開催報告:東京共助会例会報告(11月)
〈報告 鈴木幸江〉
- 東京共助会報告 11月17日(土)10時~12時半
- 日本基督教団 砧教会 参加者13名
「砧教会と共助会」
奨励:牧野信次氏
砧教会は1961年美竹教会の牧師であり共助会員であった浅野順一牧師が開拓伝道されて創られた教会です。浅野牧師の母は熱心なクリスチャンで植村正久や森明に仕えた人でした。浅野牧師はその感化を受けて育ちましたが牧師になろうとは思わず、一橋大学に入り、そこで三浦新七氏の旧約聖書やへブル文化史などの名講義に感動し旧約聖書を学びたいと思うようになりました。
卒業して三井物産に入社してからもその思いは変わらず3年後、京都大学で哲学を学ぶため、奥田成孝牧師と一緒に京都の下宿探しまでしましたが、信仰の師であった森明に反対され、断念して東京神学社に入学しました。そして、しっかりした信仰、伝道をするにはもっと勉強しなければだめだと思い英国、ドイツで旧約学を学び帰国し、旧約学を学問として研究するつもりでしたが、恩師である石原謙氏に「伝道はどうするのだ」と言われた言葉が胸に応え、伝道を決心しました。
32歳で伝道を始め美竹教会を設立、戦後教会員がふえ大きな教会となりました。その中に羽山和江さんという会員がいました。彼女は自身、肢体に障害を負っていましたが戦後の傷痍軍人の方たちの苦しい生活に心を痛め、彼らのために厚生施設の設立に尽力され、「友愛十字会」を世田谷区砧に設立し、また、その近くに肢体障がい者の福祉授産施設「泉の家」も設立しました。その初代理事長は浅野牧師です。
浅野牧師は牧会と同時に旧約学を研究し長年青山学院で教壇に立っておられました。教会が大きくなると同時に教会員との関係が薄くなってゆくことに心を痛め、60歳で美竹教会を辞し共助会員の上遠章氏らと規模の小さな砧教会を始められました。
牧野氏は美竹教会で浅野牧師より受洗され、青山学院神学部に通っていた頃、留守番役として砧教会に1年ほど住んでいました。日曜日は美竹教会に通い、「泉の家」で朝食と夕食をお世話になっていたそうです。
浅野牧師には5人の息子さんがおられましたが、次男はクリスマスに幼くして天に召されました。浅野牧師はその時初めて泣いたそうです。5男は小児麻痺を患い、砧の地に教会を創られたのも障がい者に対する思いが深かったからではと牧野氏は語られました。そして、島崎光正氏が信州片丘より足の手術のため上京し、その後、「泉の家」に入所し砧教会員となりました。牧野氏が青山学院にいる時島崎氏も聴講に来られていました。島崎氏は「泉の家」の保健婦であったキヌコさんと出会われ、島崎氏とこの教会で婚約、受洗、結婚式を挙げられました。
牧野氏にとって浅野牧師と島崎氏は人生の大きな出会いであり生き方を学ばされた方たちでした。島崎氏は幼い時から先天性二分脊椎症という重い障害をもち、歩くことが不自由でしたが、小学校の校長先生であった手塚縫蔵氏は島崎氏に「松は松らしく、竹は竹らしく、光正は光正らしく生きる」と語られ、島崎氏は「らしく生きる」とはどういうことなのか、考えるようになりました。また、和田正牧師との出会いから共助会に導かれ、浅野牧師の教会へと繋がってゆきました。
今回の集会は現、砧教会の金井美彦牧師も参加してくださいました。金井氏は全くキリスト教を知りませんでしたが立教大学で木田献一氏の旧約聖書に触れ、その面白さに教会に行くようになり百人町教会で受洗しました。砧教会は浅野先生の本流を継いでいる教会であることを感じると語られ、この教会に就任して5年、教会員の高齢化、伝道、宣教をどのようにしてゆくか問われている。機会があったら是非これからもこの教会を用いてほしいと話されました。また、ホームページでこの会を知ったとのことで浅野牧師の甥御さんにあたる浅野忠敏氏、佐伯邦男氏の後を継いで泉会の理事長をされた砧教会の橋向敏治氏、田辺登喜子氏は青森教会の会員で数年前青森共助会でお会いした方でした。現在は息子さんの田辺俊夫氏がいる東京に居を移し、一緒に砧教会に通われています。「共助」誌の誌友でもあり東京共助会案内で集会を知り田辺氏と参加されました。また、田辺氏は三田町子さんの息子さんを阿佐谷東教会の教会学校で教えて下さった先生でした。青山学院大学で浅野牧師の最後の講義も受けたそうです。本当に思わぬところで思わぬ出会いがあることを知らされ、また牧野氏のお話に導かれ共助会の先輩たちを思い、識らされ、感銘を受けた感謝の時でした。