シンポジウム発題 「イスラエルとパレスチナ問題をめぐって(2)」 高橋 哲哉
さて、「二国家解決」か「一国家解決」か、あるいはまた、その他に解決案がありうるのか。いずれにせよ、いま真っ先に必要なのは停戦です。それも、いつでも戦闘を再開するつもりでの一時的な停戦ではなく、最終的な政治的解決に向けての交渉を始めていくのに必要な恒久的な停戦です。そのために最も必要なものは何か。私は、イスラエルとパレスチナの双方が、お互いに「生存権」を明確に承認することだと考えます。オスロ合意での相互承認は破綻してしまいました。いまイスラエルは、ハマスとパレスチナ武装勢力がイスラエルのユダヤ人の絶滅を狙っているとして、ガザへの無慈悲な攻撃を正当化しています。昨年10月7日以降、ネタニヤフ首相は「Never again isnow!」と繰り返しています。「Never again」は、ホロコーストを二度と繰り返してはならないという戒めの言葉ですが、今まさにハマスが2度目のホロコーストを仕掛けてきたのだ、と言いたいわけです。昨年7月19日、米国上下両院合同会議に招かれたヘルツォグ大統領は、「イスラエルへの批判は認めるが、イスラエルの生存権を否定する勢力には絶対に妥協できない」と述べています。ハマスだけではありません。イスラエルにとって、その生存権を認めない最大の敵はイランだということになるのでしょう。ハマスは2017年の公文書で、自分たちはユダヤ人と戦っているのではなく、パレスチナを占領しているシオニストと戦っているのだと言っていますが、昨年10月24日、レバノンのTVインタビューでハマス幹部のガジ・ハマド氏はこう言っています。
パレスチナにイスラエルの場所はない」。「イスラエルを排除しなければならない」。「絶滅させなければならない」。「アルアクサの大洪水作戦は何度でも起きるだろう」。では、他方で、イスラエルはパレスチナ人の生存権を認めているのか。私たちが見ているのは、ナクバは今も続いていて、それはジェノサイドとも言える段階に達している、ということでした。イスラエルとパレスチナはお互いに生存権を認めていない。少なくとも相手にそのように思われていて、絶滅戦争も辞さないという係にあると思われるのです。恒久的な停戦の前提となるべきなのは、生存権の相互承認だと私が考える所以です。
ここで、最後に、「赦し」の問題に触れたいと思います。今回の修養会の全体テーマが「和解と赦し」であることも意識していますが、じつは私は、ショアー(ホロコースト)の「赦し」をめぐる問題について、哲学サイドからアプローチしてずっと考えてきました。私にとってとくに難問だったのは、ジャック・デリダの「無条件の赦し」という議論でした。デリダは、「純粋な赦し」(「赦しそのもの」と言ってもいいかもしれませんが)は、「条件つきの赦し」ではなく「無条件の赦し」でなければならない、というのです。ここでは、この問題についてデリダが簡潔に語った1991年のインタビューを参照します。じつはこのテクストは、「エチカの会」というオンラインの研究会で飯島さんや片柳さんとは一度共有したことがあるのですが、まだ議論まではできていなかったと思います。あらかじめ申し上げておきますと、私はイスラエル・パレスチナの「生存権」の相互承認と「無条件の赦し」とを直接結びつけようというのではありません。「生存権」の相互承認はあくまで政治的あるいは法的次元の行為であって、「無条件の赦し」(デリダの示唆を受けて私が考えるそれ)とは質的に異なります。私が考えたいのは、「生存権」の相互承認をすべきだと言えるとすれば、それは何故なのか、何を根拠にそう言えるのか、ということです。
デリダは、ホロコーストの「赦し」の問題に向き合った二人の哲学者・思想家、ハンナ・アーレントとウラジミール・ジャンケレヴィッチの議論を参照し、それらを批判しながら議論していますが、その点は時間がないので全部省きます。
まず「条件つきの赦し」から。これは分かりやすい。私たちが日ごろ語っている「赦し」はほとんどこれだからです。一言で言えば、これは「交換の論理」による「赦し」です。何らかの条件が満たされたことと引き換えに、「赦し」が与えられる。さまざまな条件の中で最も重視される条件は何か。罪人が「悔悛(かいしゅん)」することですね。罪人が非を認め、悔い改めて、二度と繰り返さないことを誓い、誠実に赦しを乞う。つまり、反省して謝罪する。無反省で謝罪もせず、罪に居直り、自分を正当化しているような罪人を赦すことは、むしろ不道徳、反倫理的なことである、これは私たちの社会の常識でもあります。のみならず、「悔悛」を赦しの必要条件とする思想は、カトリックのconfession「告解」を典型として、ユダヤ・キリスト教の歴史においても強力な伝統をなしている、とデリダは言います。