寄稿

在日3代史(3)宋富子

雨の日は、母はボロ買いに行けません。一日中家にいます。

ご飯は次女の初子姉(13歳)が支度します。ご飯ができるまで私と妹と母は一つの布団に川の字に寝て、朝鮮の本籍地から国歌、民謡を朝鮮語で教えてくれます。子どもたちが2歳頃から母はみんなに教えているのです。私はその時間が一番好きです。雨の日は妹と大はしゃぎします。

母は私と妹に朝鮮語で「ヤーヤーニーィーコヒャンオデニヤ(あなたたちの故郷はどこや?)と聞き、私と妹は元気よく「イエー慶尚南道(キョンサンナンド)八川群(ハチプチョングン)治路爐(ヤロメン)墨村里(モクチョンリ)」今は国歌ですが、当時はメロディーはホタルの光でした。歌の意味は「東海の水が乾いても、白須山の山がすり減っても、天の神様が助けて下さる私たちの国バンザイ ムクゲの花三千里美しい山河(テーハサラン テーハメロキリボジョナセ―!♬)

妹も歌が上手です。歌い終わると母は私と妹にお尻を交互に優しくたたいて「チャッカダー・ネーセッキ」(ナント可愛い賢い子や、私の子ども)と褒めてくれるのです。

母の性格は静かで寡黙です。母が一日中笑顔で朝鮮語を話し、嬉しそうな顔をする日は一年に三回、家が広いので村や遠くの八木の町の友達7人を呼んで手作りのカルグッス(手打ちうどん)を作って食べるのです。食べた後は私と妹が手を繋いで母に教えてもらった本籍から国歌、民謡のアリランとトラジを母の朝鮮語に応えて妹と大きい声で上手に歌うのです。アジメ(おばさん)たちは大拍手で50銭札をお駄賃にくれます。私と妹は駄菓子屋さんへ走ります。小学校に入学するまでの思い出は楽しいことばかりです。

小学校に入学するやクラスの友だちは私と話すのを避けている様子でした。ある朝、校長先生が、朝礼で登校は二列に並んでするようにと言われました。私の村は650世帯で明日香川を挟んで西と東に分かれていました。私のいた西は30世帯で、東の620世帯からは「川向う」と呼ばれていました。学校は畝傍(うねび)北小学校が指定校で西と東の村の子どもは鴨公(かもきみ)小学

校です。登校生徒は、私と私の兄と姉と隣りの子ども4人で合計7人です。7人だと少ないので淋しいです。1年生の私は計画を立てて田中地方から登校する20人ほどの子どもが2列に並んで来るので私は兄や姉を説得して20人の登校する生徒の前に立って右手を上げて頼みました。「ちょっと待ってんか?頼みあるねん。校長先生が2列に並んで登校しなさいって言わはったさかい、私たち7人で少ないし一緒に混ぜてくれへんか?」と大きい声で頼みました。

20人の子どもたちは一斉に足を止めましたが、私たちを白い眼で見て、一言もことばを話さないでみんな無視して知らん顔してスタスタ歩いて行ってしまいました。私は兄や姉に「兄ちゃん姉ちゃん、なんでみんな私と話しせえへんのや?」と聞いても兄や姉は黙っています。

段々私も少しずつ気が付いてきました。私たちの住んでいる村は被差別部落で軽蔑されていました。仕事は革靴を手作りで造っているか、野球のグローブを伝道ミシンで縫っていて村に入ると皮の匂いがプーンと鼻を突きます。そして私たちは日本人から嫌われている朝鮮人だからと気づいてきました。6歳で初めての被差別体験でした。私の性格は父にそっくりで天性の明るさと積極的、歌も大好きで得意です。音楽のテストの独唱の時間は聴いているクラスの人たちは皆、拍手してくれます。作文や詩もかくと必ず選ばれてみんなの前で立って読まされます。今日も詩が選ばれました。

今日は日曜日、お母ちゃんと藁草履をはいて麦踏みです。お母ちゃんと私は霜をかぶった麦をサクサクサクふみます。麦は芽があまり伸びないうちに踏むと強くなるそうです。お母ちゃんと並んで踏んでいると空からひばりが二羽下りてきて、私の前の所で二羽はチッチッチッと可愛い声で鳴きながらダンスをしているみたいに踊っています。ひばりと一緒に麦踏みしました。

