説教

【早天礼拝Ⅰ】到達したところに基づいて 江村悠子

フィリピの信徒への手紙3章12―16節

人との関わりにおいて、私は高い理想を持っていると思います。それは、本当に人に耳を傾けることであり、本当に共感することであり、相手の表面ではなくその人そのものに関心を持つことであり、本当に人を思いやることです。そして、自分自身を開き、他者の前で自分自身でいることです。

こうした理想は今までの人との出会い、ことばとの出会いから生まれたものです。今まで生きてきて、さまざまな出会いがありました。本当に私のことを聴いてくれる人。私について何の判断もせずにただ私の目を見つめる人。人の表面を見て笑うことを決してしない人。いつも心からの言葉を語る人。決してほかの誰かになろうとしない人。こうした方々の中には、共助会に集っておられる方々も多く含まれています。

こうした出会いは、単に相手への尊敬や「こうなりたい」という理想を喚起するだけのものではありません。それは私の心の奥を突き動かし、それまで見えていなかった世界、それまで見えていなかった自分、「本物」と呼べるものを見せてくれるものです。神様の姿や、神の国の姿のほんの一部が示されるような経験なのです。

初日の安積さんの主題講演を伺っていても、共助会はこのような出会いの連鎖がはじめから今まで受け継がれている共同体なのだと思いました。そして共助会のみならず、キリスト信仰全体が、イエス様から脈々と受け継がれる真実な出会いの連鎖によって今日まで継承されているのだと思います。

先ほど読んでいただいたフィリピ書を書いたパウロも、12節で「キリスト・イエスに捕らえられている」と表現されているとおり、キリストとの否定しようのない出会いに捕らえられた人の代表格といえます。

自分の話に戻ります。高い理想のある一方で、人との関わりにおいて、私は幼いころから多くのコンプレックスを負っています。子どもの頃の記憶は、友達と遊んで楽しかった印象よりも、打ち解けられなくて辛かった印象の方が大きいです。今でも、人から嫌われたりつまらない人間だと思われたりすることを恐れ、人の前で緊張し、自分自身を見せていないと感じることがままあります。話を聴くこと、応答すること、思いやることに難しさを感じることもよくあります。

この理想と現実の差を見せつけられる瞬間、つまり、自分はこうあるはずだ、こうあるべきだ、こうありたい、という像と違った自分に直面する瞬間が、私にとって大変辛い瞬間のひとつです。もっと言ってしまえば、自分の現実の姿について人から指摘を受けたり、直接指摘されないまでも人からがっかりされることを想像したりするとき、動揺や不安でいっぱいになってしまうことがよくあります。

現在、アジア学院の職員として2年目の夏を過ごしています。皆さんご存じのとおり、昨年は海外からの学生を迎えることができずとても人数が少なかったのですが、今年は感謝なことに多くの学生を迎えることができました。私自身も、授業を担当することはないものの、学生の世話をする場面が昨年の何倍にもなりました。

人と関わることはずっと前から自分の中の大きな関心事でした。少しばかりカウンセリングを学んだこともありました。しかし、これまで私にとって実際に人と関わる場面はあくまで私的なものでした。教育などの現場で働いたこともなく、責任を持って誰かと関わる経験は今が初めてともいえます。研修上の相談や共同生活上の相談を受けたり、グループでの話し合いの進行役を務めたりする経験を通して、自分の未熟さに直面することが多くなりました。相手の話を集中して聴いているはずが、いつの間にか自分の聴く姿勢ばかりに注意をひかれてしまうとき。頷くばかりでどう応答したらよいのか分からないとき。自分の投げかける質問が、相手への関心や本質的な批判からではなく、ただお手本をなぞったものや時間を埋めるためだけのものになっているとき。相手の様子がいつもと違うことに気づかないとき。明らかにいつもと様子が違う相手にどう近づいたらよいのかわからないとき。こうした自分に気付いたときに、多くの感情が生まれます。自分への苛立ちや情けなさ、無力感、恥ずかしさ。相手を傷つけてしまったかもしれないことへの申し訳なさ。相手からの信頼を失ってしまったかもしれないという不安。自分が周りに期待されている役割を果たしていないことでがっかりされたり、たいしたことのない人間だと思われることへの恐れ。「違う、自分は本当はこんなものではないはずなのに」と、現実の状態を否定する気持ち。

あるとき、起こった事柄自体は些細なことで、必ずしも自分に責任のあることではないにもかかわらず、あたかも自分が取り返しのつかないことをしてしまったかのように苦しんだことがありました。最初はただ相手が調子を崩していることを心配していたつもりでした。しかし、そこから相手をうまく助けられない自分を責める気持ちが生まれ、さらに、いつの間にか相手の問題よりも自分自身の問題に苦しんでしまっていることに気付きました。

