他者とともに生きる喜びについて 伊藤 孟
現在、日本、そして世界で排外主義のうねりが大きくなっています。このような状況において、他者の排斥に対して危機感を抱いていることは言うまでも無く、「他者とともに生きる喜び」がほとんど語られず、他者と向き合うことの負担や義務ばかりが強調される状況にも危機感を抱いています。他者との関わりが「しんどいもの」としてのみ理解され、「それほど大変なら他者を排除すればよい」「異質な存在はいないことにしてしまえ」という発想が社会に広がり、場合によっては、他者の抹殺すら正当化されかねない方向へと進んでいるのではないか、と懸念しています。また、他者を一方的に解釈し、他者の「他者性」 ― それは「わからなさ」としてあらわれます ― を捨象し、その他者性がもたらす豊かな可能性に対して、目が向けられなくなっている点にも問題意識を持っています。その結果、他者との関係は不安と苦痛だけを伴うものとして捉えられてしまっているように思います。
現代は、事実がどうであるかよりも「解釈」が先行する時代です。とりわけマイノリティ(少数派)が生きづらさを感じるのは、マジョリティ(多数派)によって勝手な解釈を押し付けられ、抑圧され、時には命の危険にさらされるからです。これを避けるため、マイノリティは圧倒的に大きなマジョリティの声に抗って自ら発言し続けなければならず、その負担は非常に大きなものです。私は、このような状況を変えるためには、他者に対する「解釈」をいったん停止し、わからないものをわからないまま受け入れる態度が重要だと思います。
一般に「他者」とは、在日コリアン、障がい当事者、外国籍の人々など、自分とは異なる属性を持つ社会的少数者を指すことが多いです。しかし、他者は決して遠くにいる存在ではなく、隣に座っている人すら他者であると思います。最も身近に思える家族や、親友でさえ、他者なのです。私たちは日常的に他者を解釈し、理解したつもりになり、評価や批判を行い、わからなさに直面すると不安を感じ、その不安から排斥へと向かってしまいます。不安による排斥は加速しやすく、「外国人はスパイだ」といった根拠のない「解釈」が、十分な調査もないまま政策決定に反映されようとしています。
こうした排外主義的傾向に対し、リベラル派や左派は「他者を迎え入れるべきだ」、「他者からの厳しい批判にも耳を傾けるべきだ」と主張してきました。しかしその言葉は、不安に寄り添わない、上から目線の一方的な説教として受け取られてしまっている現実があります。このような状況に対して、他者の迎え入れを訴える前提として、他者と向き合うことには本来、「喜び」があるという点こそ強調すべきだと考えます。当たり前だと思われるかもしれません。しかし、そんなにしんどい思いをして他者と向き合うぐらいなら、怖い言葉を使いますけれども、「もう他者を抹殺しろ」、「他者を排斥しろ」、「存在しないことにしろ」そのような言説が支持を得る時代になっています。
「いや、そんなことはないでしょう」と思われるかもしれません。しかし、例えば、デンマークでは世界で初めて、2004年からすべての妊婦に無料で出生前検査を提供しています。ダウン症など染色体に異常がある子が生まれる確率を示す血液検査と、超音波検査が実施されています。その結果現在では、90%以上が検査を受け、子どもに異常があるとわかった親の95%以上が中絶を選択しています。2019年に生まれたダウン症の子どもはわずか18人です。つまり、生まれる前に、声を発することができるようになる前に、ダウン症の子という他者は、強い言葉をあえて使いますが、抹殺されているのです。そして、これが本当に恐ろしいことですが、ニュースや問題にすらならないのです。
しかし、ダウン症当事者の方と接するときに、私は深い喜びを感じることがあります。太陽を手のひらにかざして、その太陽の暖かさを楽しまれていたり、本当に素直でいらっしゃる。嬉しいことを傍らの方と共に喜び、悲しいことをともに悲しむ、そんなお姿に接することが多いです。
