説教

明日への使命に生きる 飯島 信

【2019年度夏期信仰修養会 開会礼拝】

ローマの信徒への手紙 第八章35~ 39 節/コリントの信徒への手紙一 第三章 10 ~ 17 節

私には、大切にしたい友がいます。性別・年代を超えて、幾人もの友がいます。大切にするとは、どのような事かを考えます。まず、約束を守る。そして、可能な限り、友の願いに応えることです。そして後1つ、自分が大切に思っているものを分かち合うことです。私にとっての共助会は、そのような集まりの場であり、今もそうなのです。

私は、今回、100周年記念事業の1つである『戦前版「共助」選集』編集の任を務めながら、共助会が100年の歩みを続けて来ることの出来たその理由の1端を、自分の経験と照らし合わせながら改めて知らされたように思いました。先達たちが森明について語る幾つもの言葉に出会ったからです。ここでは、その中で、小塩力、山本茂男、奥田成孝の言葉を短く紹介します。まず小塩力の言葉です。軽井沢で行われたある修養会の3日目の出来事です。

「第3日であったか、伝道者となった経験を語る、という意味の時間があった。この時はじめて森 明先生の風貌に接した。

 ややピッチの高い、モノトーンとも言うべき声音が異常な(実際僕は異常と感じた)圧力をもって僕の魂にじかにおしよせるのである。僕は、少し大げさに言えば、机にしがみついて、満面朱をそそいで迫るこの圧力に抗していた。何を言われたか、少しも分からない。殆ど理解を絶して、ただ焔のようなものが煽り迫って来るのであった。後で考えてみれば、先生が召命をうけられた経路と、伝道者たるの光栄と歓喜と使命とを、説かれたのだと思う。 しかし僕にはその時、ただ重圧と畏怖とが感ぜしめられた。

僕は、このお話が機縁となって信者となり伝道者になった、とは言わない。しかも、生涯忘れ難い出来事であった。そして、今、あらためて伝道者の光栄がいかばかりであるかを思うのである。その業の労苦、その果ての敗惨にも関わらず、僕如きものも優秀な学徒青年の前にあえて立って、ぜひとも伝道者たれと訴えざるを得ない心地がする。極言すれば、伝道者でなければともに談ずるに足らぬ、とさえ思うのである。

この思い出の修養会に叫ばれたときの先生の齢を、自分は恥ずかしくも越えたらしい。」(1938・7・20)

小塩は、「異常な圧力をもって僕の魂にじかにおしよせる」森の言葉に接した時、「机にしがみついて、満面朱をそそいで迫るこの圧力に抗していた」と言うのです。そして、「その時、ただ重圧と畏怖と」を感じたと述べるのです。小塩のこの言葉を受け止めつつ、私は山本茂男次の言葉が、私の心をさらに森に引き寄せて行きます。

戦前版『共助』第13号に掲載された山本の「森先生を始めて識りし頃」の最後の箇所です。「自ら抱く罪の苦悩のただ中に」あって、大学の学びからも教会からも離れ、「孤独と静寂とを求めて」引きこもっていた山本を、森は探し、そして訪ね当てます。山本は、森と2人対坐して語った思い出を語りつつ、自らの胸に蘇る森の次の言葉を記すのです。「かつて罪を悔い改めた1人の友に対して『君が世界中の人に捨てられても、私は最後まで君の味方だ』」と語った森の言葉をです。何と言う言葉かと思います。「君が世界中の人に捨てられても、私は最後まで君の味方だ。」人と人との関わりの中で、このような言葉が有り得るのかと思うのです。その人を見ていたら、それは出来ないと思います。それでは、なぜ森 明は、このような言葉を語り、そして山本は、森との思い出を語るにこの言葉を胸に蘇らせたのでしょうか。この時、私は、奥田成孝が語った同じく戦前版『共助』第4号の「魂の人 森 明先生」中の一文が胸に迫るのを覚えます。奥田は、森明との交わりを次のように述べています。