その自分自身の問題とは、乗り越えたと思っていた過去の自分がまだそこにいることへの耐えがたさです。

先に述べた「本物」との出会いはとても衝撃的なもので、それによって得られるものは知識ではなく、自分自身の変革です。出会ってしまえば、以前の自分の持っていたものは捨てるほかありません。しかしそれゆえに、こうした出会いの後には、自分自身が以前の自分を乗り越えて本物になったかのように勘違いをすることがあります。パウロ風の言い方をすれば、本当はただ「捕らえられている」だけであるにもかかわらず、「既に捕らえた」「既に完全な者となっている」と思ってしまっているのです。言ってみれば当然のことですが、いくら本物との出会いによって自分の世界が広げられたとしても、すぐさま自分が本物になってしまうなどということはありえないのです。以前持っていたものを捨てたとしても、本物を捕らえることなどできず、何とか捕らえようと努めながら、自分自身は以前のまま、みじめで褒められたものではない自分のままなのです。そんな自分がいまだに存在していることが耐えがたかったのです。

このように苦しんだことで明らかになったことが、自分は本当に自分自身を受け入れてはいなかったということです。私は自分を受け入れるということを大事にしてきたつもりでした。「私は私のままで愛されている。完璧な人間ではないけれど、それは私の価値には関係ない」と信じています。そうであるにもかかわらず、実際には自分のできることやできないことに評価を下してばかりいました。

自分を受け入れられないのは苦しいことです。たとえ理想の自分になっていなくとも、その状態をただ受け止めて大丈夫と言ってあげられたら痛みはなくなるはずです。なのに、それすらもできません。すべて分かっているはずなのに、すぐにでも取り除きたい痛みを取り除くことができなかったのです。

しかし不思議なことに、今、私はその時に痛くて仕方なかった痛みを感じていません。そこに至るまでにはいくつかのプロセスがあったと思います。一つは、私の痛みを聴いて受け止めてくれる人たちがいたことです。もう一つは、自分が一体何に苦しんでいるのかにじっくりと向き合って言語化したことです。また正直なところ、単に時間の経過や自分の体調の変化によって痛みが緩和されたこともあるでしょう。そして、私の知るか知らないかにかかわらず、誰かの祈りの力が必ずあるでしょう。

私は痛みを乗り越えたのだと言うことはできません。今は感じていなくても、また何かがあれば同じように苦しむのだろうという気がします。以前と変わったことがあるとすれば、将来同じように苦しむことへの覚悟ができたということです。すぐに自分が変わるわけではないことを認めました。これをすれば癒されるというような魔法の痛み止めはないのだということも知りました。私にできることは、ただこれからも時々痛むであろう傷と共に生きていくことだけなのだと分かりました。私の記憶によれば、そのことを認めた瞬間に不思議と痛みが消えてしまったのです。自分を受け入れなければと力んでいた時には得られなかった癒しでした。

今日お読みいただいた3章16節には「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」とあります。この言葉は私には大きな励ましの言葉です。何とかして捕らえようと努めている、でもそれが本当に何なのかは分からない、そのままの状態で、自分の今立っているところに基づいて進めば十分なのです。

自分には今できることしかできないのだ、ということを覚えておきたいと思います。今の自分は、今神様が自分に与えてくださっている自分なのだと覚えておきたいです。人と関わるときに緊張を覚えるならば、「緊張してはだめだ」と思う必要はないのです。良いも悪いもなく、今自分が緊張している、それだけのことです。過去の自分を愛することができずに自分の中で争いが起きているなら、争いを起こしている自分自身を責めなくてよいのです。今の自分は争っているな、と認められればそれでよいのです。自分で何とかする必要はありません。全部、神様が一番良いときに一番良いものを備えてくださるからです。

最後に、初日の荒川さん、安積さん、朴さんのお話に共通するキーワードとして「共同体(コミュニティ)」というものがありました。私もこの「共同体」に触れて終わりたいと思います。

アジア学院での生活、今年度に入ってから特に感じているのが、「私は生きている」ということです。職員の中で、「How areyou?」と聞くと、「Good」でも「Bad」でもなく必ず「I’m stillalive」(まだ生きているよ)と答える人がいます。最初はふざけているのかと思っていましたが、今はその言葉がとても好きです。私自身も、心から軽やかに笑える日もあれば、涙が止まらない日もあります。しかし、それを良い日、悪い日というふうにではなく、「とにかく今日も生きている」と捉えたいと思わされるのです。そう思うことができるのは、自分がコミュニティの中で呼吸をしているからです。日々全力で働いて、時に人間関係に疲れ、時に傷ついたり傷つけてしまったりする一方で、日々学生たちの持つ圧倒的なエネルギーを吸って元気をもらい、人に励まされ、また命の源である土から力をもらうのです。このような日々を過ごす中で、人が本当に生き生きと生きることができるのは、自分一人の存在によってではなくて、互いの存在を分かち合うことによってなのだと実感するようになりました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)というイエスの言葉は、このことをも表しているように思います。一粒の麦の命が本当に生かされるのは、自分の命を守ることから自由になるときです。自分とは異なる、未知の、脅威かもしれない存在である土の上に身を投げ出すことで、かえって芽を出し、土と水と太陽から栄養をもらって生き、多くの新たな命を生み出すのです。イエスも、自分の命を守ることから自由だったからこそ、人に出会い、愛を与え、究極的には十字架にかかり、なおも生き生きと生きる復活が与えられ、人を生き生きと生かしました。私にとっての「共同体」は、このように互いの存在を分かち合い、共に生き生きと生かされることなのです。

(アジア学院職員 日本基督教団 桐生東部教会員)