【主題講演Ⅱ】奥田成孝先生の「ひとすじの道」 片柳榮一

1 奥田先生の生い立ちと森 明との出会い

奥田先生は1902年に、父奥田義人(東京市長、法学者)、母はや、兄一人、姉4人、弟一人の7人兄弟の6番目に生まれました。初等科より高等科まで学習院に学び、秩父宮の学友でした。

奥田先生が生きられた時代は、世界全体が行方を見失って右往左往し、結局二つの世界大戦に追い込まれて行くような中、その荒波をかぶった日本もどう動けばよいか、誰も定かな見通しを持てず慌てふためいていたと言えます。そのような日本社会の政治の中心部の苦悩を身近に感じながら、大人になっていったことが、『一筋の道』(日本基督教団北白川教会発行、2022年第二版)を通して知られます。先生は、そのような緊迫した政治の世界に入って行くことを自分の使命と漠然と感じていたことが行間に感じられます。 

遠縁にあたる谷岡貞子女子学院教諭の仲介で、中学4年生の頃、ミス・ミリケン先生に英語の家庭教師役をお引き受け願いました。そして奥田先生は、谷岡、ミリケン両先生を介して中渋谷教会の礼拝に参列し、牧師森 明に紹介されることになります。説教は「何か呻くようなすごいもののいい方ではなされたのが印象的であった」(『一筋の道』23頁)と記しているように、内容的にはよくわからなかったようです。その後2、3度礼拝にも出ましたが、家族の反キリスト的雰囲気に圧せられて、遠ざかり、その後内村の名を知り、内村の集会に出席するようになります。

ある時谷岡先生が森先生にお会いした時、「いつぞやの青年はその後どうしていますか。もしよかったら家に遊びに来てください」といって名刺を渡されたといいます。奥田先生は「この名刺を通しての呼びかけ」をきっかけとしてふたたび森 明のもとを訪ねることになります。奥田先生は、この名刺の呼びかけに深い思いを持ち、この自分の自伝的回顧を「一枚の名刺」と名づけようかとも思ったといっておられます。「随分しばしば足を運んだように思う」と述懐されているように、親しく先生から話をうかがうことを許されたようです。奥田先生は、森先生からうかがった話の内、最も印象的な話を次のように記しています。奥田先生が家族には隠して内村の集会に出ていることを知られた森先生は「奥田君、家の勘当くらいが怖いようではキリスト者にはなれないよ」(『一筋の道』33頁)と言われて、自分が洗礼を受けた時の話をされたといいます。森 明の異母兄二人の内、下の兄に英という人があり、森 明がキリスト教の洗礼を受けることは絶対に許さないと反対したのです。父の森 有礼が殺されたのはキリスト者であったからだとの噂がようやく鎮まってきたところなのに、その息子が洗礼を受けることになれば、その噂が事実であると思われることになるというのが主な理由でした。「それでは父に対してもお国に対しても申し訳ない。あなたがどうしても洗礼をうけるというなら刺し違えて死ぬ、という」(『一筋の道』33頁)。しかし森 明は刺し違えられて殺されてもよいと覚悟をした、といいます。母堂は植村正久先生を招いて家庭集会をされていましたが、それを聞いてえらい剣幕で英氏がやってきたが、植村先生の「武士道の精神はキリスト教によってただしくいかされる」との話にすっかり説得され、その後家庭集会に通い、やがて入信されたそうです。

