あなたの飼い葉桶の中に 朴 大信

ルカによる福音書2:1~7

ヨハネによる福音書15:13~16a

あるクリスマス物語

一つの物語をご紹介したいと思います(「小さな飼い葉桶の前で」・ドイツのクリスマス童話より)。

小さな坊やは、木彫りの上手なおじいちゃんのことがとても自慢でした。何でもない木切れから、生きている人形がだんだん出来上がってくるのを見るのは本当に好きです。ある時、おじいちゃんがクリスマスの人形を作っている間に、坊やは木彫り人形の世界に入り込んでしまいました。そして、羊飼いや学者たちと一緒に動物たちのいる小屋を訪ね、飼い葉桶の中の赤ちゃんの前に立ちました。

すると坊やは気付いたのです。「赤ちゃんの手は空っぽだ!みんな何か持っているのに、赤ちゃんだけは何も持っていない。」びっくりして坊やは言いました。「ぼく、君に一番いいものをあげるよ。新しい自転車にしようか。……そうだ、電気で動く鉄道セットにしよう。」その赤ちゃんは、にっこり笑って言いました。「ぼく、鉄道セットはいらないよ。それより、君のこの間のテストをちょうだい。」坊やは驚きました。「だって、あんなの……〝やりなおし〟って書いてあるんだよ。」「だから、欲しいんだよ。」と飼い葉桶に寝ている赤ちゃんのイエス様は言いました。「ぼくは、君の〝やりなおし〟が全部欲しいんだ。そのために生まれてきたんだから。」

「それから、もっと欲しいものがあるんだけどなぁ」と、赤ちゃんは言いました。「君のミルクコップなんだ。」坊やは悲しくなりました。「ぼくのミルクコップ?…だって、あれ、壊れちゃったよ。」「だから欲しいんだよ。」ちっちゃなイエス様は言いました。「壊れたものは何でも持っておいで。ぼくがなおしてあげる。」

「もう一つ、欲しいものがあるんだけど。」赤ちゃんは、また坊やに言いました。「あのコップが割れたとき、君がお母さんに言った言葉が欲しいんだよ。」坊やは泣き出して、しゃくり上げながら言いました。「あのとき、ぼく、うそついちゃった。ぼく、お母さんにわざとやったんじゃないって言ったけど、本当は怒ってコップを投げたら、割れちゃったんだ。」「その言葉がほしかったんだよ。」と赤ちゃんのイエス様は言いました。

「君が怒ったり、うそをついたり、いばったり、こそこそしたりしたときには、ぼくのところにおいで。君をゆるして、そうじゃないようにしてあげるから。そのために、ぼくは生まれたんだよ。」

そして、赤ちゃんは坊やににっこり笑いかけました。坊やはじっと見つめ、じっと耳を傾け、びっくりしていました。ここに三つの「欲しい」がありました。「君のやり直しが全部欲しい」。百点のテストもいいけれど、私たちが人生で経験した失敗や過ち、隠したい恥を、むしろイエス様は見つめておられます。「壊れたミルクコップが欲しい」。主イエスは、私たちの傷ついた心や引き裂かれた魂の苦しみもご存知でいてくださいます。だからその破れに手を触れて、癒してくださいます。そして、「コップが割れたとき、君がお母さんに言った言葉が欲しい」。主は私たちの嘘を見抜いておられます。偽らざるを得なかった弱さや葛藤、罪深さも知っておられる。否、そもそもなぜコップを投げてしまったか、そのやるせなさまでも心に留めてくださいます。

だからこそ、それら全てを一人で抱え込まないで、信頼して明け渡す素直さを、主は私たちに求められます。惨めな思いを抱えながらも、それをどこかで隠したり誤魔化したりしながら生きている私たちを、深く憐れんでくださるのです。

救い主の居場所

ルカによる福音書2章から、共に御言葉が与えられました。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6~7節)。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。ある人が、この7節最後の一文を次のように訳しました。「宿の中には、彼らの居場所がなかった」。「泊まる場所」が「居場所」と訳されるのです。しかしこれは、ヨセフとマリアの居場所だけではありません。誰より、マリアのお腹の中にいるキリストにとっても居場所がなかったということに外なりません。人々が自分の泊まる居場所だけを求めた結果、神の子イエス・キリストは居場所を失ったのです。

居場所がない。それはまた、ただこの時、安全に生まれるための居心地の良い場所がなかったという意味には留まらないでしょう。時の権力者による「住民登録」令のために危険な長旅を強いられたこと、宿屋の主人からは拒まれ、さらには世の誰の目にも留まらず、誰からも歓迎を受けることがなかった現実をも指します。繋がりが絶たれた現実。心が通い合い、魂が触れ合う愛の交わりというものが枯渇し、うわべだけの義理が充満する空しい世界。そうした冷え込んだ世相が極まってゆく現実です。

