をきれいにブローする方法を教え合ったりするその会話の端々に聞こえてくるカタカナの固有名詞を聞いていると、物語の舞台はもしかしたら私が今生きている2022年現在であるのかもしれないとも感じられた。戦争に向かっていく時間のなかで少女たちは可愛らしい会話のやり取りをずっと続け、物語は直線的な時間で進んではいかずに、舞台のうえで螺旋を描くように時間が旋回した。舞台を目で追いながら、現代に通じる固有名詞の使用やこの繰り返される時間の演出は、現実のものとは思われない過剰な理不尽さの状況をあらわすための仕掛なのかもしれない、と思った。舞台上で同じ出来事が繰り返されるごとに、その出来事の過剰さが強調されていくように感じ、これも劇作家が1945年と2022年を接続させるために施した工夫なのかもしれないとも思ったが、それよりも途中から、私は涙が止まらなくなり、お芝居の演出上の技巧や創意について考える余裕がなくなった。

2022年2月以降、新聞はほぼ毎日、ウクライナの悲惨な情勢を大きな見出しで報じ続け、もうすぐそれも9か月になる。悲惨な記事に目を通すことが常態化し始めている。たとえば、このあいだの日曜日、遅めの朝食を家族と食べ始め、コーヒーを片手に手に取った朝刊の一面には「林の陰 番号だけの十字架」という見出しとともに、急ごしらえの木材の十字架がいくつも刺さる林のなかの墓地の写真が掲載されていた。2022年9月11日に、約5か月にわたるロシア軍の占領から奪還が宣言れたウクライナ北東部州の要衝イジュームで、民間人が埋められた集団墓地が見つかった。ロシアの侵攻前のイジュームの人口は約4万5千人だったが、ロシア軍の占領下で少なくとも1千人が死亡したという。「140」「275」「339」民間墓地の十字架に記されているのは、番号だけ。この街で営んだ人生の証は何も残されていなかった、と記事は続く。その朝私が手にした新聞には、そのほか「ロシアが戦争犯罪」と題され「16の町や集落で処刑が行われ、犠牲者は後ろ手に縛られたうえ、頭には銃創があり、のどが切り裂かれるなど、共通する痕跡があったという」と書かれた記事もあった。毎日凄惨な記事に触れ、それでも家族と自分のいるここで平穏に日常を過ごしている。食事をしながら目を通す新聞の記事に、涙を流すということはない。「マウリポリ制圧」といった記事を横目に。だんだんと、何かが決定的に麻痺していく感覚がある。ウクライナで起こっている砲撃を自分の日常の感覚そのままには引き受けることができず、情報として処理されていく人間の破壊に対して、感情が閉鎖する。『cocoon』を観ながら私が感じたのはきっとその恐ろしさだし、お芝居をみながら流れた涙は、たぶんニュースを見ながらほんとうはいつも堰き止めていた涙だったのかもしれない。

少し前の「エチカの会」では、ロシアのウクライナ侵攻とNATOの東方拡大について議論された。それから、ウクライナ侵攻に対する日本の報道にも一定の偏りがあることも議論された。これらの背後にあるのは、アメリカ、あるいは西欧を中心とした国際秩序という考え方だ。

第二次世界大戦後のドイツのニュルンベルク裁判のあとの1950年、国連は⑴ 平和に対する罪、⑵ 戦争犯罪、⑶ 人道に対する罪、を国際法上の犯罪として処罰されるものとしたニュルンベルク原則をつくり、1954年の〈人類の平和と安全に対する犯罪の法典案〉には、責任を有する個人が処罰されるべき国際法上の犯罪とみなされる〈人類の平和と安全に対する罪〉のなかに、平和に対する罪に該当する侵略行為やその威嚇、人道に対する罪に該当する行為、戦争の法規および慣例に違反する行為も列挙した。この法規に照らせば、今回のロシアのウクライナ侵攻は、明らかに国際法違反だ。

でも、戦後に国際法を違反したことがあるのはロシアだけではない。ブッシュ政権時のアメリカは、アフガニスタンとイラクに対して、国際憲章では禁止されている先制攻撃をしたし、他国に対して強制的に政権交代を求め、政治的統治を行おうとした。国際法は国内法と違って、法を守らせるための権力機構がなく、国際法に違反しても逮捕されたり処罰されたりすることがない。もし国際法の違反があったときに、何かしらの権力組織が逮捕や処罰で違反を鎮圧するとしたら、その組織は地球上で唯一絶対の権力を持つことになる。つまり、別の言い方をすれば、暴力を一箇所に独占させることになる。イラク戦争時のアメリカの行為は国際法を無視したものだった。今回、ロシアのウクライナ侵攻を受けて岸田総理は「ロシアの蛮行を認めぬ」とか「ウクライナからの難民を受け入れる」と発言しているけれど、イラク戦争のときに日本の首相は「アメリカの蛮行を認めぬ」とか「イラクの難民を受け入れる」とは言わなかった。こうやって過去に照らしてみれば、世界はアメリカを唯一無二の国とする国際秩序を西欧諸国が共犯的に共有することによって回っている、という世界地図が浮かび上がってくる。そして日本は、このアメリカを中心とした国際秩序の世界地図に依存し、日本の報道や世論もその渦に呑み込まれている。