このエピソードからも知られるキリスト教の内面的精神性が多感な奥田成孝の心を深くうったのだと思います。やがて奥田青年は大学を京都に定めて大正12年3月に立つことになりますが、その時森 明に奥田青年は洗礼を受けたいと申し出て、先生を喜ばせます。京都で大学生活を始めて初めの年の夏の休みに東京に帰り、一晩森先生と親しく語り合う夜を過ごした次の日が関東大震災の日となり、厳しい体験を奥田先生もされることになります。このような大きな災害の後、森 明はかねて企ていた京都訪問伝道を決行される。京都の友から「大震災を経た今日も変わらぬご意向なのだろうか」との問いに森は「なおさら行く」ということであったといいます。大震災に伴う無理や心労のために森は深く健康をそこない「すでに重き病の床にあられた。併し先生はそれでも京都伝道を願われた。遂に先生は汽車によらず、船によって神戸より京都に見へた有様であった。心臓と喘息は先生の主なるご病気であったと記憶する。伝道は11月4日と5日と二夜に亘った。第一は「基督伝研究における人生改造の問題と彼自身」と題して公開講演を試みられ喘息の御苦痛のため夜中殆ど眠らず、床の上に座して居らるゝ程であった。而も一度壇に立たるや実にその伝道は熱烈を極めたものであった」(北白川教会発行「奥田成孝先生共助誌掲載記事選集『一筋の道』を辿る」、2016年、12頁、以後『辿る』)。そして翌年大正13年6月京都共助会が少数の学生によって創設されます。この頃奥田先生は京都を去り、森先生のおられる東京に移り、場合によって神学校に入ろうと考えておられ、この年の冬、森先生にそのことを相談されます。「これから記す先生との会話は恐らくその年の暮、冬休みを迎えて上京した時のことであったと思われる。私は相変わらず早く京都を離れて東京に戻り先生の膝下で教導を受けたいとの意を語ったと思う。その日先生は病床におられたと記憶する。私の願いには何ら応えられず床の上から手を差し伸べて私の手を取らんとする如き態度で「奥田君お互い生涯キリストに真実に生きようではないか。君は共助会のために京都に留まってほしい。京都は気候のよくないところだ。君も健康的に頑健とは言えないが一年余りの生活を見ていて京都の気候に耐えられない程の健康とも思われない。貧乏の苦労もするだろうが僕との腐れ縁と思って辛抱してほしい。しかしいつか必ず喜んでくれる時が来ると信じている」(『一筋の道』85頁)。この思いもかけぬ先生の懇願にとまどいつつも、数日後に「京都に留まることにします」と返事して、京都に帰ります。

森 明は創立された京都共助会のために、大正13年の秋も京都伝道旅行を敢行しようとしたが、病は重くこれを許さず、翌年3月6日に天に召されました。京都に残るとの森 明との約束のいきさつを多くの人が知ったわけではなく、京都に残った方が良いとの意見の方はなかったといいます。「殆どの方が京都に残るということは森先生あってのことで、先生亡き今日君だけが残ってみても意味がないという意見が多くあった。私自身顧みて全くいわれる通り私だけが京都に留まってみても何ができるわけでもなく、そういわれるのが本当だと思った。しかし他面ただ淡々とそこに落ち着くこともできないと感じた」(『一筋の道』90頁)。そのように落ち着かない気持ちを抱えて、その夏鈴木淳平兄と国家試験準備という名目で、信州の高原に籠ることになります。その時の様子を次のように記しています。私はともかく京都に残るか、否全く自由に考えて自らの生

涯を考えるかの決着をつけねばならず、その何れがみ旨に適うかの示しをえたいというのが、私の祈りの問題であった。終日祈りと聖書とに過ごした日々であったことは確かであった。しかし未熟な信仰者にとって真の祈りということは何と大変なことであるかを経験した。少なくとも私にとっては私なりの真実をもって祈りに明け暮れしたが、神からの御示しは何ら得られなかった。ゲッセマネのイエスの御経験を引き合いに出すことはどうかと思うが、あの場合応答なきことが応答であったと言えよう。自分の如き祈りの経験、それは何と味気ない経験であったかと思うが、意外に平和な平らかな経験が与えられた。自分は京都に残ろう。その理由は極めて単純、平凡ともいえる思いであった。やがて再び先生と相合う時があろう。そんな時弁明がましいことを言わないでお会いしたいというに過ぎない。理由はどうともつけられるが何か後髪をひかれる感を免れない。そんな思いなく平らかな思いでお会いをしたい。残ることにしよう。そんな単純な思いで、心平らかに事は定まった(『一筋の道』92―93頁)。この淡々とした叙述は感動的です。奥田先生を定めているのは、再び先生にお会いする時に、弁明がましいことを言わないでお会いしたいというただそれだけであったという。これを為さしめている先生の心は、浅はかに推し量りえないことです。それを知りつつも言えば、再び先生にお会いする時ということの重い意味を思わされます。先生はこの世の生を全部縮め、飛び越えて、ふたたび先生にまみゆる終わりの時に立って、決断をされています。その時に弁明がましいことを言うまいとの思いがすべてを決しています。

奥田先生は、森先生との約束、「京都に残ります」を、フィリポ・カイザリアでのペトロのメシア告白になぞらえています。先生のその後の生涯の歩みの中で、あの森 明へ約束した自分が、カイザリアの田舎道でイエスに対して告白しているペトロと重なっていることを噛みしめていたのだと思います。そしてペトロの告白が2千年の時の隔たりを越えて奥田先生の生に重なり、またそれは終わりの究極の光で奥田先生の生を照らしているのだと思います。