競争と生産性を重視する新自由主義的社会構造が、「障がい者」を作り出しています。障がいとは個人に内在する欠陥ではなく、マジョリティの基準が絶対化されることで生じる相対的な概念にすぎません。「障がい」は、ある種のマジョリティによる「解釈」の産物なのです。マジョリティが時速40キロメートルで歩くことができる身体能力を持っていたら、時速4キロメートルでしか歩けないマイノリティは、「障がい者」とされるでしょう。つまり、本来、優劣がない、善悪など無いはずのところに、マジョリティが自己を、自分の常識、あり方を絶対化して、マイノリティ、他者を勝手に「解釈」して劣っている、「障がい」だ、と解釈するところに問題があるのです。あるいは、そういった解釈をさせる社会構造に問題があるのです。
また、他者の他者性を受け入れることが、同時に自らの内なる他者性を肯定することにつながるという点も重要です。私たちは社会の規範や常識に縛られ、それを基準に他者を解釈し、判断しています。しかし判断を急がず、他者と向き合おうとするとき、自分自身の中にも社会によって抑圧されてきた「他者性」があることに気づかされます。他者は、その他者性、つまり、異質さ、わからなさを通して、私たち自身の根底にある他者性を照らし出し、規範に縛られた自己を見直す契機となります。
具体例として、自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder、略してASD、近年はAS特性とも呼ばれます)を取り上げたいと思います(なお、AS特性についての本としては本田秀夫『はじめてまなぶ自閉スペクトラム症』(金剛出版、2025年)をお薦めします)。AS特性を持つ人々は、定型発達者とは異なるコミュニケーション様式を持ち、思ったことを率直に語ったり、身体を揺らすなどの行動をとったりすることがあります。社会の側はこれを「障がい」と解釈しがちですが、実際にはそれはマジョリティの社会的規範との不一致にすぎません。AS特性が「障がい」とされるのは、個人の欠陥ではなく、社会の側の規範や常識、解釈が作り出した結果にすぎません。私たち自身も幼少期には似たような振る舞いを自然に行っていたかもしれませんが、成長の過程で「恥ずかしい」「おかしい」として抑圧するようになります。AS特性の当事者と向き合うことで、私たちは自身の抑圧された自由な自己の存在に気づき、自己の根底にある他者性を肯定する可能性を見いだすことができるものと思われます。
さらに、障がい者福祉の先駆的実践者である糸賀一雄の事例を紹介したいと思います。糸賀は戦後の困難な時代に近江学園を創設し、知的障がい児の教育と福祉に生涯を捧げた人物です。しかしその糸賀でさえ、当時の規範や常識から完全に自由ではありませんでした。『この子らを世の光に ― 近江学園二十年の願い』第2章5節に書かれていますが、糸賀は夜尿症の児童を「治療すべき欠陥」と捉え、脳下垂体埋没手術という侵襲的な脳外科手術を行いました。しかもほとんど効果がありませんでした。この事例は、どれほど誠実で善意に満ちた実践であっても、自己の規範や常識を相対化しなければ、他者の他者性を抑圧、抹殺し、取り返しのつかない行為に至る危険があることを示しています。
他者を完全に理解し尽くそうとするのではなく、解釈をいったん停止し、他者のわからなさをそのまま受け入れ、向き合うことが重要だと思われます。そのように他者に向き合い続けていると、他者に見いだされる他者性が自己の根底にもあるが、抑圧しなくても良いと気づき、真の解放、自己も他者も生きやすい社会をつくっていくことにつながるように思います。それが、他者とともに生きる喜びであり、真の共生社会への道であると思われます。
さて、私は、この「他者とともに生きる喜び」はハンナ・アーレントという思想家の述べる「出生性」という人間のあり方に淵源があると思います。しかし、本日は、時間の都合により、詳らかにすることが出来ません。これについては、『福音と世界』2026年3月号に掲載予定の『「共生の喜び」とは何か ― アーレントの「出生性」に即して』において議論を展開予定ですので、よろしければご高覧ください。本日は御清聴頂き、ありがとうございました。(本稿は発表原稿を要約したものです。そのため一部内容に修正、省略がございます。)(京都大学大学院文学研究科博士後期課程)