また、「条件つきの赦し」の中に含まれると考えられるのが、目的のための手段であるような「赦し」です。「赦しが、たとえ高貴で精神的な(償いあるいは贖い、和解、救済といった)ものであれ、ある目的に資することになるそのつど、喪の作業によって、なんらかの記憶のセラピーやエコロジーによって、赦しが(社会の、国民の、政治の、心理の)正常性の回復へと向かうそのつど、そのつど「赦し」は〔……〕純粋ではない」。「喪の作業」とか「記憶のセラピーやエコロジー」と言われているのは、被害者が受けた心の傷、トラウマから癒され、心理的な回復、正常化を図るための「赦し」のことです。これは個人の次元だけでなく、社会的、国民的、政治的次元でもありえます。内戦や激しい政治的争いの後に「国民的和解」をめざすための「赦し」、国家間戦争や民族紛争の後のinternational な「和解」をめざすための「赦し」、旧宗主国と旧植民地の「国交正常化」をめざすための「赦し」等々。これらの「正常化」は良くないことだ、というのではなく、いや多くの場合それらは良いことなのですが、しかしそこで「赦し」が語られるとしても、それは「純粋な赦し」ではない。おそらくこういうことです。「もし正常化したいなら、赦すべきである」、「心の傷から癒されたいなら、国民的、国際的和解を実現したいなら、赦すべきである」、つまり「何らかの目的を実現したいなら」という「条件」で行なわれる「赦し」にとっては、「赦し」はその「目的」に従属する「手段」になってしまう。カント的に言えば、「純粋な赦し」は「手段」ではなく「目的自体」でなければならない、と言えるかもしれません。とくに注目したいのは、「償い」や「贖い」、「和解」や「救済」といった「目的」でさえ、「赦し」を純粋でなくしてしまう、無条件でなくしてしまう、と考えられていることです。
では、「無条件の赦し」、これを積極的に言うと、どういうものなのか。「無条件的な赦し」は、「恩寵的な、無限の、非エコノミー的な(つまり交換の論理を含まない)」赦しであると。とりわけ、「赦し」の条件として最も重要と考えられてきた「悔悛」を含まない「赦し」である。「罪人としての罪人に、改悛しない者、赦しを求めない者にさえ対価なしに与えられる赦し」であると。「罪人が改悛し、改心し、赦しを求めるという条件、ゆえに、新たな誓約によってすでに変化しているという条件、したがって、おのれを罪人にした者とはもはやすっかり同一人物ではないという条件において、私が赦すことを想像してみてください。この場合、なお赦しを語ることができるでしょうか。双方にとって、それではあまりに容易でしょう。人が赦すのは、罪人それ自体とは別の者ということになってしまうでしょう。赦しがあるためには、反対に、過ちと罪人とを、それ自体として、その両方が、悪と同じほど取り返しがつかないような仕方で、悪そのものとしてとどまり、赦しえないような仕方で、変化もなく、改善もなく、改悛も約束もなく、反復されるようなところで、赦さなくてはならないのではないでしょうか。その名に相応しい赦しは、赦しえないものを、それも条件なしで赦さなくてはならない、と主張し続けなくてはならないのではないでしょうか」。
というわけで、「無条件の赦し」とは、罪人が一切の「悔悛」なしに、罪人のままであったとしても、それを赦す。それどころか、罪人が罪を犯しているその瞬間にも、私に対して、あるいは私の家族に対して、罪を犯している場合でさえも、したがって、私の国や私の属する集団に対して罪を犯している場合には言うまでもなく、そのままの罪人を赦す、そういう「赦し」であると。そうでなければ、「罪を赦す」「罪人を赦す」ということにならないと。しかし、はたして、そんなことが可能でしょうか。たとえば、私や私の家族が犯罪的な暴力の被害をいま受けているとして、その相手を、万が一、いま直ちに赦せるとしたら、どんな場合が考えられるでしょうか。「ああ、この人は、こんな酷いことをしたくなるほど社会で痛めつけられて、追い詰められて、耐えられずに暴発してしまったのだ」とか、「自分のしていることがどんな事か、じつは分かっていないんじゃないか」とか、そんなふうに思える場合かもしれません。でも、こういう場合には、すでに無条件の赦しではなくなっています。相手の背景を推察して、それを理由に「赦して」いるからです。イスラエルとパレスチナの場合に引きつけて、こう考えてみましょう。戦争犯罪や人道に対する罪やジェノサイドがあった、民族浄化や植民地支配があった、それらを無条件で赦す、「水に流す」ことが出来るだろうか。それどころか、人道に対する罪やジェノサイドが今まさに行われている、この現在進行形の犯罪を無条件で赦すことなどできるだろうか。ホロコーストでもいいですが、日本の過去を考えてみましょうか。日本の侵略戦争や植民地支配で被害を被った人々、国々から、反省も謝罪もなく赦される、などということがありうるでしょうか。ありえません。じつはデリダも、「無条件の赦し」は「不可能なもの」l’impossible だと言うのです。問題は、では「不可能なもの」とは何か、ということです。「不可能なもの」について、なぜ語るのか。