2奥田先生の信仰の洞察

まず内村から学んだという「神の前に立つ『個』」ということについて考えてみたいと思います。先ず奥田先生が「神」ということについてどのように考えていたか、から始めます。先生は繰り返し語られました。「人は『神が存在することが確実であれば、信じるのだが、どうもそれは怪しいので信じられない』とよくいうが、そうした場合、その神はいつも自分の願いを聞いてくれる、自分の味方をしてくれる神を考えているが、自分は、神が人間の最大の敵だと思う」と。私はなかなかこの意味がよく分かりませんでした。「神は人間の味方ではなく、最大の敵だ」と言う言い方は、確かに意表をついた、印象深い言い方ではありますが、それで何が言いたいのかすぐにはわかりませんでした。何度もこのことは聞いてきて次第にその重要さが呑み込めてきました。先生は詩編の18:25―27を引用して語ります。「『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には清い者となり、ひがんだ者にはひがんだ者となられます』とある。大変興味ある言葉と思う。こちらの心の様如何によって神のみ顔が様々に変わるという。勿論神が変わるのでなく神のみ顔の片鱗だけしかうつらぬという。聖にして義なる神!義という中にはあわれみいつくしみも含まれているが、私には審きの神との感のする長年月であった」(『辿る』145頁)。わたしたちは客観的なものとは、私の主観に左右されず、厳として私の外に立つものと考えますが、それより前に、このような神の前にあるものとして、人間の心は作られているというのです。奥田先生は、このように、心の思いに従って、究極的なものとしての神が、或る場合には慈しみ深いものとして、その反対の場合には、怒れるものとなることのうちに、「審きの神」を長年月みてきたと語られます。それが先生にとっては、聖にして義なる神の本質なのだと思います。心が清くないと近づくことすらできない神、しかも単なる審きでなく、「神は存在しない、世界は意味なく混乱している」と映ることのうちに、その人自らの虚ろさと荒みを裁きとして滲み出さしめる義なる神です。この神を覚えて、先生は戦慄を長年月覚えてこられたのだと思います。

次に森 明から学んだことについて考えてみたいと思います。内村から示された個の強烈な意義を真に受けとめさせてくれたのは森先生だとの思いを常に奥田先生は持っておられました。「森先生は同じ神の前に立つ『個』ということであるが、私共とるに足りぬもの、弱き一人立ちできぬもの、それを一人一人心にとめ、如何にもして神の前に一人の存在としてたたしめ神に喜ばれるものとせしめんとしたか。その人が教会にとって役立つとか神学的能力があるからとか、そんな観点とちがって純粋にキリストの愛のもとその弱きもの、欠けたるものを生かし立たしめんとせられた。……内村先生を通して示された神の前に立つ『個』という信仰経験が私なりに自分の経験となり生命となるについて森先生を通して示されたキリストに在る友情ということをいわねばならないと思う」(『辿る』136頁)。森先生を通して主に在る友情を教えられたとよく言われますが、それと同時に森先生を通して、教え、信条ではない生ける信仰に基づく友愛をまざまざと見せられたということがあると思います。

奥田先生は次のように述べておられます。「兎も角私にとりましては内村先生に依って示された福音真理性が本当に私の生命となって私の中に根を下ろした其のことに付いて私は森先生に限りない感謝を捧げざるをえない」(『辿る』66頁)。

このことについて奥田先生は森 明の「真理を活かす能力」から引用して説明します。「真理は人格に密接な関係がありながら人格ではないから義務の観念だけが働けば真理は生きるものとは言へない、強いられた真理の実現には生命がない、真理は愛によって温められたることによって初めて生きて来る。愛の精神は深められたる人格的努力が真理を生かす力となるのである」(『辿る』66頁)。自らの外に客観としてある真理が真に自らのものとなるためには「愛の温め」が必要であるという。自らを内の底から駆り立てるのは、凍り付いた意志を温める愛が必要だといいます。真理が外に立つとすれば、自らの傍らに人として寄り添い、励ますものが「主に在る友情」です。奥田先生は、この愛を森先生によって具体的に示されたのだと思います。

奥田先生は、マルコ3:14の「そこで、十二人を任命し、使徒と名づけられた。彼らを自分のそばに置くため」の森先生の深く鋭い解釈の言葉を引用されます。「イエスが彼らを訓練したのは後の事業を継がせる為めではなく又伝道の機関或いは手段の為めでもない。イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである」(『辿る』67頁)。時の隔たりを越えてイエスの真近に在ることの喜びを森先生は生きられたと奥田先生は受けとめておられます。重き病を押して京都の少数の信仰の友のために、汽車によらず船によって神戸より京都に見え、京都のために地に落つる一粒の麦とならねばとの決死の旅をされた森先生の生きざまをひしひしと感じ、そこにイエスの傍らにある森先生を覚え、そのように奥田先生自身、イエスの傍らに在ることを感じられていたのだと思います。      

(日本基督教団 北白川教会員)