天国はどんなところか 和田健彦

『共助』誌4号の杉山姉による荒川姉への応答を読んだ感想を述べるようにとのことでした。

昨年80歳をとうに超えた友人から電話でジェンダーとは何かと聞かれて、おはずかしいことに戸惑ったことがありました。ジェンダー問題を確かめると、性別が社会の中で不当にとり扱われていることとなっていました。世間がこの問題に敏感になっていること、改善への努力がなされている中で、強力に変えていくことも今問われているように思いました。

その様な中でジェンダー問題に悩みながら、聖書を読み始めると、例えばアダムの骨からエバが造られたり、蛇に騙されたり、旧約聖書に描かれる女性が、あまりに愚かで卑しい者として描かれているのに驚いたとのことでした。私は子どもの頃から、天地造やエデンの園の物語はとても印象深い物語として親しんでいましたが、聖書が、どのような状況で何を伝えようとして書かれているかの解説を、本誌に載せていただけると有難いと思いました。

一方で、以上のような疑問を持ちながらも、杉山さんの文の終わりには、自分が自分をどう表現するか、また神さまの前に自分をどう表現するかではないかとも書かれています。多くの人と同じに、私もまた自分をどう表現していくかは、仕事において、また日常に於いて大きな問題です。その様な中で「天国はどんなところか」(『塚本虎二著作集 第2巻』3頁)という題で塚本虎二(聖書学者)が想像する天国観に、強く惹かれた過去があり、そのことについて述べたいと思います。

通常天国は常春の美しい所で苦がなく、そこで暮らす者には理想的な世界で、何にも煩わされることのない快適な環境を思い浮かべたりします。また地上で恵まれなかった者も天国では幸福な日々の中にあることを想像したりします。そうした中で、塚本は、天国はほんとにそのようなところだろうかと。そして真逆な天国観を想像します。文中塚本は、「ダンテの神曲の天国編をみると、すべての霊がどうしたら人にサービスができるかと、待ち構えていることが書いてある。」と紹介し、私はその動き回っている光景が、頭に焼き付きました。そして人の足を洗うことが喜びとなり、人に足を洗わせることほど辛いことはない場所であると述べ、天国では今よりももっと忙しくなるという天国観に親しみを感じました。

塚本はさらに神がどのように人間に関わられたかについて述べています。神と人との関係が完全であったエデンの園で、神への不服従のために神との交わりが絶たれたことにより、人間は楽園を追放されます。その様な中で神が人間との完全な関係をどのように体現されるかについて、マタイ20章25節以下を指摘しています。それによると神さまは地上の一番低いところにおられて、人から悪口され、踏みつけられ、しかも彼らのために祈りつつ、その敵どもの足を洗っておられるに違いない。現に神の子イエスの地上における生涯がそうではなかったかと述べ、人の足を洗う神の姿を示しています。ジェンダー問題とともに、自分が自分をどう表現するかについての感想を述べながら、人の足を洗う神の姿を改めて示されたように思いました。      

(日本基督教団 鶴川北教会員)