追悼 「福田佳也さんを偲んで」 川田 殖
2024年6月4日福田佳也さんが亡くなった。享年86歳。2020年の『共助』第7号「私の歩み」に共助会との関わりが寄稿されている。ここではご生涯のアウトラインを年代順に記し、いくつかのことを(私見を交えて)つけ加えよう。
・1937年12月23日 福田正俊・千恵子ご夫妻の次男として東京都新宿区に生まれる。(長男正博、長女宣子、三男啓三、四男正隆)。小学校時代から代田教会へ(小川治郎牧師)。
・1951年 明治学院中学に入学。
・1956年 同学院高等学校卒業。
・1956年 同大学に進学。経済学を専攻。1960年卒業。
・1960年 第一銀行に就職。堀留支店を振出しに、本店営業部、虎の門支店など東京勤務。取引先係、貸付係、特に外国為替係を担当。
・1967年 林紀き みこ壬子、〔戸籍名公代〕と結婚。一男二女をもうける。(長女千津子68年生、次女友紀子70生、長男淳一71生)。
・1971年 大阪支店に転勤(第一銀行は日本勧業銀行と合併。第一勧業銀行となる)。
北白川教会時代(〜1977)(奥田成孝牧師)
・1974年 京都支店に転勤。
・1977年 麻布支店に転勤。次長(副支店長)。根津支店、四日市支店(単身赴任)。本店検査部、金融財務部へ。77年以来代田教会に復帰(北島敏之牧師)
・1984年 日本グラクソ(英国の外資系製薬企業
栃木県日光市今市)に出向(単身赴任 総務部長兼財務部長)。
・1988年 第一勧銀本店 総務部参事(支店長格)。東京商工会議所傘下の「東京ファッション協会」に出向。日本ファッション協会設立。
・1991年 小松自動車工業(株)に出向。
・1992年 第一勧銀退職。
・2000年 日本聾話学校事務長(〜2006)。
・2006年 日聾退職後、代田教会( 平野克己牧師)長老として奉仕。隅谷三喜男先生の「キリスト教講座」の講演を『日本の「信徒」の神学』『隅谷三喜男、信仰のことば』『隅谷三喜男、信仰の世界』の三巻に編集。
・2018年 旅行記『私の海外の旅1979―2015』(2018)。自分史『横糸のわざー信仰と社会のはざまで』(2020編集製本福田啓三)著作。
以上は佳也さんの自分史からの抜き書きである。表題にあるように佳也さんはご自分の教会を中心とした信仰生活を縦糸としご自分の職場を中心とした社会生活を横糸として生活全体を織物と見なした生き方が自分史の着眼点であるとしている。いいかえれば信仰というY軸と社会というⅩ軸との間に生活のいちいちを位置づけるということで、社会に生きるキリスト者のあり方のひとつの典型と言えるであろう。
私は1953年、当時信濃町教会牧師・東京神学大学教授であられたご父君正俊先生から洗礼を授けられ、ひと方ならぬお世話になり、しばしばご自宅にも伺い、弟君啓三さんとも親しくしていたが、佳也さんに「出会った」のは佳也さんの大学4年の時、啓三さんと一緒に京都に来られ、北白川教会に奥田成孝先生を訪ね、黒瀬健二さんとも友達になられた時だ。以来50年、思い出は尽きないが、そのいくつかを印象的に記すことで、詳細はこの本に譲りたい。
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佳也さんは信仰の系譜としては植村正久、高倉徳太郎の流れを汲むご父君とそのご親友代田教会の小川治郎先生と京都北白川教会の奥田成孝先生、晩年には代田におられた隅谷三喜男先生の感化が大きいと思う。教会生活の根本「まず神の国とその義を求めよ」との信仰を社会生活の中で貫くことは ― ことにこの日本の社会では ― 容易ではないが、佳也さんは、週ごとの礼拝での派遣讃美歌「心に愛を豊かに満たし日ごとのわざに遣わし給え」(讃美歌21・88)を祈りとして、地道にしかも着実に実践した方だった。
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家系的にも母上は、植村門下の羽仁もと子の自由学園の出身。高倉徳太郎の信仰をよく理解し、教会員の面倒をよく見られた方で、地味な奉仕をする温い方だった。(そのいちいちは啓三さんの手になる『主のはしためとして ― 回想の母千恵子』〔1998〕に委曲を尽くしてある)。私などもいくたびお手製の焼リンゴをいただいたことか。佳也さんの姉上宣子さんが、同じ植村門下の河井道の恵泉女学園に学ばれたこともこの信仰の線上にあろう。
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佳也さんの小学校低学年の時は戦争の只中慌しい生活であったが、高学年は世田谷の桜小学校、中高・大は明治学院。高校時代は共助会員の原田昴先生の影響を強く受け、大学時代は経済思想史の権威大塚金之助先生の少数ゼミで学問的にも人格的にも最上の訓練・薫陶を受けられた。それが実業の世界に出た後も確実に生きているとともに、後年隅谷三喜男先生の仕事をされた時にも大きく生きていると考えられる。
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結婚と家庭生活 お相手は私の恩師神田盾夫先生の事務室の林紀壬子さん。恵泉中・高・短大の卒業生。なんと佳也さんと同じ代田教会青年会員。神田先生の名代としてこの話をもって行った私のほうが驚く始末であった。当然話はトントン拍子に進み、翌年春にはご結婚。前記のように3人のお子さんを与えられ、ご長女はその後慶応大学文学部、第一銀行行員生活2年を経てフリーライターとしてご活躍。長男淳一さんは足利工大を出てフジオーゼックス(株)に入り、豊富な海外経験を積み活躍しておられる。なお佳也さんはご結婚の折りに神田先生の創唱になるペディラヴィウム会と基督教共助会に入会された。