「確かに……イエスと弟子との人格的な交わりの経験を、ある意味で先生と私共との間に経験せしめられたと言う事が言えると思いますが、決してそれは森先生中心に事がとどまらなかったと言うことであります。……絶えずキリストの聖愛に対して自らを聖別された先生との交わりは、いつしか先生の姿は背後に退いて、私共の魂の面前にはキリストの姿があざやかにならしめられつつあったと言うのが私共の経験であったのであります。」

 

森 明が、「私は最後まで君の味方だ」と言う時、森が見ているのはその人ではなく、キリストであると思いました。「君がたとえ世界中の人に捨てられても、キリストは決して君を見捨て給わない」。森にはその確信が与えられていたからこそ、この言葉が言えたのです。それは、森にとってのキリストであり、キリストにとっての森でした。友の後ろに、その友を愛し尽くされるキリストを見る。そして、森は、自分の出会った友たちに、そのキリストを紹介せずには止みませんでした。

しかし、森の伝道はそこで終わりません。キリストを紹介し、キリストに出会った友に、次に、この時代と世界に責任を持つ神の事業の同労者となることを呼びかけます。ある者は伝道の働きにおいて、ある者は研究や教育の働きにおいて、ある者は実業の働きにおいて、またある者は家庭の働きにおいて、この世に建設する神の国の同労者となることを願いました。その願いは、友の魂を執拗なまでに追い続けるものでした。

 

妬むほどに、友の魂を執拗なまでに追い続ける。それは、森自身が、キリストによって、彼の魂を捕らえられていたからです。執拗に、妬むほどに、キリストに愛されていたからです。キリストに愛されていることを知っていたからこそ、その愛を、友に伝えずにはいられなかったのです。自分が友を求めているだけではありません。キリストが友を求めておられるのです。あのキリストが、友を求めておられるこの時代と世界に責任を持って生きる友を求めておられる。そのことを知らされている森にとって、命が削られても、そのキリストを友に紹介し、キリストの成そうとしている業に与ることを呼びかける、それは森の喜びであり、言葉では言い尽くし得ない光栄ある事でした。

共助会は、この時代と世界に責任を持とうとする者の集まりです。時代に責任を持つとは、歴史を生きる者としての自覚です。自分の生を、この日本の歴史の中で、しっかりと位置付けて生きる事です。自分がまだ生を受けていなかった過去の事は自分とは関わりが無いのではなく、その過去の歴史をも背負って生きる、それが時代に責任を持つことです。世界に責任を持つとは、平和を造り出す者となる事です。平和とは、ご承知のように、戦いが無いことだけを意味するのではありません。人々の心の裡に、それぞれの心の裡に、平和を造り出す働きを厭わずに担うことです。平和を造り出すには、そこで生きる人々が語る言葉を聞かなければなりません。限りなく小さな声をも聴き取らなければなりません。平和とは対極にある、苦しみの内に在る人々の声をも聞かなければなりません。そして、その声に応えるのです。それが平和を造り出すことであり、世界に責任を持つことです。

何もかも出来るわけではなく、それぞれが遣わされた場に在って、自分に許されたことをするのです。このような、この時代と世界に責任を持つ者たちが集まり、我が罪を負って下さっているキリストを紹介する、そして、私たちの成せる小さな業が、この地に神の国建設の働きに与ることを祈り求める。それが、共助会です。