現在国連やG7は制裁決議をしているけれど、だからといって、地球上に絶対的な暴力を存在させないのなら、国連やG7がこの地球上において唯一支配的な権力を独占的に保持しているわけではないのだし、絶え間なくウクライナに武器を供給する欧米諸国の姿を見ていると、ほんとうにこれでいいのだろうかという疑問が湧く。ウクライナに住む人々が、国際秩序と引き換えに、彼らの住む土地を戦場にすることを求めているわけがない。アメリカや西欧の宗主国を中心とする国際秩序だけが、この世界の絶対的な物語のはずがない、と考えてしまう。大きな世界地図には、ローカルな文脈とそこで生まれる編み目のような関係性に対する想像力が欠如している。ひとつの権力やひとつの知のあり方を強制し、その外部に追いやられた声を抑圧してしまう現在のシステムには、なにかしら決定的な限界があるように思う。小さな身体で、できごとのただなかに放り込まれ、自分のいる場所を歴史的に俯瞰視するような視点を持つこともできず、ただ不安と焦燥と肉体的な痛みに駆られて、全身で生きるしかなかった1945年の沖縄の少女たちや2022年のウクライナの住民たちと、まるで虚構としか思えない君主間の権力ゲームで成り立つ国際秩序のあいだにある深い溝を、どうしたら埋めることができるのだろう。

雑誌『世界』4月臨時増刊号に栗田禎子氏が寄せた文章のなかで、ケニア国連大使マーティン・キマニ氏の発言が紹介されていた。わたしはそれをノートに書き留め、そしてときどき思い出す。キマニ氏は、2022年2月の国連安保理において、次のように発言したという。キアニ氏は、ウクライナとロシアの紛争の瀬戸際で、ケニアは外交にチャンスを与えることを主張したが、その訴えに注意を払われることはなく、国際紛争を平和的手段で解決しようとする国連憲章の規定が深く損なわれたことを挙げ、この状況はアフリカの歴史と響き合うものだという。ケニアやほとんど全てのアフリカの国の国境線はそこに暮らすひとびと自身ではなく、植民地宗主国によって切り裂かれる形で引かれ、だから今日どのアフリカの国境にも、それを挟んで、深い歴史的、文化的、言語的絆で結ばれた同胞が住んでいる。独立に際して、もしアフリカに住むひとびとが旧来のエスニシティ(注2)、人種、あるいは宗教面での同質性を基礎とする国家をめざすことを選んでいたら、何十年経った今も、血なまぐさい戦争を繰り広げていただろう。その代わりにアフリカは、制定された国境線を受け入れて、それでもなお全大陸的な政治的、経済的、法的な統一を目指そうと合意したのであり、「危険なノスタルジーにふけって永遠に歴史をふりかえり続ける諸国家を形成するのではなく、私たちは私たちのどの諸国家も諸人民も知らなかったような偉大さをめざすことを選んだのです」。

このように話すキマニ氏の言葉には、人為的にひかれた国境線が非線形的に複層的に塗り替えられ続ける大きな世界地図のうえの不当を乗り越えて、あたらしくこの地に現れた小さな結び目から、あたらしい意味と価値が湧き出してくることを迎え入れようとする姿勢がある、とわたしは思う。そして、これは絶望への抵抗なのだと思う。今ニュースが報道している世界秩序、今見えている世界のありさまは、私たちに残された唯一の選択肢ではない。戦争を嫌う気持ち、暴力なしで問題を解決したいと願う気持ち、命の危険を感じることなく平和に生きていきたいと願う気持ち、多くのひとが抱えているこれらの気持ちを忘れずにいたい。

( 注1)「エチカの会」は、18年間つづいた「思想・良心・信教の自由研究会」を引きついで、牧師の飯島信さん、哲学者の高橋哲哉さんらを中心として、立ち上げられた会。会の趣旨は、人間に関わる物事の全般にわたってお互いの問題意識を語り合うこと、活動内容は各自の問題意識に沿った発表とそれをめぐる議論をすること。

(注2)エスニシティは、直訳すれば「民族性」。共通の出自・慣習・言語・地域・宗教・身体特徴などによって個人が特定の集団に帰属していること。しかし人間の移動が世界規模で生じている現代において、ひとびとの帰属意識を、たんに特定の民族集団内で成立する固定的なものとする考えは、もはや未熟なものに感じられる。他方、ひとびとのアイデンティティのありかたを、特定の民族や政治的境界を越えて、複数の個の交流や相互行為のなかで捉えようとする動きが生まれている。たとえば、作家・多和田葉子の小説『地球にちりばめられて』は、個人を旧来の「国民」や人種や母語に結びつける支配的な観念から解放され、あたらしい仲間とアイデンティティを築くことの可能性を感じさせてくれる小説です。

著者紹介

写真家。写真集『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』( フリークス)『遠まわりする計画』( 平和紙業) など。東京大学大学院博士課程在籍。