ヒントになるのは、デリダが「赦し」を「人間的可能性」possibilité humaine として考えることに疑問を投げていることです。「赦しは一つの人間的可能性であるのかどうか、さらには一つの能力、主権的な『われ能う』〔je peux〕、そして人間の権能であるのかどうかが、結局のところ問題になる」。「人間的可能性」ではない「赦し」。人間の能力、人間が「できる」ことの範囲内にない「赦し」。そう言われると、「神の赦し」のことではないか、と考えたくなります。クリスチャンの皆さんなら、「キリストにおける赦し」ではないか、とも。「無条件の赦し」は「恩寵的な」赦しとも言われていますし、デリダがこれを「条件つきの赦し」とともに、ユダヤ・キリスト教の伝統、彼はむしろイスラムを含めて「アブラハム的宗教の遺産」と呼ぶことを好みますが、この遺産の中に見出されるとも言っているので、なおさらそう考えたくなります。しかし、デリダに対しては、そして私自身にとっても、この解釈には無理があります。デリダが特定の信仰を前提した議論をすることはありませんし、私はクリスチャンではなく、神への信仰も持たないからです。そこで私は、デリダに示唆を得ながら、しかし私自身の責任で、こう考えたいと思いました。ここで「無条件の赦し」と言われているのは、人間の「行為」としての「赦し」ではないと。主権的な「われ能う」、つまり「私」が、あるいは「われわれ」が、主体として行う力をもつ「行為」ではない何か。「赦し」というと「赦す」という動詞的なニュアンスに引きずられて、どうしても主体の行為として考えてしまいますが、そうではない何かが、ここでは「赦し」と言われている。あえて言えば、「無条件の赦し」とは、「赦す」ことよりは「赦されている」ことに近い。「赦す」主体なしに「赦されている」こと。「赦されている」というと、それでもまだ「赦す」主体を考えたくなってしまうのですが。「無条件の赦し」とは、どんな残虐非道な罪人であっても、「悔悛」しないどころか残虐非道を尽くしているまさにその瞬間でさえも、生きている限り、生き延びている限り、その生自体は無条件に「赦されている」、いいかえれば、無条件に肯定されている、そういう事態のことではないか。これが、現在のところ、私の解釈です。
私が生きているということ、私が今この瞬間にも生き延びているということは、私の能力によるものではありません。「私はできる」I can の力、主体の権能によるものではありません。私のような、神なき者にとっては、宇宙の出現以来のあらゆる偶然の結果として、今ここに私のいのちがある。私は「生かされている」。その意味で、私のいのちは「私のもの」ではない。ましてや、他者のいのちは「私のもの」ではありえず、それを「私のもの」にしようとする権利も何も、私にはない。すべてのいのちは、この意味で完全に平等であり、「生きるに価する生命」と「生きるに価しない生命」の区別などはない(ナチズムや優生思想の否定)。このような、すべてのいのちの無条件の肯定、すべてのいのちが何はともあれ「生かされている」ということ、これが「無条件の赦し」ということではないか。そして、このことがあるからこそ、法的・政治的次元での「人権」の普遍性、「人間の尊厳」の普遍性が求められ、「生存権」の相互承認も求められるのではないか。
「無条件の赦し」の解釈に当たって私が参考にしているものの一つが、滝沢克己の「インマヌエルの原事実」という考え方です。滝沢克己についてはとくに片柳さんがお詳しいだろうと思いますが、カール・バルトに師事し、この「インマヌエル」の思想を滝沢流に修正しつつバルトから受け継いだ哲学者、神学者です。私の「無条件の赦し」の解釈は、滝沢のこの「インマヌエルの原事実」を非神学的に、つまり乱暴かもしれませんが、神をカッコに入れて、神抜きで考える、というイメージです。