こうしてみると、キリストの誕生という、間違いなく喜ばしいはずのクリスマスの出来事は、決して美しいものではありませんでした。キリストがこの地上で生を受けられた時、そこに安らかな居場所などありませんでした。その結果が、あの馬小屋で生まれたという事実です。布にくるまって、飼い葉桶に寝かされたあの姿です。

皮肉を言えば、本来家畜の餌を入れるためのこの薄汚い「飼い葉桶」が、キリストにとって最初の居場所となってしまったということです。けれどもこの皮肉は、実はキリストの方が、その場所をかけがえのない自らの居場所としてくださったという、逆説の真実を示す出来事ではなかっただろうか。そう思えてなりません。言い換えれば、父なる神が、御子イエスをこの地上に遣わされる時に、あえてこのような場所を選ばれたということです。もちろんこの出来事は、一方ではどこまでも、私たち人間の身勝手さがもたらした結末によるものでありましょう。しかし神は、そのような人が造り出す暗闇の現実のただ中で、ご自身の真実を貫いて働かれるのです。

あなたの飼い葉桶の中に

私たちの中にも、ひっそりと浮かぶ「飼い葉桶」がないでしょうか。それは例えば、私たちの心に、ポカンと穴が空いてしまったような孤独感や無力感。虚無感。冒頭の物語に重ねるなら、人生におけるテスト(試練)でやり直しだらけの惨めさ、悲しみ、悔しさ。まるでコップが割れてしまったように、身も心もズタズタに裂かれてしまった傷。そしてその傷を必死に覆い隠そうとする嘘、偽り。あるいは強がり。にもかかわらずそうした取り繕いも甲斐なく、なおも内に押し寄せる空しさの波……。

このような、ボロボロとなった一人一人の貧しい飼い葉桶に、しかしキリストは自らの居場所を定めて生まれてくださった。訪れてくださった。私たちと出会ってくださった! つまり、キリストがこの私という存在の中に居場所を見出して、共にあり続けてくださるという出来事。それがクリスマスの一角に輝く確かな真実であるなら、いったい、それは私たちにどんなリアリティを与えてくれるものなのでしょうか。別の言い方をすれば、キリスト共にある真実は、私たちのアイデンティティ、すなわち私が私であり続けるという現実に、どんな変化を、あるいは決定的な祝福をもたらすのでしょうか。

昨年、認知症医療の第一人者と言われた、医師の長谷川和夫さんが亡くなりました。かつて「痴呆」と呼んでいたものを、「認知症」と呼び変えることに貢献した人としても知られています。けれども、何より長谷川さん自身が晩年に認知症となり、それを公表した人物として知られています。その長谷川さんが、かつて私が学んだ神学校に講演でいらした時に、ある一冊の本を紹介してくださいました。英語の原題で、“Who Will I Be When IDie? ”、日本語では『私は死ぬとき誰であるのか』という題名で出された本です。著者はクリスティーン・ボーデンという人で、彼女は1995年、46歳の時にアルツハイマー病の診断を受けました。その本人が、当事者として自分の中で実際に何が起きているのか、また、この病の対処法や望ましい支援のあり方はどのようなものなのか、そんなことをこの本で伝えています。大きな反響を呼びました。その後1999年に、彼女は再婚して今度はクリスティーン・ブライデンという名で二冊目の本を出しますが、そのタイトルは、『私は私になっていく』というものでした。

これらの著書の中で、彼女は次のように語ります。「認知症の人は、それぞれが、かつて自分を定義した複雑な認知の表層や、人生を経験する中で創られた感情のもつれから離れて、むしろ自分の存在の中心へ、人生の真の意味を与える魂の核に向かって進んでいく旅の途上にある。この旅を支えてください」。

何が言われているのでしょうか。認知という機能をはぎ取られ、感情も次第に大混乱に陥ってしまう末に、死に至るとまで言われるこの病の中で、しかし彼女は、「私は死ぬとき何者であるのか」という究極のアイデンティティを探し始めました。この自分がだんだん自分でなくなっていってしまうような恐れに、どれだけ身を震わせたことでしょうか。底なしの虚しさに打ちひしがれる日々がどんなに続いたことでしょうか。

