反転する時代の中で 山本 精一
「戦後八十年を省みる」というあまりにも巨大な課題に対して、限られた時間のなかで何をどう語ればよいのか、正直なところ途方に暮れています。その困惑の内にある者が、しかしその主題に関してなお何かを語らねばならないとするならば、それは、この主題に関して、自分にとって最も重要なことのみを語る、すなわち、「戦後八十年」を考えるに際して私にとって決定的な重みをもち続けている言葉、そしてそのような言葉を語った人々について語る以外にはないと思い定めてこの場に出てきました。
とはいえ、そうした行き方をとるにしても、その場合、私自身いかなるところに立って、これらの人々の言葉を重要だと考えているのか、そのことを明らかにしておく必要があります。その基本的立場をさしあたり三点に圧縮して述べておくならば、「寛容の精神」「基本的人権の尊重」「社会的少数者(マイノリティー)の尊重」ということになります。
しかしながら現在、とりわけここ数年来、世界的規模でこれらすべてを蹂躙・無化する事態の激化にわれわれは直面しています。自国ファーストを公言する権威主義的なポピュリスト政治家たちが、各国において、自国のなかの少数者たちを異質で無益な者として排除する攻撃的な言動を率先・先導しています。また、ロシア、イスラエルをはじめとして、多くの国々が、自国の生存圏・勢力圏の保全・拡大のためと称して、国際法を踏みにじった領土侵略、人間破壊、環境破壊に狂奔し続けています。それらの数え切れない蛮行は、法を無効化し、次なる蛮行を生み出しています。その悪行によって想像を絶する暴力を加えられ続けているウクライナそしてパレスティナの人々は、すべてこの地球上で今ともに生きているわれわれの同時代人です。
この状況はすべて、初めに挙げた「寛容の精神」「基本的人権の尊重」「社会的少数者の尊重」を根底から掘り崩し、それを破壊するものです。われわれは戦後八十年目の今、戦争の惨禍の中から世界が基本理念として尊重してきたはずのものが、一つまた一つと暴力的に転覆・反転させられていく事態に、グローバルな規模で直面させられています。
今からほぼ半世紀前、学生時代に参加を許された「京都東九条オモニハッキョ(お母さん学校)」で、そこに参加されていた一人の在日コリアン二世の音楽教師、朴 実さんが、ちょうど戦後40年を迎えていた1985年、オモニハッキョでのオモニたちとの学びを終えた後にもたれていた「教師会」の場で、身を切るようにしてわれわれに対して以下のように発言されました。「今日本社会では戦後40年という言葉が飛び交っている。しかし日本人の皆さんに問いたい。日本人は本当に『戦後』という言葉を語れるのか。われわれ在日コリアンは、今このときも指紋押捺義務、就職差別、結婚差別をはじめ、公然たる権利侵害と権利剥奪状態に置かれている。植民地侵略のメンタリティーを温存した日本社会の中に安穏と納まり返ったままで、果たしてあなた方は本当に『戦後』などと言えるのか。いや、われわれに対する日本社会の差別排外主義の現実を考えたとき、日本社会は戦前・戦中と何も変わっていないではないか」。この肺腑を抉る言葉は、今の今も私のうちに響き続けています。
朴 実さんが存在を賭けて発したこの言葉が問いかけてきたもの、それは日本社会を一皮剥けばたちどころに露出してくる、戦前・戦中・戦後と地続きとなっているもの、すなわち異他なる少数者を踏みにじって痛むところがない「岩盤事実」に向かっての問いかけであり、その岩盤事実からなぜ目を逸らしたままで呑気に「戦後」などと言えるのかという峻烈な問いかけでありました。これは高橋哲哉さんが語られる、日本社会の「地金」ということと深く通じているものです。