青野太潮さんの講演録も参照しておきます。青野さんはご存じの通り、独自のパウロ解釈などで著名な聖書学者です。「贖罪論」や「犠牲の論理」をめぐる私の議論に共感してくださり、西南学院大学での公開対談にも招いていただいたことがあります。青野さんも「無条件の赦し」について語っています。マルコ福音書3章28節には、「すべての罪も神を汚す言葉もゆるされる」と言われているのに、29節では、「しかし、聖霊を汚す者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」となっている。青野さんの解釈では、これは無条件の赦しを語り、それを貫いているイエスを否定することだけは赦されない、無条件の赦しを否定することだけは赦されない、ということだと。ただ私は、無条件の赦しが真に無条件であるならば、例外があってはならないだろうと思います。「聖霊を汚す者」さえも、その者が生きている限り、無条件に赦される、そうでないと「無条件の赦し」にならない。私がそれで思い浮かべるのは、フィクションではありますが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でイワンが語る「大審問官」物語です。あの物語の最後で、キリストと思しき者が大審問官に接吻します。あのキスに、「聖霊を汚す者」さえも赦す、「無条件の赦し」が象徴されているのではないか、ということです。
もう一つ、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』に注目すべき一文があります。アーレントは、アイヒマン裁判の傍聴記を書いて大論争を巻き起こしたわけですが、この本の最後の「エピローグ」に、自分が裁判長ならこう言ってアイヒマンに絞首刑を言い渡すだろうとして、こう書いています。「ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む ― あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように ― 政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが、君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である」。私は死刑制度に反対で、その考え方をしばしば語ってきましたが、このアーレントの言葉には、死刑の論理がナチズムの論理を含んでいることが表れていると思うのです。アイヒマンは、「この世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する権利がある」と思い上がったナチスの政策を実行したからこそ、この世界で私たちと共に生きる権利はない、というわけです。アーレントはここで、自ら否定したはずの「この世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する」という振る舞いをしてしまっています。ユダヤ人は何の罪もないのに抹殺されようとしたのに対して、アイヒマンは罪を犯した。その違いはありますが、どんな罪人であっても、ナチスの犯罪人であっても、生きている限り、そのいのちは無条件で肯定されている、「赦されている」。この事実を相互に承認し合うことこそ「生存権」という「人権」概念であり、これは個人に対しても集団に対しても保障されねばならない、と私は思うのです。「生存権」を保証したからといって、アイヒマンの罪がなくなるわけではありません。「無条件の赦し」は、私の解釈では、罪人の具体的な罪を無条件で無化するものではありません。具体的な罪は処罰されるか(死刑なしで処罰されるか)もしくは反省や謝罪などで「条件つきの赦し」の対象になるか、のどちらかです。イスラエルの「生存権」を認めることは、イスラエルが犯した人道に対する罪であれ、ジェノサイドであれ、刑事責任を問わないことではありませんし、入植者植民地主義の歴史的政治的責任を問わないことでもありません。
イスラエルとパレスチナが、相互に「生存権」をはっきり認めたならば、紛争の解決に向けた交渉のプロセスが始まります。この交渉は広い意味での「交渉」で、政治的交渉が妥結しなければ紛争は終わりませんが、個人レベルでの精神的あるいは倫理的な「交渉」のプロセスも常に存在します。これらの交渉は基本的に、「交換の論理」の世界です。私たちは「交換の論理」なしには社会を営むことができないでしょうし、公正さや社会正義といった価値を考えることはできないでしょう。しかし、これら「交換の論理」にもとづく政治的社会的な交渉の世界の前提には、常に「無条件の赦し」つまり「すべてのいのちの無条件の肯定」が意識されていることが重要です。それがなければ、過去を克服し、未来に開かれた社会をつくることはできないように思うからです。(完)
(東京大学名誉教授)