100年を省みて、共助会の犯した過ち、今なお問われている課題にも触れたいと思います。3点、お話しします。①みくに運動、②熱河宣教、③ハンセン病との関わりです。

①みくに運動について

森 明の後を継ぎ、中渋谷教会牧師となった今泉源吉がみくに運動を始めたのは、1935(昭和10)年のことでした。すでに中渋谷教会牧師を辞し、共助会とも距離を置いてから6年の時が経っていました。初めは、今泉との関わりから、彼と行動を共にした共助会関係者もいたようですが、彼が本格的にみくに運動を始めてからは、共助会は山本茂男委員長自ら筆を執り、彼の運動を厳しく批判する文章を戦前版『共助』誌に掲載しています。私は、今泉が行ったみくに運動によって共助会が問われているのは、日本におけるキリスト教の土着化の問題であると思っています。その問題は、日本の天皇制とも深く関わります。みくに運動の教えは、キリスト教とは相容れない異端であったことはその通りです。しかし、この運動を生み出した土壌は紛れもなく日本であり、意識するしないに関わらず、私たちの精神のどこか深くに根差している天皇制なるもの、その問題こそ、みくに運動から私たちが問われているものあると思うのです。即ち、私たちの日本社会に根付く天皇制と福音の土着化の問題を、時代を越えて私たちに問うていると思うのです。

②熱河宣教について

共助会も担った戦時下の中国・熱河省への伝道が、軍部の3光作戦に手を貸し、中国の人々の苦しみを放置するものであったとの批判が、2011年9月にいのちのことば社から出版されたブックレット『日本の植民地支配と「熱河宣教」』によって公にされました。しかし、大学時代の先輩が語った忘れられない言葉があります。批判は、相手の最も優れた所を批判するのでなければ意味が無いと言う言葉でした。私は、その通りだと思います。相手の最も優れたところを批判するのでなければ、批判は、批判する方もされる方も、結果として何も残らない不毛なもので終わると思うからです。そのような意味で、この秋に出版を目指している『戦前版「共助」選集』の沢崎堅造の「広野へ」の文章をぜひお読み下さい。そこには、熱河宣教に命を掛けた沢崎の祈りと願いが漲っています。

批判したブックレットが出版されてから2年後の2013年秋、京都で行われた京阪神修養会で熱河宣教のことが取り上げられました。そして、2014年3月発行の『共助』第2号にその内容が載りました。すると、それを読んだある方が次のようなコメントを寄せられました。

 「『共助』感謝をもって拝受、早速通読いたしました。(ブックレット)執筆者らの提言(批判)を1応は受け容れていますが、結局のところ『信仰と人権(人間の尊厳)の乖離という問題』には迫っていないという感想をもちました。信仰に酔って戦争『被害者』を見失っては『伝道』になりません。お礼かたがた直言いたしました。3月2日」

 

つまり、熱河への伝道は、軍部が行った残虐行為から被害者(中国民衆)を助けることをしていないので、伝道の名に値しないと言うのです。私はこのコメントを誠実に受け止めたいと思います。その上で、次のように思いました。大情況から見れば、熱河は日本軍の3光作戦の舞台であったことは間違いないと思います。しかし、その日本軍に直接抵抗したか否かによって、熱河における伝道を意味づけることには同意出来ません。私たちが知り得る情報は限られています。沢崎の行動を知る手掛かりも限られています。彼が3光作戦を知っていたか否かも分かりません。しかし、確かなことがあります。沢崎の伝道によってキリストと出会った中国の人々が何人もいた事実です。その出会いの事実をも「信仰に酔って戦争『被害者』を見失」った「伝道」と呼び、そのようなものは「伝道」の名に値しないと言う批判は、伝道とは何かに関する考え方が、私とは違うものを感じるのです。肉的=社会的諸条件への取り組みを伴った救いでなければ、霊的な救いは虚しいのかと言う問いです。

③ハンセン病について

この問いは、ハンセン病に対する問題とも関わりを持ちます。共助会は、ハンセン病と深く関わって来ました。やはり『戦前版「共助」選集』に載っている原田季夫は、瀬戸内海に浮かぶハンセン病療養施設である長島愛生園で、その生涯を閉じて行きます。極貧の生活の中で生涯を閉じた彼が手1に遺した財産は、本当にわずかでした。原田は、全国の療養施設の中で、初めてハンセン病者を受講生とした神学校を設立します。長島聖書学舎と呼ばれ、第2期まで続き、牧師を世に送り出しました。今、ハンセン病と関わった人々に厳しく問われていることがあります。それは、次のような事です。ある方の書いた文章から引用します。