私が一生懸命自分の描いた詩を読んでいたら、私の後ろの席の男の子が隣りの席の女の子にささやいています。「オイ廣田富子はチョン公だぞ、廣田の口はニンニク臭いぞー」ケラケラ笑っています。私に聞こえてきます。私の心臓は、ドキドキして破裂しそうです。作文や詩が選ばれたら〝朝鮮人と馬鹿にされる〟と段々分かってきました。私は詩も作文も書けなくなりました。図画も得意で風景を描いた絵が選ばれて教室の後ろに張り出されています。ある朝、私の絵の下の「ひろたとみこ」の名前にクレパスの赤でチョーセン人と落書きしてあったので私は女の先生に泣いて伝えましたが無視されました。私はクラスで一番しい小さくやせていて顔は日焼けして真っ黒です。クラスの人はかばんは皆、肩から掛けるカバンに学用品を入れて登校しますが、私の家は貧しいのでカバンの代わりに母の商売のボロから出る風呂敷に学用品を包んで登校します。今日は母が綺麗な新しい花柄の風呂敷を私にくれたので私は、もう嬉しくて仕方ありません。誰かに褒めてほしいのです。私の席は担任の女の先生の真向かいです。授業が終わって先生が座っています。私は先生に褒めてもらえると思って先生の前で学用品を包んだり、ほどいたり、早く先生が綺麗な風呂敷に気づいて褒めてくれないかと期待していたのですが、突然ヒステリックな大きな声で先生は「廣田さん!ええかげんにしなさい!」と怒鳴って怖い顔で私をにらんだのです。それからクラスが代わるまで私は先生の顔を見ませんでした。

初めて一年生の遠足にワクワクして行ってみんなと輪になって座ってお昼のお弁当を広げましたが、私のお弁当は中国で獲れた赤いコーリャンと麦飯です。おかずはキムチを洗って炒めただけです。友だちは皆、白いご飯に玉子焼きをはじめいろんなおかずが綺麗に並んでいます。私は初めて恥ずかしいと思いました。

みんなの一番楽しい運動会も私には地獄です。兄姉はみな、足が速く徒競走は一番で私はいくら頑張っても4番か5番です。学年全員の遊戯も地獄です。クラスの生徒は「廣田と手を繋いで遊戯するのは汚い」と誰も私と手を繋がないで指一本を出すのです。私は背が低いので父兄席が近いのです。私は恥ずかしいので真っ赤になって平気を装ってお遊戯をしますが恥ずかしくて心臓が潰れそうでした。

身体が大人のようなKさんは意地悪で私の姿を見つけると朝鮮人殺してやる! と言って追いかけてきて私を便所に閉じ込めて身体中を殴ります。「朝鮮人は人間のクズヤ死ね、死ね!と殴ります」。

当時はPTAの育友会のお金は120円でした。母に言うといつも「明日持って行け」です。クラス担任は「忘れた人は今日これから家に帰ってもらってきてください。」と言われます。家に帰っても母は夜まで帰りません。お金を持って行かないと学校に行けない私は、明日香川の土手に寝て日の暮れるまで好きな美空ひばりの歌を歌って気晴らしをしていました。

6年生の伊勢志摩への修学旅行は私も行きたいと思いました。クラス中が毎日「海が見られる海女さんと一緒に写真写す」と大騒ぎしてはしゃいでいます。でも私たちのために朝から夜まで思いリヤカーを引いてボロ買いをしている母にまとまった1200円を下さいはとても言えませんでした。2泊3日、みんなが帰って来るまで私は裏の宮の大きな楠の木に登って美空ひばりの歌ばかり大声で歌っていました。歌っていると明るい楽しい気持ちに不思議になるのです。

私は生きていくのが苦しくなって死のうと考えて線路の上に寝たり池に入りましたが、とても怖くて死ねません。池から出た私は制服がずぶ濡れです。母には「自転車で川にはまってん」と噓をつきます。母には「兄妹でお前だけや、川にはまってくるのは、しっかりせいアホー!」と怒鳴られます。

5年生のとき思い切って大決心して夜ご飯のあと、ははに「お母ちゃん頼みあるねん、お母ちゃん商売の帰り荷物いっぱい積んで友だちと大きい声で朝鮮語話してるけど、外歩いているとき朝鮮語で話さんといてな、うち学校で朝鮮人って辱められてんねんで!」と必死で頼みました。母はものすごい怖い顔で朝鮮語で怒って平手で私を殴りました。「なに! この子は、朝鮮人が朝鮮語を使うし、日本人が日本語使うんや、お前バカにした子、家に連れて来い、お母ちゃんがちゃんとけりをつけたる。あの日本人のためにうちの国は破壊したんや。日本人は皆、盗っ奴や! ああ汚い汚い日本人!」とつばをぺっと吐き出すのです。母のこんな怖い顔にびっくりしました。