2024年12月、ノーベル平和賞受賞記念講演で、日本被団協の田中煕巳さんは、その講演の半ばで、戦後、日本政府から原爆死者に対する償いは一度たりともなされてこなかったと、二度にわたって、しかもその二度目には原稿から目を上げ、聴衆へと面差しを向け直して、恐らくこれまでの数々の受賞演説のなかではなかったこと、すなわち「もう一度繰り返します」という言葉をアドリブで発せられました。私は驚きつつ、その言葉に釘づけとなりました。その言葉は、満堂の聴衆が居並ぶ式典会場の壁を突き破り、祖国日本政府の戦後七九年にわたる国家的不作為・無応答・原爆死者への国家補償の拒絶という事実を見据え、その一点目がけて発せられた言葉でありました。「しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います」。私の耳底には、田中さんのこの「もう一度繰り返します」が響いています。この国の戦後八十年を省みるとき、そこでわれわれが真に反復想起すべきこと、田中さんの「もう一度繰り返します」は、その無数の一点を烈しく指し示しています。
かつて勤務していた大学の招きに応じて「身近な共生、世界での共生」という講演(1992年)をしてくださった大江健三郎氏は、前者「身近な共生」すなわち「家族との共生」のなかにこそ、後者「世界との共生」の基本モデルがあると語られました。御自身「平凡かもしれない」と言われたそのモデルを根底で支えていたもの、それは決して「平凡」なものではありませんでした。彼は「身近な共生」を支えるものとは、「弱さの受容と共苦」だと噛みしめるようにして語られたからです。
この講演をお聞きしながら、私は、身近な者の弱さを自分から遠ざけようとするのではなくて、むしろそれに対して鋭敏であるようにと、この一人の小説家から励まされるようにして教えられたことでした。身近な隣人の「遠い弱さ」に対して誠実な姿勢を呻き求めるとき、それが遠い隣人との共生の基本モデルになるとの言葉は、重い障がいを負ったご子息光氏との共生を希求してきた彼自身の経験に深く裏打ちされて、今も私の心に響き続けています。
最後に、ご存じの方も多いことと思いますが、森 有正について妹の関屋綾子が伝えていることをご紹介します。あるとき森が関屋の家で、関屋の幼い子どもに次のようなことを話したそうです。
小豆の小さな粒がいっぱい入った一斗缶を森が子どもの見ている前でひっくり返し、その粒が一面にばら撒かれ収拾がつかなくなってしまった。そのとき有正は「どうしたらいいか」と尋ねたという。その有正の問いかけに子どもはもちろんのこと、傍らで聞いていた母である綾子自身も虚を突かれたようにしばし返答に窮していると、有正は静かにしかしきっぱりとした口調で「いいかい、何か特別うまい方法があるのではない。そうではなくて、やることはただ一つ。その一粒一粒を根気よく拾って一つ一つ元に戻していくんだよ」と言って、小豆の粒を目の前で一粒ずつ拾い上げていった。この出来事に、関屋は兄である有正その人の生の根源的姿勢とでも言うべきものを直感したのでしょう、格別に心に残るエピソードとして書きとどめています。
人間世界は、およそ収拾がつかぬ破局的様相を刻一刻と深めています。しかしその時に私たちが立つべきところ、森はそのことを一点のぶれもなく語っています。恐れず、落胆せず、落ち着いて、朗らかに、どんなにばらばらに散り果てていようとも、その一粒一粒を黙々と拾っていく、取り戻していく。それは自分自身が、ばら撒かれそのまま捨てられてもおかしくなかった一粒であったのに、何の幸いか大切に拾い出されてきたという天来の恵みを知る者の言葉です。私は、このエピソードを思う度に、ルターの「世界が明日滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」の言を想起します。何れも、まさしく終末を見据えた言葉だからです。 この日本社会の、そして世界の硬直の根幹にある岩盤事実。しかしそれを、さらにその下側から、すなわちその岩盤事実によって苦しみを負った経験を持つ人々の、それを下から突破する言葉(朴実、田中煕巳、大江健三郎)。それに対して、その人間世界の岩盤事実を天から破砕する者の前に立って発せられる言葉(森有正、ルター)。戦後八十年を省みるとは、私にとってこれらの言葉を内に宿らせ、そして次の世代に手渡して行くために、語り、働き、祈ることの方へと追い立てられることに他なりません。
(日本基督教団 北白川教会員)