 

「ハンセン病療養施設に飛び込み、医師として、あるいは看護師として、自分自身の生涯を賭けて病と取り組んだ多くの人々がいます。又、仏教の僧侶として、カトリックの神父として、プロテスタントの牧師として、故郷を断ち切り、名前も捨てたライを病む人々に寄り添い続けた者たちがいます。しかし、それら全ての善意ある行為、特に宗教者のそれは、『信仰によって現実を耐え忍ぶことを強いて、結果的に』国策としての隔離政策に協力してしまったのではないかと言う問い返しです。さらに1歩踏み込んで言えば、医師の、看護師の、僧侶の、神父の、牧師のなすべき仕事は、究極の人権侵害である隔離政策の問題点を明らかにし、病む人々と共に国策を打ち破る闘いに立ち上がるべきではなかったかと言う問いです。」

私は、先の熱河宣教にしても、今述べたハンセン病に関わった宗教者に問われている問いについても、同じ問題を覚えるのです。それは、先ほども述べたように、肉的=社会的諸条件への取り組みを伴った救いでなければ、霊的な救いは虚しいのかという問いです。私は、たとえ、肉的な諸条件は伴わずとも、霊的な救いは決して虚しいとは思いません。それどころか、霊的な救いを伴わない肉的な救いの限界を覚えるのです。私は、肉的な戦い、即ち社会的諸条件との戦いを否定しているのではありません。その戦いの大切な意味を、又その困難さを10分に認めつつ、さらにはその諸条件を克服する戦いに私自身も参与しつつ、それだからこそ、霊的な救いを伴わない肉的な戦いの限界を覚えるのです。

先の熱河宣教の問題に戻るならば、沢崎が日本軍の犯している過ちを肯定し、自ら進んで日本軍に手を貸していたのなら別です。しかし、そのような行動を沢崎が取っていたなら、中国の人々は沢崎を受け入れなかったと思います。沢崎は、伝道のために中国を訪れたのであり、日本軍に対する反軍闘争のために熱河に行ったのではありません。何よりも、1人でも多くの中国人がキリストに出会うことを願い続け、最後はソ連軍によって殉教の死を遂げました。決して「信仰に酔って戦争『被害者』を見失っ」た「伝道」ではありまんでした。伝道とは、肉的な救いを視野に入れつつも、霊的な救いを第1の課題とすることです。それが伝道です。さらに言えば、肉的な救いとは、銃を取ることだけではないと思います。

また、宗教者のハンセン病との取り組みに対する問いかけに対しても、私は次のように思います。宗教者の役割は、悲しむ者を慰め、疲れている者を癒し、その重荷を下ろさせ、そして生きる希望と力を与えることが何よりも優先されると。「究極の人権侵害である隔離政策の問題点を明らかにし、病む人々と共に国策を打ち破る闘いに立ち上がるべきではなかったかと言う問い」を受け止めつつ、それを克服る戦いに立ち上がらなかった宗教者のハンセン病との取り組みを、私は厳しく批判することは出来ないと思うのです。人それぞれには、出来ることと出来ないことがあります。しかし、批判の矢面に立たされている宗教者それぞれのハンセン病への取り組みが、真実に善意から行われていたのであるなら、その人自らの責任において神の前に立ち、神のみがそれを「吟味し」、裁くのだと思います。

国内外に噴き出している困難な問題の中で、キリストを友に紹介することを第1とし、時代と世界に責任を持とうとする私たちの歩みが、これから先、なお神によって許され、導かれ、御心に適う祝された歩みとなることを切に祈るのです。

祈りましょう。         (日本基督教団 立川教会牧師)