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この幸せな結婚生活の中での痛恨事は次女友紀子さんの逝去である。先天性の心臓病の手術を受けた京大病院で1977年10月21日友紀子さんを失ったご一家の悲しみはここに書くに忍びない。教会、幼稚園は勿論、成功を願って輸血を提供した当時の大阪医大生北川恵以子さん方の悲しみも大きく、ひたすら祈るばかりであった。佳也さんは翌年『赤いほっぺ― 友紀子の思い出』を書き上げると共に北白川教会の子どもたちのために「友紀子文庫」を申し出、以後40年に亘って図書費を送りつづけた。後年北川さんがウガンダへの医療奉仕に献身した時にも積極的に協力してくださったことも忘れられない。
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幸いなことに私は佳也さんと日本聾話学校で奉仕を共にした。無能校長としての私を扶け⑴ 広報誌の編集、⑵ 財政基盤の改善、⑶ 校舎の補修、耐震工事など、どれも難しい課題を関係者の理解と協力を得て着々と成し遂げた。中でも⑴ の『聴覚主導の人間教育』の内容は抜群で、日聾の教育の中心を分かりやすく解説し、その意義と必要性を内外に示し、生徒数の確保と寄付金の増加に大きな役割を果した。その他図書室の新設、歴史教育資料センターの創設にも尽力し、子どものためにも社会のためにも喜ばれる施設を開設した。私自身の予想を超えるこれらの大業を『横糸のわざ』では実に淡々と記している佳也さんの姿を見て、それまでのお仕事にもいかに大きな力を注がれたかを推測することができた。口説の徒ならぬまことの「実業人」としての重みを如実に感じさせられて敬服にたえない。恐らくこれは私一人のみの感慨ではないだろう。このような中でも「忙中閑あり」。佳也さんは春・夏の休みを利用して5年間に10回もの海外旅行をなさっている。
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上記広報誌の編集とこの外国旅行は単なる趣味以上のもので生来の執念とでもいうべきものと思う。すでに教会学校時代に「からしだね」と題する雑誌をつくり、大学時代には新聞部で活躍し、大塚ゼミナールのUnter den Linden(菩提樹の陰)は高度な学術誌の風格をそなえている。『赤いほっぺ』や『横糸のわざ』には言及したが、教会のためにも『代田教会60年史』をはじめ、各種の出版物、ことに前掲の隅谷先生の講演集3冊はすでに定評あるキリスト教書の必読書となっている。これらはすでにプロの編集者はだしの実力の産物である。(福田家には啓三さんを見ても千津子さんを見てもこの遺伝子があるか)。
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旅行については佳也さん自身の手になる『私の海外の旅 1979 ― 2015』(2018)がある。そこには40年間に40回に及ぶ外国旅行の記録が多くの写真と共に収められて実に面白い読物になっている。その範囲は殆ど全世界に及び、佳也さんに広い視野と異文化への理解を与え、人間としての広さ、高さ、深さをつくる土台となっていることを思わせる。しかもこれらの旅行には紀壬子さんはじめ千津子さん、淳一さん一家(久美子さん、小夏さん、彩夏(あ やか)さん、隼利(は や と)さん)が随時参加していてほほえましい。自分だけの楽しみではないのだ。
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すべて事をなすには協力が必要である。たとえ一人でいる時でもその背後には見えざる協力がある。佳也さんの生涯にも多くの協力者があった。すでに触れたよき師、よき友のほかにも、たとえば信仰の友としての柏原啓一東北大教授ご夫妻や、仕事を通しての近藤克彦第一勧銀頭取など、枚挙にいとまがない。しかし何と言っても最大の協力者が紀壬子さんだったことはいうまでもない。佳也さんと紀壬子さんとの結婚、新家庭については前に話したが、琴瑟(きんしつ)相和する一致協力があったことも勿論である。
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しかしその協力は決して楽ではなかった。佳也さんは1968~1971年をご自分の「疾風怒濤」の時代と名付けておられるが、紀壬子さんにとってはこの時期がその始まりであり、「留守を守りつつ、子供の世話と義父母のケア、精魂尽きるような日々」(前掲自分史145頁)はその後長く続いたに違いない。慣れない大阪の生活、京都での悲劇、帰京された後の多事のため、体調不良、脳の発作を起こして通院その他で入院という結果を惹き起した。2014年秋には深夜突然倒れ、半年の入院ののちもリハビリ生活を続けておられる。最大の協力者には最大の苦労があった。これを思うと今なお胸が痛む。この中で千津子さんがどんなに大きな力になってこられたか、感服にたえないが、ここにも無言の犠牲が払われていたのではないかと思いあわされる。
しかし福田家には闇ではなく光が支配していた。苦労も多かったが楽しみもあり、涙もあったが笑いもあった。この家には「なんじら世にありては患(なやみ)難あり、されど雄(おお)々しかれ(安か)、われすでに世に勝てり」 (ヨハ16:33)とのイエスの呼びかけと祈りがあった。
このような消息の証しとしてのご遺族の上に、今後も主の導きと励ましを切に祈る。(2025・4・18・主の受難の日)
(日本基督教団 岩村田教会員)