日韓基督教関係史

韓国側資料解説2 井田泉

『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945-2010』(新教出版社、2020年)より 

■第Ⅰ部「アジア太平洋戦争敗戦から日韓基本条約締結までの交流の動き(1945-1965)

2.休戦協定成立後から日韓基本条約締結まで(1953-1965)

1919年の三・一運動とともに1945年8月の解放は、繰り返し取り上げられ論じられる課題である。長老派の『基督公報』に掲載された社説「八・一五の歴史的教訓」(1954.8.16)は「解放」が神の恩寵だと説くとともに、神社参拝問題がもたらした教会の分裂を「韓国教会の復興のための癌」と述べている。「解放後教会はどれほど量的に復興し質的にどれほど浄化されただろうか」。この社説の書かれた3年前の1951年、長老教会から「高麗派」(神社参拝強制に抵抗したいわゆる「出獄聖徒」を中心とするグループ)が分離した。日本の神社参拝強制は解放後の教会に大きな傷を残したのである。1953年には聖書解釈の違い等によって基督教長老会が分立。さらに1959年にはWCC参加の可否をめぐって長老教会は「統合」派と「合同」派に分裂することになる。

同じ『基督公報』の10年後の社説「八・一五解放一九周年を迎えて」(1964.8.15)もまた、解放の感激を想起するとともに、厳しい自己批判、社会批判を含むものとなっている。「一九四五年8月15日にわれわれは日本の魔手から解放され、胸が裂けるほどに喜び、喉がつぶれるほど独立万歳を叫んだのだった。この山河に独立が訪れたとはいったいどういうことだろう。あの醜い日本の勢力がこの地で倒れたとは夢のようだった。我々は神に感謝を捧げ喜びの讃美を歌ったのだった」(このような言葉の中に、特に日本の読者は植民地支配がいかに過酷なものであったかを思うべきであろう)。しかしこの間かん、諸施設の発展、工業の発展の中で、「それよりも大切な愛と信仰と希望を失ったのだから、われわれはもう一度我々の決意を堅くしなければならない」と訴える。そして社説は「神と人との関係、政府と国民との関係、人と人との関係が新たになり、信仰と愛と希望とで一九周年を迎えることを改めて叫ぶものである」と結ばれる。

1961年の朴正煕(パクチョンヒ)による軍事クーデター後、日韓国交回復に向けて第六次日韓会談が断続的に開かれていた時期である1962年5月、日本NCC代表3名が韓国を訪問した。『基督公報』はこれを「韓・日教会の紐帯強化を提議」(1962.5.14)とのタイトルで一面トップ写真付きで報じた。記事中、日本側が過去に対する謝罪をなしたことが何度か言及されているが、これは韓国側のこれに対する強い関心を示すものでもあろう。この訪問については、日本側に強い反対があったことが日本側資料から知られる(『キリスト新聞』1962.4.28)。

1965年2月、日韓基本条約が仮調印され、6月には正式調印がなされた。これに対し韓国のキリスト教界に激しい反対運動が起こった。7月11日、当時韓国最大と言われた永楽教会に「同胞よ、覚醒しよう!」というスローガンのもと「第二回救国祈祷会」(『基督公報』1965.7.17 のタイトル)が開かれた。記事の一部を紹介する。「この間さまざまに分かたれてきた兄弟たち7千余名が共に一つの志をもって永楽教会堂と付属建物を覆い、切なる祈祷会を持った。各教派のキリスト者がともに持ったこの日の礼拝は、韓ミョンウ牧師の司会で始まった。連合聖歌隊の賛美に続き、趙ドンジン牧師は『凶悪な現実の前での我らの祈り』という題の説教を通し、『過去に失われた主権を再び奪われる危機に瀕した我々は、奮起して立ち上がらずにはいられない』と語った」。ここで採択された「七・一一公開書簡」のうち、朴大統領宛と国会議員宛のものがこの続きに収録されている。

監理(メソジスト)教の『基督教世界』も日韓会談、日韓条約を繰り返し取り上げ論じている。メソジストの牧師であり元政府外務長官であった鄭一亨(チョンイルヒョン)は「韓日会談正常化のために教会がなすべきこと」(1964.6.1)で「信徒は個人と市民の資格としてはもちろん、教会は全ての社会悪と政治的不正、腐敗を除去する核心的努力と活動の母体とならなければならない。キリスト教が『社会正義』の唱道者また建設者であるべきだ」と強く訴えた。社説「この狂った事態に民意が踏みにじられてはならない」(1965.7.17)は「牧師はその時代、その国民の祭司長であり預言者であるから治的決断を下さなければならず、政治的ビジョンを提示しなければならない」と説き、「乱暴狼藉化しようとする議事堂に私たちの運命を任せるのではなく、私たちの崇高な明日のために牧師とすべてのキリスト者は、民意を守る勢力にならなければならない」と結ぶ。

こうした時代状況の中で、『基督公報』が尹一柱(ユンイルジュ)の「兄、尹東柱(ユンドンジュ)─彼の二〇周忌に」と題する回想(1965.2.20)を掲載しているのは印象的である。「今も忘れられないのは、ある冬休みのクリスマスの日、寒い夜明けに私の手を引いて教会に出席し、敬虔な雰囲気に浸って帰る彼の姿です」。尹東柱は韓国でもっとも愛されている詩人のひとりとされる。彼は日本留学中、治安維持法違反の容疑で逮捕され、1945年2月16日に福岡刑務所で獄死した。(日本聖公会司祭)