寄稿

シンガポール最初の日本人山本音吉(英国名:ジョン・M・オトソン)(1819―1867)伊藤世里江

【シンガポール便り2回目】

みなさんは、世界最初の日本語聖書が、あの有名なハジマリニ カシコイモノ ゴザル で始まる「ヨハネ福音の伝」であり、ドイツ人宣教師ギュッツラフによるものであること、また、その翻訳に日本人の漂流民がかかわっていたことは聞いたことがあるかと思います。

三浦綾子さんの小説『海嶺』のモデルにもなった3人の漂流民と聖書翻訳の不思議なめぐりあわせです。

3人の漂流民の一人、音吉は晩年に当時の妻であったシンガポール人女性の故郷に移住し、亡くなる前の5年間をシンガポールで過ごしました。江戸時代末期のことです。音吉はシンガポールに移住した最初の日本人として、今もシンガポール日本人会で覚えられています。

●世界最初の和訳聖書はシンガポールで印刷された

「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル コノカシコイモノワ ゴクラク ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」

これは世界で最初の和訳聖書「ヨハネ福音の伝」冒頭の部分として有名です。ギュッツラフと3人の漂流民たちが1年をかけて訳したヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、マカオで翻訳された後、1837年にシンガポールで1690冊印刷されました。木版刷りと日本聖書協会ホームページにありますから、1690冊の印刷と製本もたいへんな労苦だったことが想像されます。現存するのは16冊だそうです。

抽象的な概念の多いヨハネによる福音書を、日本語に訳すことはどんなに難解な作業であったことでしょうか。こうして苦労して翻訳され、印刷された最初の和訳聖書でしたが、1837年(天保8年)当時、日本は厳しいキリシタン禁教令と外国船打ち払い令が敷かれている鎖国の時代でした。聖書を載せていることがわかれば、日本への上陸を拒まれると判断したギュッツラフらは、泣く泣く印刷した聖書をシンガポールの印刷所に残すしかありませんでした。にもかかわらず、彼らの乗船したモリソン号は、日本からの砲弾を浴び、江戸への上陸は叶わず、失意のうちに、彼らはマカオに戻ったのでした。

●音吉のその後

マカオに戻った漂流民たちは、しかし、その後も生き続けなければなりませんでした。

音吉は船員として、アメリカに行ったり、イギリスの商船や軍艦にも乗り働きました。その後、1843年、上海に定住し、ジョン・オトソンと名乗り、デント商会という商社に就職し、財をなしていきます。この頃から日本人漂流民を援助する活動を始めた記録があります。イギリス人女性と結婚し、女の子が生まれますが、妻も娘も早くに亡くします。

音吉は、悲しみの中にあっても、日本人漂流民を助ける働きを自分のライフワークとして続けました。

1849年には、通訳として、浦賀に行き、中国名、林阿多(リンアトウ)と名乗っていました。音吉は日本上陸が叶わなかった経験から、日本人と思われることを避けたのでしょうか。写真はその時、日本人画家が音吉をスケッチした貴重な画像です

音吉はその後も通訳として、長崎での日英通商条約の締結にも協力した記録があります。ここで福沢諭吉にも対面し、後にシンガポールで福沢諭吉と再会し、諭吉が記した「西航記」に音吉の数奇な人生について紹介されていて、音吉を知る貴重な資料となっています。そこには、音吉がすでに中国の当時の政情についても詳しくなっており、中国をはじめとする国際状況を諭吉に伝えるために面会に来たことが記されています。

語学に堪能だった音吉は、国際人として江戸時代の末期にすでに活躍していたのです。

音吉は1852年再婚。その女性のふるさとであったシンガポールに1862年に移住します。音吉が福沢諭吉ら使節団を訪問したのは移住後、わずか10日後のことでした。音吉が亡くなった1867年の翌年、日本では明治政府がスタートしました。

●シンガポールに残された最初の和約聖書のその後シンガポールに残された和訳聖書はその後、どうなったのでしょうか? モリソン号がシンガポールを出発してから4年後の1941年(天保12年)、一人の若いアメリカ人医師が失意のうちに、シンガポールの印刷所を訪れます。船医でしたが、妻が乗船中に妊娠、流産し、急遽シンガポールに立ち寄ることになったのでした。若い医師ヘップバーン(日本ではヘボンと呼ばれる)をこの印刷所に案内したのは、後にその生涯をヘボンと共に日本語訳聖書の翻訳に人生を捧げることになるS・R・ブラウンでした。ブラウンからこの和訳聖書のいきさつを聞いたヘボンは深く心を動かされます。シンガポールの印刷所に眠る和訳聖書のことが、ヘボンの頭から離れなくなります。そして、ヘボン自身がまだ見ぬ日本に宣教師として行くという決断に至るのでした。23年の年月を経て、シンガポールの印刷所に眠っていた『ヨハネ福音の伝』は、1859年(安政6年)、ヘボンの手で、日本に上陸することができたのでした。

●音吉と日本人墓地

音吉の遺骨は、2005年にシンガポール日本人会の努力で発見され、音吉の故郷の愛知県知多郡美浜町にある山本家の墓地と、音吉が乗っていた宝順丸の犠牲者14名の墓のある良参寺、そして、シンガポール日本人墓地に分骨して埋葬されています。音吉は173年ぶりに故郷にやっと戻ることができました。

(シンガポール国際日本語教会牧師)