寄稿 青年の夕べ

私の問い ― 与えられた今をどう用いるか 光永 豊

今年は私にとって、人生の喜びと言える出来事がありました。かつての私なら、喜び一色で有頂天になっていたかも知れません。しかし、心の底から喜べないような気持ちもどこかにあります。私が今抱いている感情は、これまでの喜びとは異なっています。単純な喜びだけでは、処理できない悩みがあります。

私は今、ことばに対する困難を抱えています。分量の多い複雑な文章に触れ、会議などのディスカッションをする機会が増え、次第にことばへの困難を抱くようになりました。ことばが具体的なイメージに結びつかず、周囲の話についていけないことが、しばしばありました。ことばが複雑で分からないとき、話すスピードを落としてもらって、何度も聞き返しながらようやく理解します。会議ではICレコーダーを使わせてもらうことで、ことばの欠落を補いながら仕事をしています。本を読む時は、ことばの意味がすぐに入らず、同じ箇所を何度も読み返してしまいます。ことばの勘違い、ミスリードは日常茶飯事です。ことばを学ぼうとしたことがないので知識不足もありますが、単純にそれだけが原因とも思えません。ことばを読み取り、聞き取る時、単純なことばや簡単な単語を断片的に処理することはできても、複雑な文章や文脈になると、ことばをことばとが私にとってこんなに難しいものだったとは、思いもしませんでした。これを書いている間も、ことばを書いたり、消したり、切ったり、貼ったり、パソコンの画面上で、まるでパズルのようにことばの入れ替え、書き換えを繰り返しながら、自分に合うことばを探しています。

一昔前までは、ことばに悩むことなど微塵もありませんでした。何を聞いても、何を話しても、何とも思いませんでした。

国語なんて、文章の中にあることばを抜き出せばよいから勉強しなくていいや。物理的な暴力さえなければ、ことばなんて軽い。ことばなんて、ただの文字、ただの音、ただのツール。はっきりとことばに表してはいなかったものの、わたしのことばに対する意識は、そのようなものだったかも知れません。ことばによって人が傷つき、傷つけられることへの感覚を知らないまま、自らの内にある致命的な欠陥に気づき始めながら、何の努力もせずに、ただ一方的に恵まれ、与えられてしまった私。今の私にはそのような、後ろめたさがあります。私が今働いてい職場も、転職活動の末に与えられた職場です。自分はまだできるはずだ、自分はもっと大きな仕事ができるのだ、というの過信によって、与えられていた職場を飛び出し、転職活動を始めた末に辿り着いた職場です。転職活動では、筆記試験や適性試験で落ちるのが当たり前で、面接にすら辿り着けないことがほとんどでした。初めは自信に溢れていたはずが、次の行き先が決まらずに時が過ぎ去り、今の職場に最後の望みを賭けざるを得なくなりました。望みがほとんどなかったにも関わらず、選ばれたのは私でした。決して、私の努力によって得られたものではありません。とにかく大きな仕事をしたいという、無責任な祈りばかりを繰り返していた私に仕事が与えられ、喜びと同時に如何に自分が乏しい者であるかを知りました。祈ったとおりに与えられ、受け取った結果は、喜びと同時に躓きの連続でした。仕事をするのに足りうるだけの基礎がありませんでした。かつての私は無限の可能性をもつ人間だと思っていましたし、まだまだできると思っていました。いくら経験を積んでも、訓練しても簡単には変えられない、生まれつきの特性を抱えていたかも知れません。もしも私のことばの欠落によって誤解や混乱を生み出していたとしたら、申し訳ない気持ちです。自分より仕事ができる人、適任者がいるはずなのにと、何度思ったことかわかりません。ことばに対する困難を抱え、致命的な欠けを認識していながら、周囲の理解で受け入れられ、今も働かせていただいています。欠陥を知り、困難を抱えたまま、存在が許されています。困難を抱えながらも、自分の努力によらない経歴と経験をいただき、今こうして働く場を与えられているのだから、私は相当に恵まれすぎています。

 恵まれすぎているなら、もっと喜んでもいいのかも知れません。しかし私は今、素直に喜ぶことができません。恵まれすぎた故に求められることもあります。与えられれば、与えられただけで終わり、ではないことを知りました。かつての私は、ただすがって自分に都合の良い答えを求めることが信仰だと思

い込んでいました。今はもう、信じたら一方的に恵まれ続ける、何かをもらい続けるだけの、楽な生き方ができるようなものではなくなりました。私にとっての信仰は単なる心のよりどころではないし、一過性の高揚感に満たされることでもありません。むしろ信仰によって、苦悩も増えました。私が他者のために生きようとする動機は、まだ私の中で十分に育っているとは言えません。今の私にとって最も欠けているものは、他者に対する共感です。知識として、頭で認識しても、心がなかなか動きません。今の私がもしもこの世界で弱い立場に置かれている人に何かをするとしたら、それは私が恵まれてきたことへの申

し訳なさを紛らわせるためでしょう。それでは、本当に相手のことを想うことはできません。

私はキリストに何をしたのか。そして、キリストは私に何をしてくださったのか。私はキリストから何を受け取り、どのように生きようとしているのか。私にとってこの世界、社会、他者のために生きることとキリストは、どのように繋がっているのか。聖書の中のキリストは、確かに弱さを抱えた人に寄り添われました。しかし、弱さを抱えた人に寄り添うだけがキリストに倣う生き方だとも、私には思えません。むしろ、その人の内にある願いをじっと見つめ、自らの足で立って歩くことをも促しているように見えます。弱さとの向き合い方が、私とはまるで異なっています。あなたはかつて弱かったが、今は与えられ、自分の足で立っている。今を用いよ。弱さを抱えた者が、弱さを抱える者のための担い手として求められていきます。だから、どんな喜びの中にあったとしても、逆にこれからどんな苦しみが訪れたとしても、私が今どこに立っているのかを冷静に見つめ、それでも与えられた今をどのように用いるのかを、問わざるを得ないのです。

キリストは他者のために惜しむことなく命を注いでいます。そんなキリストを見ると、私は恐ろしくなります。私は恵まれていると一方では言いながら、自分の所有しているものを必死に守ろうとし、更に求めようとします。どんなに自分の抱える困難を知り、恵まれすぎていることが分かっていても、手にした瞬間、落ちることや失うことが恐ろしくなります。常に何かを手元に置いておかないと、不安で仕方がなくなります。もしも私が本当に、この世界のために何かをしようとするなら、キリストに倣って生きると言うのなら、私は私の内に潜む心を、よく省みなければなりません。中途半端に踏み込んで、中途半端に投げ出さないために、私にできること、できないことを、冷静に見極めなければなりません。痛みを抱えながら、私のすべてを手放してすらも喜びと言えるような喜びは、どこにあるのでしょうか。感情に鈍く、共感することに乏しい私が、他者とともに共有できる喜びに巡り会えるのでしょうか。それでもなお私には、人生を共に歩む友が与えられました。与えられることに恐れを感じるぐらい、私は本当に恵まれています。独りよがりの幸せから抜け出さざるを得ない道を、歩もうとしています。

今日は12月14日。クリスマスの喜びを待ち望む、アドベントの季節です。クリスマスは、死者の中から復活した、救い主キリストの生誕を喜び祝う日です。後に私たちのために十字架にかかり、命を捨てられる方の生誕を祝う日です。

(東京神学大学職員、日本基督教団 橋本教会員)