私は母にこぼすのも、頼むのも諦めました。夜、母は静かに私に「富や、朝鮮の国は立派な国やで、日本人にバカにされても、バカにする日本人の心の方が恥ずかしいんやで、今夜からお母ちゃん朝鮮語の文字と言葉を教えたるさかいな覚えや」といいました。私は死んでもバカにされる朝鮮語なんか習わへんと心に決めて、お腹が痛いと嘘をついて一度も習いもせんでした。

母の一日の儲けは大体700円から800円で、夕飯の後小さい丸いお膳に私たち6人が座っていますと、母は今日は上機嫌で1750円も儲けたと言って、お膳にお金を出して私たち子どもに話します。「今日は遠い柏の森の村まで行ったら、村の入り口の家に大きい古い倉のある家に住んでるおばあさんは85歳やけど、何度かお母ちゃんに売ってくれた人でな、ええ人や。」そしてお母ちゃんにな「おばちゃん、今日は倉の物みな持って行き」というてな、皆売ってくれはったさかい儲かったんや、それでお母ちゃんのこと、東北の人かって聞かはったさかい「いえ私は朝鮮人です」と言ったらな、急に嬉しい顔しやはってな「柏の森の私らも皆、昔朝鮮の伽耶(カヤ)から来たんやで、私が来ているこの着物もな、祖国を棄てた私らが祖国の人と同じ着物では申し訳ないというてな、この膝を折って着る着物を着るようなったんやで、日本の着物の歴史を聞いているびっくりしたがな」

その時の私は学校で虐められて朝鮮人に生まれたことを恥しいと思っていたのであまり感動はしませんでした。でもなんや、不思議やなあーとは思っていました。

中学校に進学しました。いろんな地方から生徒が登校します。このお友だちは私のことを朝鮮人って知りません。がせん私は元気になりました。選挙で7票入って初めて美化委員に選ばれました。習字の班に入ると担当の先生が活発にしている私の姿を見て「廣田さん班長になって下さい」と言ってくれ、私は天にも昇る気持ちです。勉強も頑張ろうと決めました。私は割り算・掛け算ができなくて分数が出来ません。職員室に行って担任の田生先生に教えてもらおうと思い、私は職員室の前を行ったり来たり往復ばかりしました。どうしても職員室のドアを開ける勇気がありませんでした。

社会科の時間、私の顔を見るといつもにっこり笑って下さる森本先生ですが、その日は緊張した怖い顔をして黒板に「さあ~皆さん、今日は豊臣秀吉の朝鮮征伐について勉強します。」と言って大きく黒板に朝鮮征伐と書きました。36人の生徒は一斉に私の方をケラケラ見て、こそこそ笑っています。教科書の朝鮮を初めてみました。中国大陸にくっ付いている日本より小さい国、それが私の母の祖国だ。だから日本に馬鹿にされて笑われるのだ。

私たちは外国人だから仕方ないんだと諦めましたが、もう朝鮮人が嫌になり今日は絶対に池に入って死のうと考えて、橿原神宮の近くの深田池の傍でアベックの帰るのを待って暗くなって池に入りましたが、怖くなってまた笹を掴んで這い出して家に帰りました。夕飯を食べる気力もありませんでした。以後卒業するまで私は、朝鮮の文字がいつ現れて皆に笑われるかと思うと、怖くなり先生には「生理でお腹がいたいとか、気分が悪い」と言って仮病を使って、医務室で寝ていました。一度も社会の授業に出ませんでしたが、通信簿にはいつも3の数字が付いていました。数学・英語・理科は皆1です。

同じくしてもっと悲しいことは、14歳の時、市役所から「外国人登録申請証明書の案内」が来た時です。母が、印鑑と写真を写して役場に行って午前中に登録して午後から学校に行けと言いました。私はもう朝鮮から逃げられないと思うと、毎日が絶望です。写真屋さんの息子は同級生で、三日間夜眠れませんでした。同級生のお兄さんが写真を写して下さるのですが、私の頭の中は心配で心がいっぱいになり真っ直ぐに座れません。身体が斜めに向いて倒れそうになるのです。役所では中年の女性が担当で冷たく用紙に本籍と住所氏名を記入すると私に「左手の人差し指を出して」と言うので出すと、ギューと掴んで黒いインクの上にのせて私の指を半回転させました。私の人差し指の指紋は銀杏の葉のように広がりました。周りの役所の人はジロジロ見ていました。私は何か悪いことをして警察に捕まっているような惨めな気持ちになりました。「はい出来たで」と言って担当の女の人は証明書を私に手渡ししないで机の上に〝ポン〟と置きました。紺色で小さい外国人登録証明書には名前はなく手帳には横に堀り刻まれた数字がズラッと並んでいます。この数字が私の番号なんだ。私の家で飼っている犬も首輪に登録の数字が並んでいます。朝鮮人は外国人だから犬と同じ扱いをされるんだ。ポケットに入れた登録証明書は小さくて軽いけれど、私の心も身体もナマリを巻き付けられたように重く中学校に行く勇気は出ませんでした。私は暗くなるまで深田池のベンチに座っていました。