しかし彼女はやがて、本当の自分を「魂の核」と呼ぶものの中に見るようになりました。それを彼女は、「霊性(spirituality)」とも呼びます。そして続けて言うのです。「霊性とは、自分を超越した神と繋がる部分である。私は、たとえ自分が神を覚えていられなくなっても、神に知られ、神に支えられている『私』であり、『キリストのからだ』なる教会において隣人に記憶されている『私』なのである」。

もしも自分が神を忘れ、家族をも忘れ、否、自分の名前さえ分からなくなって、自分ではもはや何も知ることができなくなるような仕方で死を迎えたとしても、しかし彼女は、それですべてが空しく消え去ってしまうのではないことを悟ります。まさにそこで、神が、この私を知っていてくださるからです。この私を捕え、私の名を呼んでくださるからです。そして、キリストという同じ一つの体に結ばれた教会の仲間たちもまた、私を覚えていてくれるからです。

その確かさの中でこそ、私は私でいられる。もしもこの私というものが、自分一人が認識し得る限りにおいてのみ成立する存在に過ぎないならば、その肝心の認識という機能が失われた時、いったい私は何をもって私であり続けることができるのだろうか。しかしまさにそこで、自分の内側では何もかもが不確かさでいっぱいでありながら、私をはるかに超える確かな存在が、仲間が、この私を知っていてくれるのです。知られている恵みの中で、この私は、失われることなく、損なわれることなく、愛された姿で、私であり続けることができる。この私という命を新しく生き始めることができる。

このようにして、彼女は自分のアイデンティティ、自分という存在の尊さを受け取り直してゆくことになります。だから彼女はこう結びます。「1995年にアルツハイマー病の診断を受け、その病で死ぬときに私は誰になっていくのだろうと自問し始めてから、私は毎日をいかに前向きに生きるかを学ぶ、長い旅を続けて来た。そして今、私はずっと、私であるだろうと気づいた。それは永遠なる自己、魂としての私である。私の魂が私なのであり、常に私であり続けるだろう。病によって踏みにじられてもなお、私の魂は損なわれることなく、神が私の中で働くための第一の拠り所として、あり続けるだろう。神が本当の私である魂をご覧になることを確信しているから、私は尊厳を持って、この病を生き抜いていける。……私は……神の栄光を私の中に見出す道を歩んでいく」。

命を捨てて友となられたキリスト

失われゆくアイデンティティの危機のただ中でクリスティーンが出会った神。信じた神。否、彼女をいかなる時も捕え続けておられた神は、今ここにいる私たち一人ひとりをも知っていてくださる神に外なりません。その神自身が、私たちの中で働くために、第一の拠り所、居場所としてくださる所がある。それは、いかなるものに踏みにじられてもなお、損なわれることのない「魂」、「霊性」だと彼女は証言します。そしてこの「魂」と「霊性」は、自分を超越した神と繋がる部分だとも言います。自分の内にありながら、しかし自分自身では満たすことのできない、存在の核と言っても良い。ここが満たされなければ、生きる本当の意味も喜びも知ることができないとさえ言える、そんな、絶えず呻き声をあげている霊的な場所。私たちのあらゆる心の飼葉桶の、その貧しさのど真ん中に埋め込まれている、神との出会いの場所です。

そこに神ご自身が会いに来てくださいました。栄光に輝く天の神が、貧しくなってこの地上に訪れてくださったのです。どこまでも低く、どこまでも深く降りて来られた。今、ここに生きるあなたを愛で満たすために。あなたを愛の交わりに連れ戻し、再び愛の呼吸の中で生かすために。もう一人ぼっちにはさせない。独りよがりにもさせない。この、神の強いご決意の表れが、飼い葉桶に寝かされたキリスト誕生の出来事となりました。実にクリスマスは、神がそのようにして私たち一人一人を探し出し、出会うための旅の始まりなのです。

この神のご計画は、本当にただならぬものでした。その御心は、キリストの十字架に結実しました。あの十字架上で極みを見ました。十字架にかかられる前、キリストはこう仰いました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

この選びは、私たちに対する、文字通り命を懸けた約束でした。だからキリストは、この時こうも仰ったのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同13節)。いったい誰が、このような教えを易々と実行できるでしょうか。しかし誰よりキリストが、まず私たちの友となってくださいました。ご自身の命を捨てるほどに、私たちを愛し抜いてくださいました。飢え渇いた魂を愛でいっぱいに満たしてくださいました。この十字架の愛が、クリスマスの輝きを根っこから支えるのです。

今宵、これほどのお方が、飼い葉桶にお生まれになりました。クリスマスおめでとうございます。イエス様、お誕生おめでとう。そしてみんな、おめでとう。

(2022年12月26日 松本東教会牧師)