応答:他者、他者性を抑圧しないためには どうすればよいか?伊藤 孟

高橋哲哉先生のご講演に対して、以下のような応答を行い、高橋先生に再応答し頂きました。

まず、作家中村文則氏が「国がやることに反対している奴らの人権をなぜ国が守らなければならない?」「お前は人権の臭いがする」(中村文則「不惑を前に僕たちは」2016年1月8日付朝日新聞朝刊に掲載)と言われた経験を、現在の日本社会における精神状況を端的に表すものとして紹介しました。高橋先生は中村氏のような状況に遭遇した場合は「あなたのその言論自体があなたの嫌う人権によって守られているのだと言えば良いだけです」と応えられました。

次に上述のような日本社会の現状について、堀有伸「日本的ナルシシズムの深層」(ハフポスト2016年2月21日)を参照し、その背後にある病理について論を展開しました。精神科医の堀氏は、ラカン派精神分析に依拠しながら、多くの日本人において自我が確立されておらず、母子関係で生じた「幻想的な一体感」を日本全体の「幻想的な一体感」へと転移しており、その一体感から外れる者に対して集団的な敵意を感じてしまう病理「日本的ナルシシズム」が存在する、と指摘しています。個人を対象としたラカン派精神分析の議論を、日本社会にそのまま当てはめることが出来るか、議論の余地はあるかもしれませんが、この「日本的ナルシシズム」という考え方は、他者、他者性を無視、抑圧、抹殺する日本の病理を言い当てているように思われました。先の中村氏の例だと、「国がやることに反対している奴」は「幻想的な一体感」から外れる者であり、自我が確立されていない多くの日本人にとって、集団的な敵意を引き起こす存在だと考えられます。この「幻想的な一体感」から外れる者、つまり他者を、いかに迎え入れるか、そして、自らの中にも存在する「幻想的な一体感」から外れる部分、つまり他者性を、いかに肯定するか、が私たちに課せられた大きな課題だと思います。

これに対して高橋先生は、比喩的に受け取るなら頷けるが、個人についての心理的な分析を、国家や集団にそのまま反映し、当てはめることが出来るのかどうか、慎重に考える必要がある、と応答されました。また、精神分析の基本概念である、父、子、母の三者が織りなす関係性の「エディプスの三角形」は、フェミニズムや性的多様性を重視する立場から厳しく批判されており、そうした批判を受け止め、慎重に議論する必要があると仰いました。そして、他者の抹殺の究極形態は、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺、ホロコーストであり、日本のみの問題では無いため「日本的」と限定することには違和感がある、と応答されました。

次に私は、高橋先生が論争された加藤典洋氏の議論を紹介し、その背景にある日本社会の心性について議論を提起しました。加藤氏は、その著書『敗戦後論』において、自らの戦争責任を否定する内向きの自己と、戦争責任を認める外向きの自己に分裂していると指摘し、その上で、この状態から回復するために、「二千万のアジアの死者」を弔う前に、侵略戦争を行った日本の「汚れている」死者=「三百万の自国の死者」を弔う必要があると述べます。

しかし、加藤氏の「三百万の自国の死者」と「二千万のアジアの死者」という対置から抜け落ちている視座は、日本の植民地(台湾、朝鮮半島等)出身者やアイヌ、琉球にルーツを持ちながら日本軍人・軍属として戦い、死亡した人々ではないか、と私は考えました。つまり加藤氏の「自らの戦争責任を否定する内向きの自己と、戦争責任を認める外向きの自己に分裂している」という議論以前に、自己は分裂しており、他者性を内包していると思われます。それは個人においても、社会においてもそうだと思われます。日本社会は、在日コリアンの方々や、外国籍の子ども、障がい者など多くの他者を内包するにもかかわらず、その存在を無視、抑圧、抹殺している現状があります。自己が分裂していて他者性を内包していることを否定する心性の背景には、先述のナルシシズムがあるように思いました。このナルシシズムが、他者を抑圧、犠牲にする「犠牲のシステム」を再帰的に強化しているように思う、という応答を行いました。

これに対して、高橋先生から、この「二千万のアジアの死者」と、「三百万の自国の死者」という二分法は、沖縄や植民地出身者を考えたら成り立たないのではないか、という批判を当時行った、という応答を頂きました。その上で、加藤氏は、「アジアの死者」という言葉で一応考えていた可能性もある、と高橋先生からコメントを頂きました。

私は、高橋先生が『責任について』で指摘される日本社会の「犠牲のシステム」を乗り越えるためには、先生が仰るように他者への応答責任を果たすことが重要であり、さらには自己の内側の他者性を肯定することが必要だと思う、と述べた上で、他者への応答がいかなるものか質問しました。高橋先生は「私たちは、弱い立場にある人から何かを呼びかけられていて、相互的な応答責任関係に巻き込まれている」と応えてくださいました。これに対して私は「戦争においては、殺し、殺される関係に一般の人々が入ることになる。命令を受けた兵士は、仲間、味方を守るために敵を殺すことを選ばざるを得ない状況に陥る。このような状況下で、『殺すなかれ』と迫る敵、つまり他者に応答責任を果たすにはどうすれば良いか?」と質問しました。これに対しては、「一般的な答えとして述べることは出来ない。限界状況であり、単純な答えは無い」と応答されました。

私は、研修会を通して、「犠牲のシステム」による「根こぎ」(シモーヌ・ヴェイユ)に対して、個人が根づくことのできる環境、場を地道につくりあげ、自己の他者性を受け入れつつ、他者の声なき声に応答しうるような社会を目指すことが、今日極めて重要であるとあらためて思いました。

なお、研修会で朝食を先生とご一緒させて頂きました。その際、私の拙い話にじっと耳を傾け、丁寧に応えて頂きました。そのお姿と研修会での先生の誠実な応答に、応答責任がいかなるものか、身を以てお教え頂いたように思いました。

(京都大学大学院 文学研究科思想文化学専攻 宗教学専修 博士後期課程在籍)