中学校を卒業して20歳まで22回仕事を転々としました。クラスで5人進学できない人がいました。就職は隣の高田市の丸まる加縫工所(かほうこうしょ)でした。そこはアメリカに輸出するワイシャツを作る工場で30人ほどの人が働いていました。同じ中学から友だち2人が就職しました。

最初の仕事はワイシャツへのアイロンがけでした。私は子どものときから山に登って松葉集め、マキ拾い、働くのには慣れています。1時間に皆は200枚ですが、私は400枚です。工場長が時計を持って測っていて驚きました。廣田さんは良く働く頑張り屋さんと言われ、3か月で、中卒8人の中でひとりミシンに昇格しました。

月給は1か月で3、750円です。全額母に渡すと、お昼のうどん代として1、500円もらいました。社会保険証ももらったので、奥歯が虫歯できになっていたので直ぐに歯医者に行って治療してホッとしました。

歯医者の先生は「歯は身体の入り口ですから大事にしてください」と優しく言ってくださいました。私はええ歯医者さんやなあーと感動しました。ある日、工場長から中卒の私たち8人が呼ばれました。日本紡績の工場で中学校を卒業した人が「働く喜び」という主題で作文を書いて選ばれた1人が日紡の講堂で800人の中で読み上げて発表するとのことで、みんな書くようにと言われました。私は作文は得意です。初めて働いて給料を貰った喜び、工場のために一生懸命働きたいと正直に書きました。結局私が1人選ばれて発表しました。800人の前に立つと頭がボーっとして心臓はどきどきしましたが暗記していたので無事に発表して工場長から「偉い」と誉められました。

翌日、いつもお昼は20円の素うどんを5人で食べに行って楽しくおしゃべりをしながら食べるのですが、その日は皆、黙ってサッサといってしまいました。私に嫉妬したので、意地悪をして仲間はずれにしたのです。午後一生懸命にミシンを踏んでいると、私の後ろでミシンを踏んでいる優しい先輩がミシンを止めて明るく素直に「廣田さんってアチラの人だったのね。同じ中学校から来たSさんが言ってたわよ。だから廣田さんは赤とか原色がよく似合うのよね」と言いました。私は慌てて「私は日本人よ。お母さんが商売の関係で朝鮮人と付き合っているだけよ。私は日本人よ。間違わんといて」と青くなって言いましたが、私はいきなり脳天を金槌でガーンと一撃されたようになって嘘をついてしまいました。先輩は意地悪で言っていないことは分かるのですが朝鮮人とバレたことがもう恥ずかしくていられませんでした。午後からおなかが痛いと工場長に言って作業服を風呂敷に包んで帰りました。朝鮮人とバレたら、もう耐えられませんでした。2週間働いていた給料を貰いに行く勇気がありませんでした。遠くに就職すると朝鮮人とバレないと考えて1時間半かかって大阪のテレビの部品工場や、2時間かかる大阪の御堂筋にあるそごうデパートの7階の紳士ズボン売り場に臨時工・マネキンで就職できました。先輩の様子を見て一生懸命覚えて売り上げは1番になりました。半年して、課長は2階の高級品売り場に行くようにと異動になりました。売り場には40歳のベテランの独身女性がいて私にもの凄く意地悪をします。私にお客さんを渡さないのです。

40分の昼休み、屋上でコーヒー牛乳とメロンパンとあんパン二つを食べながら私は何で見下され、馬鹿にされる朝鮮人に生まれたんだろう。今からでもいいからカラスでも、鳩でもいい、私の生命と取り替えたいと思っていました。私を朝鮮人に生んだ母を憎みました。

20歳の私の青春はまっ暗い虚無の青春でした。私は苦しさを忘れるために、庭の後ろの畑を耕して農家の人が畑に植えている菊の花やダリア、カンナ、コスモスを少しずつ失敬して庭に植えて「トミの花園」と言って毎日花の成長を見るのが唯一の楽しみでした。花だけが私の心を慰めてくれました。

(多文化共生をめざす川崎歴史ミュージアム設立委員会」代表 在日大韓基督教会 川崎教会員)